入賞

「全日本大学女子駅伝優勝という夢に向けて」

法学部 法律学科 4年次 陶山 春日

審査員講評

 昨年の全日本大学女子駅伝8位という屈辱的結果を契機に、今までの実績や伝統を捨ててチームを変革していく過程が活き活きと描かれていた。
 そして優勝という目標への想いがストレートに表現されていないことが、逆に彼女の熱い希望として伝わってくる。
 ひとつのスポーツに打ち込むことの難しさや素晴らしさ、キャプテンとしてリーダーとして行動することの労苦や喜び、人生の節目節目での運命的な出会いとそれに真剣に立ち向かう姿勢、など一般学生が経験できないことをひとつひとつ心の襞に刻んで大きく成長してきたことが伺えるエッセイであった。
 このエッセイを先に読むという機会をえたことで、11月23日の全日本大学女子駅伝では優勝という夢に向けて快走する京都産業大学陸上部の部員と同じ擬似体験をすることができたことは一審査委員としても幸せだった。
 結果は惜しくも2位であったが、陶山さんが最後に述べている「4年間で最高の思い出となる輝ける瞬間をつかみたい」という夢は叶えられたと思う。

作品内容

「全日本大学女子駅伝優勝という夢に向けて」 陶山 春日

 10月14日、全日本大学女子駅伝の予選である関西大学女子駅伝が、神戸・幸せの村で行なわれた。過去に全日本大学女子駅伝4連覇をしている私たち京都産業大学は、昨年過去最低である8位という結果を経験しシード権を失ったため、全日本の切符を獲得するためのスタートラインでもあった。直前に故障者もいてベストメンバーではなかったが、誰一人ブレーキをかけることもなくチームみんながひとつになって戦えたため、2位という結果で全日本大学女子駅伝の切符を手にした。

 <全日本大学女子駅伝優勝>これは、私の4年間の最大の目標であり、夢でもある。大学に入学してから一般の学生生活に憧れたこともあった。化粧をして、可愛い服を着て、好きなときに気にせずに好きなものを食べて、バイトして、いっぱい遊んで・・・でも今となっては一般学生を見てもうらやましいと思わなくなった。むしろ、自分が走っていること、一生懸命好きなことに夢中になれること、このだれもが経験できないことをやっている自分が好きで、たくさんの経験をし、たくさんの人と出会い、その出会いのたびにいろいろなことを学び、自分の糧としていく、今しかできないことに夢中になれる、そんな生き方ができる自分を幸せに思う。

