国境紛争から犯罪拠点問題へ拡大したタイ・カンボジア対立
2026.09.25
国境紛争から全面衝突へ:ASEAN仲裁下での停戦と和解
前回の記事で解説したように、2025年5月28日にプレア・ビヘア寺院周辺の係争地帯で発生した銃撃戦によってカンボジア兵1名が死亡した事件は、両国関係を急速に悪化させる契機となった。その後、両国は国境検問所の閉鎖、電力供給停止、輸入規制などの報復措置を応酬し、緊張は軍事面だけでなく経済・外交分野にも拡大していった*1。
特に2025年7月にタイ東北部スリン県とカンボジア北西部オッダールミエンチェイ州の国境地帯において勃発した戦闘では、両軍ともに砲撃やロケット弾を使用するだけでなく、タイ空軍にいたってはF-16戦闘機による空爆を実施するなど、その衝突規模を拡大させていった。さらに各地の係争地帯で戦闘が発生した結果、多数の死傷者と国境周辺の住民が大量に避難する事態を引き起こすなど、情勢は悪化の一途を辿った*2。
その後、マレーシアのアンワル首相がASEAN議長国として仲介に乗り出し、また中国および米国による外交対話が功を奏したことで、両国首脳は7月28日に即時かつ無条件の停戦に合意し、事態は解決に向かうと思われた*3。しかしその後もタイ側はカンボジア軍による挑発行為を批判し、そしてカンボジア側もタイ軍の越境活動を批判し続けた結果、12月には再び大規模な軍事衝突が発生し、その際、タイ軍はカンボジア側の軍事施設に加えて国境地帯に存在する一部の特殊詐欺拠点やカジノ施設に対する攻撃も実施した*4。同月下旬、両国は前線部隊の接触回避、軍事活動の停止、ASEAN監視団による停戦監視、外交ルートの維持などが盛り込まれた停戦協定に合意したが、今年に入っても国境地帯には両軍部隊が展開し続け、緊張状態が解消されることはなかった*4。
問題解決の兆しが訪れたのは、5月にフィリピンで開催されたASEAN首脳会議のことであった。この会議の場においてタイのアヌティン首相とカンボジアのフン・マネ首相による首脳会談が実現し、両首脳は緊張緩和のための「信頼醸成措置」を進展させること、そして外相レベルの協議再開や停戦監視団の活動を継続することに合意したことで、軍事衝突をめぐる一連の対立問題は解消へといたった*5。
新たな対立への波及:海洋資源と国境管理
2025年の軍事衝突に端を発したタイ=カンボジア対立は、今日にいたるまで新たな様相を見せてきた。
今年6月2日、カンボジア政府はタイ湾における海洋境界線問題について、国連海洋法条約(UNCLOS)に基づく強制調停手続きを開始したと発表した*6。タイ・カンボジア両国が主張を重複させる約26,000平方キロメートルの海域には大規模な天然ガス・石油資源が埋蔵されているとみられており、この海洋境界線問題は陸上同様に長年の懸案とされていた*7。
実は先述した今年5月のASEAN首脳会議における両国首脳会談では、軍事衝突をめぐる和解だけでなく両国の海洋境界問題についても話し合われており、その際、タイ側は海洋境界線問題についても国際機関を挟まない「二国間対話」での解決を提案していた*8。しかし、カンボジア側がこの提案を拒絶し、UNCLOSに基づく「強制調停手続き」の一方的な開始を通告したことによって、陸上問題同様、海洋境界線問題は両国にとって極めて大きな懸案問題となった。
さらに7月には、不法越境、オンライン詐欺グループ(コールセンター詐欺)、違法薬物などの密輸ルートを遮断することを目的として、タイ側が前ペートンタン・シナワット首相の主導の元で前年3月から進めていた国境地域の恒久的なフェンス(壁)の建設を完了させた*9。このタイ側の動きに対して、カンボジア側は事実上の現状変更につながるとして警戒感を示した*10。
対立構造の根本的背景:特殊詐欺犯罪拠点カンボジアへの疑惑
このように今回の軍事衝突問題は、衝突そのもの以上に他の問題への波及を見せはじめた。そんな中で、現在、本問題を本質的に理解する上で欠かせない問題が多くのメディアで報道されている。それが近年のカンボジアにおける特殊詐欺・人身売買犯罪の急増問題である。
アムネスティ・インターナショナルは2025年の報告書において、カンボジア国内で少なくとも50カ所以上の「詐欺コンパウンド(Scam Compounds)」を確認し、そこで人身売買、奴隷的労働、拷問、監禁が行われていること指摘した*11。さらに2026年の続報においても、カンボジア政府による大規模摘発後も多数の拠点が存続している可能性があることを報告している*13。そしてこうした犯罪拠点においては、タイ人を含む外国人が高収入の仕事と偽って募集され、現地到着後にパスポートを没収されて特殊詐欺に従事させられる事例が多数確認されていることが明らかになっている*12。
この特殊詐欺犯罪をめぐる問題の中で、特に注目を集めたのがカンボジアの有力財閥プリンスグループ(Prince Group)をめぐる疑惑である。2025年10月、米司法省は同グループを率いるチェン・ジー(陳志、もしくはChen Zhi)を、強制労働や暗号資産詐欺に関連した大規模犯罪組織の運営容疑で起訴したと発表した*14。彼は2017年から内務大臣公式顧問に任命され、フン・セン元首相の公式顧問、そしてその息子であり原首相であるフン・マネの顧問も務めた経歴を有する。さらに彼は、カンボジア政府に対して50万ドル以上の寄付を行った者に授与される称号「Neak Oknha(ニーク・オクニャ)」を得ており、カンボジア政府との関係性は極めて強かった人物であった*15。彼は2025年12月にカンボジアの王令によってカンボジア国籍が剥奪され、その後、2026年1月にはカンボジア当局に身柄を拘束され、中国へと移送(送還)されているが*16、これだけ政府と近しい関係にあった人物が大規模犯罪の首謀者として起訴された事実は、カンボジア政府関係者と国際犯罪の繋がりに対する疑惑を浮上させた。
またロイターは2026年7月、タイとの国境近くにあるオスマッチ地区に存在した特殊詐欺拠点が、カンボジア財閥関係者の所有地上で運営されていたとする調査報道を発表した*17。またこの調査報道では、国境地域においてカジノやホテルが詐欺拠点へ転用される事例が多数確認されており、先述のアムネスティ・インターナショナルの報告書と同様に、国際犯罪と地域経済が複雑に結びついている実態が浮かび上がっている。
国家安全保障課題としての「国際犯罪問題」
