社会構造変化の帰結としての「民主主義の危機」

2026.10.01

民主主義の危機

2026年9月6日、ドイツ東部ザクセン・アンハルト州議会選挙において、移民・難民政策の厳格化などを掲げる政党、ドイツのための選択肢(AfD)が得票率43.8%を獲得し、大差で第1党になりました。これに対して、第二次世界大戦後のドイツ政治を牽引してきた2大政党、キリスト教民主同盟(CDU)と社会民主党(SPD)は、それぞれ17.2%、9.3%と大敗しました。20日には、北東部メクレンブルク・フォアポンメルン州議会選挙でもAfDは第1党となり、CDUは議席をすべて失いました。アメリカに目を向けると、トランプ大統領は虚実混交のSNSを連日発信し、支持者であるMAGAの人々の心を掴んでいます。これら排外主義の台頭や虚偽情報の蔓延は、異なるものを互いに認め合いながら事実に基づく議論で合意にたどり着くべき現代民主主義の危機と言われています。

弱体化した経済基盤

この危機の背景には、人々の生活基盤の弱体化があると言われます。18世紀半ばに始まった産業革命は経済を大量生産型システムに変えることで、多くの工場労働者(後にブルーカラーと呼ばれる人々)を生み出しました。20世紀半ばまでの福祉国家化のもとで経済システムが修正されていくにつれて、賃金上昇・消費拡大・生産拡大・利益拡大、そして再び賃金上昇という好循環サイクルが実現していきました。労働者の生活は潤い、産業社会は最盛期を迎えます。

20世紀後半以降、これが変化し始めます。工業生産の機械化・自動化が進み、それとともにブルーカラーの職は減っていきます。ブルーカラーに代わって必要とされたのが、モノの生産に直接従事するのではなく、生産管理のための専門知識と技術を持ったホワイトカラーでした。社会学者ダニエル・ベルがサービス産業中心経済への移行を予見し『脱工業社会の到来』を出版したのは、1973年でした。しかしその後ブルーカラーは、さらに追い込まれていきます。20世紀第4四半期以降に加速した経済のグローバル化は、低賃金国への生産拠点の移転を促進し、先進国ブルーカラーの職場は一層減っていきます。そして現在、AI革命は工場人員を一段と不要とし、熟練工の職人技さえも奪おうとしています。

そうした中、経済不安に苦しむ人々は、文化的に異なる移民・難民に怒りのはけ口を見い出します。そこではもはや事実と虚偽は区別されることもなく「彼らは職や公金を奪い取っている」と決めつけられます。最近のドイツであれば、これに付け込むのが排外的主張を持った「極右ポピュリズム」政党であり、寛容を旨としてきたはずの21世紀の民主主義はこうして危機に陥ります。ザクセン・アンハルト州の選挙結果に対するドイツ政治の専門家たちの解説を聞いても、人々の経済的困窮という要因が強調されていました。

既存政治の遊離

報道各社が報じるAfD支持者の声を聞くと、「既存政治は自分たちの重要な課題に取り組んでいない」「自分たちをないがしろにしている」といった批判が目立ちます。しかしここで、疑問が浮かびます。既存の政治家あるいはエリートたちは、こうした人々の不満になぜしっかりと向き合わないのでしょうか。

経済学者ダロン・アセモグルは、この「民主主義の危機」の理由を、20世紀半ばまでの産業社会ではブルーカラーを主役として機能していた自由民主主義が、脱産業社会ではうまく機能しなくなったためであると説明します。産業社会においてブルーカラーは、経済的に豊かになると同時に、多数派として政治的発言力を増大させていきました。これに対して、脱産業社会に移行すると、ホワイトカラーが増加し、ブルーカラーの政治的影響力は低下していきます。とりわけ21世紀の現代では、ホワイトカラーの中でも、エリート高等教育を通じてリベラルな規範的価値を身に付けた左寄りリベラル(left-leaning liberals)と情報技術革新を支えるITエリート(tech elites)が優位な社会的地位を築き、強い影響力を持っています。

ITエリートは左寄りリベラルよりも富の再配分には消極的であるなど、2つのエリートの価値観には違いもあります。しかし両者は、移民、同性婚、教育といった文化的争点に関しては、多くの場合、リベラルな主張で一致します。加えて、これら2集団以外のホワイトカラーも、大学教育を通じて「『不寛容』と『無知』は社会悪」とする倫理観を身に付けており、上記のような争点ではリベラルな方向で意見を同じにします。こうして、ホワイトカラーが優位になった現代の既存政治では、多様性・公平性・包括性(DEI)といったリベラルな規範的理念が、とりわけ前面に押し出されます。

