2021.07.21
特集日本の資本主義の父!NHK大河ドラマの主人公で新一万円札になる「渋沢栄一」について松本和明教授に聞いてみた!
明治政府の草創期に銀行や株式会社の制度作りに貢献し、その後は実業家として活躍した渋沢栄一。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として取り上げられていますね。2024年(令和6年)の紙幣刷新で、渋沢栄一の肖像が一万円札に採用されることになり、その名をよく耳にするようになりました。
さらに詳しく知るため、渋沢栄一について研究している経営学部の松本 和明 教授にインタビューしました!
渋沢栄一の偉業とは?
岡田:渋沢栄一はどんな人物なのでしょうか。
松本先生:渋沢栄一は、日本史の教科書には、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を立ち上げた人物ということで必ず載っています。日本史で受験した学生は記憶にあるでしょう。
これは日本に近代的な銀行を創始した人物としての偉業なんですが、その他にも500の会社の設立と経営に関わり、600の団体の立ち上げと運営に関わりました。立ち上げた団体は、学校、社会福祉、外国交流と多岐にわたります。これらは明治以前には存在せず、日本が近代化していく過程で必要だったものです。本来は国や政府がやるべきことですが、渋沢はそれを民間から行い、日本全体を盛り上げていこうとしたんです。より良い社会にし、人々の暮らしを豊かにするために広く活躍したのです。
また京都への貢献ということでは、京阪電気鉄道や京都鉄道(現在のJR山陰本線のルーツ)の創設に関わり、京都初の国際的なホテルとなった京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)の創設にも協力しています。1895年(明治28年)には、京都で開催された第4回内国勧業博覧会を支援しました。
岡田:京都にもゆかりのある人物なんですね。もし渋沢栄一がいなかったら、日本はどうなっていたでしょうか?
松本先生:歴史に「たら、れば」は禁物といいますが、「渋沢がいなかったら」と想像すると、日本が欧米列強諸国の植民地になっていたこともあり得ます。なにしろ欧米列強が「チャンスあらば介入しよう」と日本やアジアを狙っていた時代です。また、植民地にまでならなくても、渋沢の社会貢献がなかったら明治以降の日本の姿は変わっていたかもしれません。
子ども時代からビジネス感覚を身に付け、渡欧で近代的な金融の仕組みに開眼
高松:一体、どんな育ちや教育で、そんな偉業を成し遂げることができたのでしょうか。
松本先生:まず第一に、少年期の経験があります。渋沢は現在の埼玉県深谷市の富農の生まれですが、商品作物として養蚕と藍玉(布を藍色に染める染料)の製造をしていました。それを、父に連れられて、10歳の頃から、上州(群馬県)や信州(長野県)に売り歩きました。当然、いろんな土地を目にして見聞も広まったのでしょう。若くしてビジネス感覚を身に付けていたんですね。
第二には、農民であっても、7歳の頃から『論語』を学び、倫理や道徳のベースとなる思想が培われました。剣道も学び、農民の身分ながら文武両道を身に付けていました。
第三には父母の教えがあります。渋沢の父母は常々「人間として正しくあれ」「道理正しく生きろ」と言っていました。渋沢の母は、地域にみんなが感染を恐れて避けていた皮膚病の子がいた際、一緒にお風呂へ入り体を洗って病気を治したそうです。ハンディキャップのある人へのケアやフォローを、目にしてきたんですね。渋沢の社会福祉への思いは、そんなところから育まれてきていると思います。
八木:なるほど。青年期はどのように変化していったのでしょう?
