優秀賞

「夏の残り火」

法学部 法律学科 4年次生 森本 太郎

審査員講評

 今回の審査にあたって重視したのは、「読み手の心を動かす文章であるかどうか」という点である。本作品はまさしくこの点を満たし、審査員に共感と感動を与えてくれる文章であった。地域そのものがアーティストであるという斬新な発想のもと、特に「まち灯り」当日の情景が、文学的ともいえる筆致で優美に描かれている。子どもたちの手づくりの灯籠の数々がそれぞれの個性を放ちながらしっかりと存在感をアピールしている様子や、老若男女を問わず地域の人々がその場に集い談笑している様子がありありと目に浮かぶ。筆者の描くこの地域の「あたたかさ」は、読む側の心をもあたたかくしてくれた。「夏の残り火」というノスタルジックなタイトルも素晴らしい。夏祭りを思わせる人々の熱気と、夏の終わりを象徴する幽玄な空間とのコントラストが巧みである。地域コミュニティーの崩壊が危惧されている現代において、地域の今後のあり方についても考えさせられる文章であった。

作品内容

「夏の残り火」森本 太郎

 正直に言えば、このエッセイを書くにあたっては、「好きなアーティスト」というテーマを与えられて、少し悩んだ。書きたいことがないからではなく、いまだから書いておきたい、そうしたテーマを探ろうと思った。好きなアーティストは各分野にいる。音楽でいえば、ロックバンドのスピッツ。俳優もそれに含まれるのであれば、先日の急逝が本当に惜しまれてならない緒形拳さん。作家では重松清さん。――それぞれ非常に有名な方たちであり、いくらでも語れる自信もある。それでも敢えて、今回は無名のアーティストたちについて綴ろうと思う。無名だけれど、無名だからこそ、その地域でしか語ることのできない、だからこそいまの私にとっての特別なアーティストである。

 私が現在の家に引っ越してきたのは小学校4年生の春だった。当時、「転地学習」という一泊二日で外泊する学校行事があって、その行きは旧宅、帰りは新宅だった、と記憶しているから、ゴールデンウィーク前になるはずだ。引っ越し自身について言えば、最初から希望や喜びに満ちあふれて、胸を躍らせていたわけではない。前の家より却って不便になってしまったこともたくさんある。けれども、ここはここで、決して悪いところではない。最初は、やれ学校までが遠くなったの、やれ友だちの家と離れてしまったの、買い物が不便になったのと、あれこれ文句も言っていたように思うが、住めば都なのだろうか。いつの間にか、その不満も消えていった。もとは旧街道が南北に走る地域に栄えた「古い村」である。そのため、なのかは判らない。けれども時折、地域の「あたたかさ」とでも言うべき、情緒と人情にも触れることができる。そのあたたかさに気づいたのは、いったいいつからなのだろう。かつては気にも留めなかったものが、夏を前に就職活動を終えた私にはなぜか、非常に愛しく思えるのである。

 その私が住まう地域では今年の9月半ば、あるイベントが開催された。地域の景観形成協議会が主催し、1000を超す灯籠で旧街道が彩られたそれは、「まち灯り」と言うらしい。夜になれば虫の奏でる声とも相まって、非常に幻想的で情緒あふれる催しだったが、特筆すべきは、それぞれの灯籠が地域の子どもたちの描いた絵で飾られていたことであった。

 私は灯籠の前で立ち止まり、それらを一つひとつ眺めてみた。小鳥やクマ、犬や猫など動物を描いたもの、草木を描いたもの、家族を描いたもの、等々さまざまな絵があった。色彩にしても、色鉛筆や色マジック、絵具で塗られたものから、千代紙を切り貼りして張り絵にしたものまであって、多彩と言うしかなかった。それらの灯籠のほのかな灯りが旧街道や、それと交わって流れる川、復元された水車小屋を照らしている。

 それだけでも、何やら美術展を観賞している気持ちにもなって満足だったが、それ以上に心地よく思えたものは、その催しに集った人たちの姿であり、声であり、表情であった。

 自分や友だちの描いたものを見つけて、はしゃぎ回る子どもたちや、我が子の灯籠を探そうとするお父さんお母さん、夫婦での散歩がてら、灯りを楽しむおじいさんおばあさんの姿もあちこちに見えた。どの顔も明るかった。少年少女はそのあり余るエネルギーのままに駆け回っていたし、年老いた夫婦は何か遠くを懐かしむような表情をしていた。疲れたと言って駄々をこねる幼子と、それをあやす母親の姿すら微笑ましかった。「せっかく自分の描いた絵が見つからない」と泣き出す妹に、「お兄ちゃんが見つけてやるから」と言って懸命に四方八方を探し回っている少年に、そっと声援を贈りたくもなった。――それらの積み重ねがいっそう、灯りをあたたかくさせているように思われた。当初は2、30分で帰るつもりだった私だが、ついに1時間以上も歩いて回ったのも、きっとそこに理由があるのだろう。 主催者側も工夫を凝らしている。スタンプラリーやビンゴ大会を開いて子どもたちを飽きさせないようにしていた。地域の振興や再生といったものに賭ける意気込みが、こちらにも伝わってくるかのような熱の入りようであり、その表情もまた輝いて見えた。 そこまできてようやく、この地域そのものが、この情緒と活気あふれるアートを創り出していたのだと気づいた。私が感じた地域の熱の一端が、こうしたところにも表れていたのだろう。――それはさながら、夏祭りのようにも見えた。 だから、と私は思う。

 あの「まち灯り」は、夏の残り火だったのかも知れない。

 そのころ、既に9月も早や半ばに入っていた。朝晩は肌寒い日もあり、風の運ぶ虫の声が心地良く感じられ始めた時期だった。秋の足音が確かに届いていた。

 暑かった夏が、終わろうとしていた。

 今年も、いつものように過ぎ去った季節のひとつであったが、ひょっとしたらそれは、私にとってこの町で過ごす、最後の夏、だったのかも知れない。

 いよいよ本格的に、あたたかな灯りの恋しい秋の風が吹くのだと、そう思いながら、そのままもう少しだけ、静かに残り火の消えていくさまを見届けた。

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