 現在私は陸上部女子長距離のキャプテンをやらせてもらっている。3回生の秋からキャプテンを任してもらい、私がこのチームを変えてもう一度全日本大学女子駅伝で優勝するんだと思ってから1年がたった。キャプテンになった時はまだ4回生の先輩もおられて、自分が3回生なのにキャプテンでいいのだろうかという不安や、どこまでキャプテンらしくしたらいいのかという悩みもあった。全日本で8位という屈辱的な結果を経て、もうこのチームは駄目なんじゃないかと諦めかけた日もあったが、8位になった日の先生の惨めで淋しそうな後ろ姿を思い出すたびになんとかしないといけないと諦めず負けずに今日まで頑張ってきた。駅伝が終わって4回生が引退され、先生に「お前が1からチームを作り直してくれ、今までの伝統も捨てて、新しくできたチームのつもりでチームをまとめて変えてくれ」と言われた。自分にできるだろうかという不安もあったが、自分を信用してまかしてくださった先生の期待に応えたかった。私が理想とするキャプテンとは、競技力もチームのなかで1番で、みんなから慕われるような人間性も豊かな人間である。しかし、実際には両方を得ている人間に誰しもがなれるわけではない。現に私も故障や貧血に悩み3回生の1年間は結果を出せないまま棒に振ってしまった。競技力も後輩より劣り、全く走れない日々に負けそうになって陸上をやめようかと真剣に悩んでいた。そんなとき、先生が「お前が走れないときに後輩が走れていたら喜んでやれ、お前がどん底でも我慢してみんなのためにできる事をしていれば、いつかお前も走れるようになるし、人間性を成長させることができる」という言葉をかけてくれた。涙が止まらなかった。その日から、私は走れていない時でもキャプテンとしてみんなのためにできることがたくさんあるんだという想いでチームを作っていこうとしている。駅伝で優勝するために必要なものは、チームの明るくのびのびやれる雰囲気、チームみんなと先生との信頼関係、層の厚い競技力である。私が入学してきた時のチームの雰囲気は良いとはいえなかった。下級生の時は、競技力も下だったのでチームに疑問を感じながらも口に出すことはできず、伝統のある大学で自分の考えを全面に出していいのかにも不安があり、自分に自信もなかった。キャプテンになり、駅伝前になってもみんなどこか他人事でまとまりのないチームを変えたかった。自分にできることは何かを考えた時、まずは走れていない自分の競技力を上げることだった。いくら人間性を成長させることが出来たとしても弱すぎては誰もついてきてくれないからである。次に、チーム全体をよく見て、悩んでいる子やつらい想いをしている子にいち早く気付き相談にのり、先生には言えない悩みを持っている子との間でクッションの役割をすることである。そして、1つ1つの行動はもとより、練習以外の普段の生活においても自覚を持ち、チームの誰に見られても疑問を感じさせないような生活態度をとることが必要だと考えた。自分がデタラメな生活をしているのに、みんなをまとめようなんて無理で、どれだけ隠してうまくやったとしても、嘘は絶対にばれるからである。そして、練習や試合で自分が負けて悔しいときも、後輩が走れていたら喜んであげようと決めた。悔しさは自分の心のなかにしまい、笑って一緒に喜んであげることで、競争心を持ってみんなが伸びていくきっかけができる。みんなが強くなることはチームにとって財産であるからだ。このような考えでキャプテンをしてきて、1ヵ月半後に全日本を控えた現在に至る。陸上にみんなが一生懸命で、陸上のために生活し、みんなで励まし合い切磋琢磨できるとてもいいチームに変わることができた。

 長距離の女子は、練習以外にもたくさんの克服する問題がある。特に女子は体重と体脂肪のコントロールが欠かせない。試合にベストコンディションで臨むためには少しでも体重・体脂肪を落として走った方が有利である。大学生の女子と言えば、大人へと変わり、体重・体脂肪を減らすというのは全く自然に逆らった行為なのでとても大変である。そのため、普段から食生活にはつねに気を使って生活している。私たちは共同生活で当番制の自炊をしているため、太らないようにすると同時に貧血になっては走れないので、毎日ひじきやレバー、納豆、卵はかかせない。タンパク質や鉄分・ビタミンなどをバランス良く取れるように工夫して料理を作るようにしている。現在、ほとんどみんながこの体重のコントロールが出来るようになった。去年までは、体重測定に追われて自分が試合で走りたいからするコントロールではなく、計らされている体重だった。測定の日に落とし測定が終わると元に戻るという陸上にマイナスな悪循環だった。

 もうひとつ、去年と変わったことがある。私たちは1つのアパートに部員全員で住んでいるが、みんなの部屋にはテレビと冷蔵庫を置かず、みんながご飯を食べる時に集まる食事部屋という部屋に共同のものを置くことにした。自然とテレビと冷蔵庫がある食事部屋にみんなでいる時間が長くなって雰囲気も良くなった。