松本先生:その後、渋沢にはいくつか転機が訪れます。ある日、渋沢の家が武士に罵倒されるという事件が起こりました。その際、渋沢は「武士だからと威張っていていいのか」という疑問を持ち、官尊民卑をやめ、民がしっかりしないといけないという思いに至りました。そこから尊王攘夷※・討幕思想にはまっていきます。ところが、江戸に行くと徳川慶喜に仕えていた武士に「このまま尊王攘夷をやっていたら命を無駄にする。自分の主君(慶喜)が人材募集しているから家来にならないか」と誘われ、それに応じるのです。
※尊王攘夷:日本で江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。下級武士を中心に全国に広まり、王政復古・倒幕思想に結びついていった。
八木:討幕思想なのに幕府側の徳川に仕えるというのは矛盾しているようですが。
松本先生:その辺りは「内側から変えていこう」と現実的な判断をしたのでしょう。そして1867年から翌年にかけて、徳川の関係者としてパリ万博の日本の代表団の一員となりパリに赴きます。ロンドン、ベルギーなどの先進国にも訪問し、ビジネス、金融、インフラなどの見聞を広め「日本もこうあらねば」との思いを強めて帰国しました。
その後、大政奉還で徳川慶喜は静岡に移ります。渋沢も静岡に行き、慶喜に勧められて欧米で学んだビジネス手法を実践して成功するんです。するとそれを聞いた明治政府の井上馨や大隈重信らが「その力を国のために使ってほしい」と頼んできたわけです。ここでも渋沢は現実的な対応をして、主君の反対勢力である明治政府の大蔵省に入り、株式会社の仕組みを作ったり複式簿記を取り入れたりと、日本の近代化・工業化の土台作りを整備しました。
30代で大蔵省を辞めたあとは、民間人としてビジネスと社会貢献に尽力します。1872年に第一国立銀行を設立したのを皮切りに、60代まで民間の実業家として活躍します。70歳で引退したあとは、91歳で亡くなるまで社会貢献に専念しました。
八木:とすると、青年期のパリ万博体験が、その後の渋沢の活躍のポイントだったということでしょうか。
松本先生:その通りです。わずか1年弱のヨーロッパ滞在で、渋沢は多くを学びました。渋沢は一行の会計係だったのですが、当然ながら持参した手持ち金は減り、心細くなっていきます。そんなとき、ある銀行経営者と出会い、株式会社や証券市場の仕組みを使ってお金を増やすことを知ります。実際にやってみて、運も味方して成功したのですね。
そこで渋沢は「お金は回していかないといけない。回していく存在として銀行がある」ことを身をもって体験し「日本にも金融の仕組みが必要だ」と悟るんです。またベルギー王に拝謁したとき、「ベルギーにはよい鉄がある。日本でもぜひ買ってください」と商談を持ち掛けられました。日本では「士農工商」で商人が一番下の身分でしたから、王様が商売を持ち掛けることに驚くとともに、日本と同じ小国のベルギーでは輸出と外貨獲得が必要だということを学ぶわけです。このフランスとベルギーでの体験が、その後の渋沢の活動に多きく影響していますね。
「道徳なければ経済なし」という道徳経済合一思想
八木:そうしたお金儲けは「貨殖(かしょく)」とされて、『論語』では避けられていたように思うのですが、その辺りはどうなのでしょう。
松本先生:『論語』では、貨殖について品位のないお金儲けを戒めていますが、商売自体は否定していません。一方、ヨーロッパでもビジネスにモラルはつきものとされ「道理正しく生きよ」というのは洋の東西を問わないと思います。ただし、経済学のルーツとされるアダム・スミスの『国富論』では、モラルが大切で世のため人のために尽くせとは言いながら、私益(お金儲け)が第一で、公益(人のため)は第二なんですね。一方、渋沢の思想は公益が第一で、私益が第二。真面目に儲けてそれを社会に還元するというところが、渋沢の優れたところだと思います。
これが渋沢の「道徳経済合一(ごういつ)思想」で、道徳と経済はコインの裏と表。どちらが欠けてもだめなんです。「道徳なくして経済なし。経済なくして道徳なし」という思想を渋沢が実践していった意義は大きいです。
今、企業等に求められている「SDGs(エスディジーズ):持続可能な開発目標」にしても、「CSR(corporate social responsibility):企業の社会的責任」にしても、渋沢はすでに行なっているんですね。
八木:最後に渋沢栄一の行ってきたことから学び、私たち学生が行動に移せることは何でしょうか。
松本先生:学生諸君は、卒業後にいろんな企業に勤めたりすると思いますが、ビジネスを通じて世に尽くしていくことを、渋沢が150年前にやっていたんだということを、ぜひ記憶していてほしいです。また、若いうちに外国に行き、見聞を広めることも大事です。今は新型コロナウィルスの影響で制約はありますが、機会があったらぜひ外国を見て視野を広げてほしいと思います。