DEIが非常に重要な達成すべき人類の使命であることに疑いは全くありません。しかし、今日よりも明日が悪くなると日々不安を募らせている人々は、この既存政治を「自分たちの目前の課題に取り組んでいない」と受け止めます。今回のドイツのように、にわかに「極右」政党を支持し始めた普通の市民は、その極右的思想に共鳴するというよりも、彼らであれば自身が直面している課題に取り組んでくれるのではないか、現状を変えてくれるのではないかと期待しながら、投票所に向かいます。

アセモグルは、主にアメリカ社会を念頭に置いているため、上のようなモデルを組み立てます。ただし、他の先進民主主義国には異なる点もあります。例えば、ITエリートはどの国にも存在するでしょうが、ビッグ・テックやシリコンバレーを想起させるアメリカほどには強力ではありません。また日本では、ブルーカラー・ホワイトカラーの違いに対する階層意識は、他の欧米諸国と比べて希薄です。そのような日本では、少子化によって社会全体が将来不安を抱く中、ブルーカラーという括りではなく、ブルーカラーとホワイトカラーを横断するような一つの経済不安層が存在するかもしれません。

とはいえ、これらのいずれの国においても共通するのが、程度の差はあれ、社会の中枢である大企業や高等教育機関において、SDGsやDEIといった価値をあからさまに支持しないような組織を見かけることはほとんどないということです。これは、アセモグルが言うところの左寄りリベラルの規範が、これらのどの国においても、既存社会の「正統派」として確立されていることを意味しています。この点で、彼が示す上述の対立の構図は、程度やかたちの違いはあっても、どの国にも当てはまります。

ソーシャル・エンジニアリング

アセモグルが強調するのは、エリートたちの主張と行動が倫理的な動機のみで行われているとは限らないという点です。というのも、その時代の正統派教義の旗振り役になることは、その社会の中での自らの地位を固め、さらには権力を高める手段にもなるからです。彼は、これをソーシャル・エンジニアリングと呼んでいます(一般的な用語法とは異なります)。アセモグルによれば、中世ヨーロッパ・カトリック教会の聖職者、11世紀イスラムのウラマー、ヒンドゥー教カーストにおけるバラモン、中華帝国の科挙官吏のどれも、それぞれの時代においてみな同じ機能を果たし、正統派教義の推進者として自らの社会的権力を強めてきました。

政治思想家エミリー・フィンリーは、そもそも近代民主主義理論自体に、エリートが理念を押し付ける思考様式が内在していると言います。ルソーは、個々人の意志である「特殊意志」を集めただけの「全体意志」ではない、人民の意思の理想的表現である「一般意志」によって社会は統治されなければならないと説きました。そして、この一般意志は「立法者」なる存在が介在することで実現できると論じました。フィンリーは、現代までの多くの近代民主主義理論は、民意とは直接結びついていない「立法者」なるものを多かれ少なかれ含意していると言います。そしてこれら理論を、民主主義(=人々の声に基づく統治)を装いながらも、実際には「立法者」自身の理念を強いるだけの教条主義デモクラティズムと呼びます。

言うまでもなく、彼女が念頭に置いている現代民主主義におけるルソー的立法者とは、左寄りリベラルです。言論の自由とは、耳障りなこと、物議を醸す主張ですら相手に発言を許すところにその真髄があります。ジョージ・オーウェルにも言及しながらアセモグルは、左寄りリベラルが過剰なソーシャル・エンジニアリングに傾倒し、リベラリズムを謳いながらも多様な意見を聞こうとしない様子を、さまざまな実例を挙げながら批判しています。彼の批判は左寄りリベラルの規範理念そのものではなく、その推進者たちの姿勢にあります。

エリートたちによる現代的規範理念の追求が、純粋なものなのか、自己利益のためなのか、さらなる権力欲によるものなのか、あるいは正統派の内側の存在としての保身のためなのかは人によってさまざまで、当人であってもあまり意識できていないでしょう。ともあれ、ここで明らかなことは、「民主主義の危機」は、非エリートの不満の一方的な爆発といったものではなく、それとは異なる立場と利害を持ったエリートからも向かってくる双方向的なぶつかり合いの結果であるということです。