 何故私がここまでして夢中になって走っているのか、それは走ることが大好きだからである。そもそも私が走りはじめたきっかけは、昔父も陸上の長距離をしていたことであった。走ることは得意だったが、小学校5年の時父にこれから毎日一緒に練習すると言われ、走ることが強制になった時から友達と遊ぶ時間もなくなり、だんだん走ることが苦痛になり嫌いになっていった。試合で走れなければ理由も聞かず怒られ、試合を走るのが恐くてしかたなかった。試合を走りおわって両親のところに戻るのが苦痛だった。今日も走れなかった・・なんて怒られるだろう・・走ることが大嫌いになった。学校が終わると父の車で近くの競技場へ行き、嫌々ではあったが毎日休むことなく練習していたので、6年生の時には市で優勝争いできるレベルまでなれた。中学へ進んでも専門の先生がおられなかったので同じように父と練習していた。中学2年の時に両親が離婚し、私は母と暮すことになった。父と離れる事がとても嬉しかった、走ることと同じくらいに父が嫌いになっていたのであろう。それでも練習は毎日父としていた。中学では県で優勝できるレベルになり、勝つことの楽しさを覚えた。しかし、大きな試合になったり何かの選考レースになれば必ずと言っていいほどプレッシャーに負けて走れない自分がいた。理由はわかっていた。走れなかったら怒られることに怯えて極度の緊張に陥っていたからである。そんな父との陸上も高校に入学することで解放された。解放なんて言葉で表すのは父に失礼なのだが、当時は高校への不安よりも喜びの方がとても大きかった。今大学でキャプテンをして初めて、両親が嫌々走る娘を5年間毎日指導する事の大変さがわかってきた。

 そして高校の先生との出会いも私の人生を大きく変えるものであった。私が駅伝にこだわるのも高校の先生の影響だろう。高校ではとてもたくさんのことを学んだ。精神面や感謝の心、気のきく人間になることなど、今でも忘れず身についていることはたくさんある。高校の時の目標は県駅伝で優勝して全国高校駅伝に初出場することだった。高校2年の時、優勝することにチームのみんなが必死だった。先生は、「駅伝は心で走るものだ、心と心をつないで全員の心が一つになった時に初めて勝てるんだ」とよく言われていた。駅伝当日、私はアンカーを任されていた。アンカーにたすきが渡る時、2チームが同時で来た。私で勝負が決まるんだ、負けたらどうしようと一瞬頭が真っ白になったが、仲間や先生のために必死で走って勝負に勝ち、ゴールテープを切ることができた。私の12年間の陸上人生で1番の思い出である。あの感動が忘れられなくて今駅伝にこだわる自分がいる。

 高校3年生になると全く走れなくなってしまった。キャプテンだったが県駅伝も2位に終わり、そこからさらに先生の風当たりもきつくなった。「3年生なのに走れないからお前のせいで負けた」と言われ続け、走れない自分に対しての腑甲斐なさや悔しさ、世間の目を気にして自分のことが嫌いになっていた。毎日悩み追い込まれ、こんなに辛い毎日なら死んだほうがましなんじゃないか、でもこのまま死んだら後悔するだろうかと死というものと葛藤していた。何日か考え続けて、やっぱり私は走ることが好きなんだ、負けたくない、諦めたくないと思うようになった。初めて自分が走ることが好きだと思えた瞬間だった。卒業式の日、3年間お世話になった先生の所に複雑な心境ではあったがお礼のあいさつをしにいった。「3年間お世話して頂きありがとうございました。」という私に先生は机に向ったまま振り向いてもくれなかった。私はただ涙を流し立ち尽くし5分くらいだろうか無言の時間が流れた後、先生は一言「お前なんかに言う言葉はない」と下を向いたまま言った。あんな屈辱は初めてだった。そんな先生も今では心配して電話をくださるようになったのだが、あの時の辛さは一生忘れないだろう・・・あんなどん底を経験できたからこそ今キャプテンをしている自分がいて自分がここまで成長できたのかもしれない。 現在、一人の人間として、キャプテンとして、足りない部分はたくさんあるが、そのたびに私の足りない部分をカバーしてくれる良い後輩に恵まれて、もっとしっかりしないといけないと逆に後輩から教えられることさえある。そんな後輩や毎日みんなのために必死になって指導してくださる伊東先生に感謝したい。全日本大学女子駅伝で優勝して先生を喜ばせたい。先生にもう一度いい思いをさせてあげたい。簡単な目標ではないが、私はやるだけの事を尽くして負けるならしかたないと思う。でもやらずに諦めてしまうことだけはしたくない。努力したことが正直に結果に結びつくのがこの競技である。だから今チームみんなが一丸となって努力しているに値する結果はきっと出ると信じている。残された1ヵ月半、夢に向かって後悔のないように最善の努力をして全日本大学女子駅伝に臨みたい。11月23日、大阪で4年間で最高の思い出となるように輝ける瞬間をつかみたい。

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