このようにカンボジア政府関係者もしくは地域経済が国際犯罪と何らかの繋がりを有しているとされるに対する疑惑は、2025年に国際詐欺犯罪の問題を国家安全保障問題として位置付けるようになったタイ政府にとって*17、軍事衝突や国境紛争問題を通じてカンボジア側に強い反発を示す理由の一つとなっている。2025年末の軍事衝突の際、タイ側は攻撃対象とした施設の一部について「カンボジア軍と犯罪組織が共用している」と主張しており*4、これをカンボジア側が否定しているとはいえ、実際にタイ国内の特殊詐欺被害者の多くがカンボジア側拠点から接触を受けているとされていることから、タイ側のカンボジアに対する不信感を解消するのは容易ではない。
特に最近では、タイ軍は国境地帯のオスマッチやポイペト周辺で詐欺拠点の情報公開を進め、国際メディアに現場を公開するなど、カンボジア側への圧力を強めている*18。一方でカンボジア政府も、大規模摘発によって数百か所に及ぶ施設の捜索や数万人規模の犯罪者を摘発した成果をアピールし、そうした批判を回避している*19。
プレア・ビヘア寺院問題は本来、歴史と領土をめぐる古典的な国境紛争であった。しかし2025年以降の対立は、人身売買、国際詐欺、サイバー犯罪、海洋資源開発といった新たな要素を取り込みながら複雑化している。したがって、タイ・カンボジア軍事衝突と今後の両国関係については、従来の領土問題以上に国際犯罪対策という視点から見ることが求められる。
参考文献
- 吉川敬介 (2025), 「ASEAN加盟国間に生じた歴史と領土をめぐる対立:プレア・ビヘア寺院の係争地問題(京都産業大学 国際関係学部 「国際関係教員によるNews解説!:2025年6月17日」)」(最終閲覧日:2026年9月9日)
- AP News (2025), Thailand launches airstrikes on Cambodia as border clashes leave at least 14 dead, (Accessed: Sep 09, 2026).
- The Guardian (2025), Thailand and Cambodia agree to 'immediate and unconditional' ceasefire, 09, 2026).
- CSIS (2026), From Fraud to the Frontlines: Scam Centers Caught in the Cambodia-Thailand Conflict, (Accessed: Sep 09, 2026).
- Reuters (2026), 「タイとカンボジア、首脳会談で停戦維持と信頼醸成措置構築で合意」, (最終閲覧日:2026年9月9日)。
- Reuters (2026), Cambodia Launches UN-Backed Process to Settle Maritime Dispute With Thailand, (Accessed: Sep 09, 2026).
- Reuters (2026), 「タイ、係争海域の強制調停手続き参加へ 他の2国間協議は保留」(最終閲覧日:2026年9月9日)
- 日本経済新聞社(2026)「タイとカンボジア、停戦監視団受け入れを3カ月延長 首脳会談で合意(日経電子版)」(最終閲覧日:2026年9月9日)
- Cambodian Journalists Alliance Association (2025), Thailand Studies Border Wall Construction, Cambodia Yet to Receive Official Information, (Accessed: Sep 09, 2026).
- Nikkei Asia (2026), In Focus: Thai military builds Cambodia border wall, (Accessed: Sep 09, 2026).
- Amnesty International (2025), Cambodia: 'I was someone else's property': slavery, human trafficking and torture in Cambodia's scamming compounds.
- Amnesty International (2026), Cambodia: Evidence suggests scamming compounds bypassed despite high-profile 'crackdown'.
- U.S. Department of Justice (2025), Chairman of Prince Group Indicted for Operating Cambodian Forced Labor Scam Compounds Engaged in Cryptocurrency Fraud Schemes, (Accessed: Sep 09, 2026).
- BBC (2025), The mysterious figure accused of masterminding a $14bn crypto scam, (Accessed: Sep 11, 2026).
- 毎日新聞(2026), 「"アジア最大級の犯罪組織" カンボジア企業トップ拘束 中国が発表(毎日新聞ニュースサイト)」, (最終閲覧日:2026年9月11日)
- Reuters (2026), Reuters Special Report: Casino boss was landlord to Chinese scammers, (Accessed: Sep 14, 2026).
- 朝日新聞 (2025), 「ミャンマーの「犯罪拠点」へ電力供給など停止 タイ、犯罪行為が横行(朝日新聞デジタル版)」, (最終閲覧日:2026年9月15日)
- 朝日新聞 (2026), 「拷問、臓器売買...人権侵害横行か タイ軍が詐欺拠点を公開する理由(朝日新聞デジタル版)」, (最終閲覧日:2026年9月15日)
- Nikkei Asia (2026), Cambodia claims to have eradicated all online scam compounds, (Accessed: Sep 23, 2026)

吉川 敬介 教授
開発経済論、ASEAN経済、地域研究(カンボジア)