新中間大衆

アセモグルは、ブルーカラー、大卒の大衆、大卒・大学院卒のエリートと分類し、ブルーカラーと後二者の間の緊張を強調しています。しかし、バリスタとして働く大卒者を例に挙げて彼自身も慎重であるように、サービス産業の比重が増大した現在では、ホワイトカラーとブルーカラーの区別は曖昧になっています。実際、この中間グループの中には、ブルーカラーと同じような経済的不満を抱える人々も少なくありません。しかしこれらの人々は、DEIのような争点においてはAfDやMAGAとは立場が異なるが故に、ブルーカラーと同じ経済的不満にもかかわらず、これら「極右」「保守派」とは相容れません。代わりに、(左寄りリベラル・エリートの一部とともに)彼らが支持するのが、SDGsやDEIを優先しつつ経済格差の大変革を求める「極左」です。マムダニ・ニューヨーク市長やオカシオ-コルテス下院議員は、そのシンボルです。こうして、「民主主義の危機」とはあまり言われませんが、既存政治の危機は、反対側の極からも生じています。

このようにブルーカラーとホワイトカラーの区別が曖昧になった現代の脱産業社会を表現する概念としては、アセモグル・モデルよりも経済学者・村上泰亮が1980年に提唱した「新中間大衆」のほうがうまく当てはまるように思います。村上は、総理府国民生活調査において自身を社会の「中」と分類するような人々を新中間大衆と呼びました。つまり、日本社会の9割は新中間大衆です。

彼が注目したのは、これら人々の生活・文化の様式が均質化しているという点です。そして脱産業社会においては、これら均質な新中間大衆が社会を主導するだろうと予見しました。実際、背広の着用からは、ホワイトカラーとブルーカラーの区別はできなくなっていきました。新中間大衆の上位層が使っていた「ご機嫌よう」といった「山の手言葉」も使われなくなっていきました。学問上の術語も大衆化していきます。例えば、マックス・ヴェーバーやフロイトに大学で触れた少数のインテリが使う言葉であった「カリスマ」や「トラウマ」は、(厳密な意味を少し変えて)多くの人が使う日常語になっていきました。

村上は、9割の大衆に含まれない政治経済エリート(特に行政エリート)の存在をモデルに残しています。しかし、村上の均質化論を現代に当てはめれば、いまやその垣根もなくなりつつあります。大企業の幹部がTシャツに袖を通して公の場に現れることは、珍しくなくなりました。新中間大衆論が出された頃、経済人類学者・栗本慎一郎や仏文学者・篠沢秀夫がバラエティショーやクイズショーに出演することは学術界の異端(heresy)でしたが、現在ではこうした人々がエンターテイナーのようにマスメディアに登場することはお馴染みのこととなりました。もちろんこれは、日本だけに限りません。NVIDIAのジェンスン・フアンCEOのトレードマークは革ジャンであり、実業家イーロン・マスク氏は、この点でまさに時代のアイコンです。アメリカには、マスメディアにもよく登場する経済学者を指して、スターもしくはロックスター経済学者という言葉もあります。

こうして、生活スタイル・思考パターン・行動様式の均質化は、新中間大衆を超えて、社会の隅々にまで浸透しました。アセモグルや村上とは異なり、100年前のオルテガは『大衆の反逆』の中で、意外かもしれませんが、職業、経済力、学歴、家柄といった社会階層ではなく、個々人が持つ内面的精神性で人々を区別しました。上のように社会階層の垣根がなくなった現在の社会は、このモデルで見るのが最も近いのかもしれません。

均質社会の民主主義的帰結

かつての社会では、その上位階層にある人々が持っている異なる文化・教養は、それ以外の人々にとっては憧れであり、畏怖の対象でした。これに対して、上述のように文化・生活・思考スタイルがあらゆる人々の間で均質化した現代社会では、相手が貧者であろうと富豪であろうと、無学であろうと知識があろうと、その人のだいたいのことは想像できますから(少なくともそう思っていますから)、もはや特別な人物は存在しません。

言うまでもなく、ソーシャル・メディアは、この状況を著しく強化しています。ソーシャル・メディアは、以前であれば決して出会うことがなかった人々の巨大な均質社会を登場させました。そのメッセージ交換は、家族やご近所と話すように気楽なものです。均質性に匿名性も加わって、うわさやうそが助長され、気軽に悪口も出てきます。こうして、言論の自由のもとでも擁護されないような、政治家への誹謗と中傷、事実に基づかない政治的言説が流布し、これらが民主主義の腐敗(democratic decay)という、もう一つの危機を生じさせています。

畏敬を持つべき特別な存在がいなくなった世界では、気のいい人(a likable person) こそが、政治家にふさわしい人物になります。ザクセン・アンハルト州議会のジークムントAfD会派共同代表がいかにも野暮ったい旧東ドイツ製の原付バイクにまたがり、支持者の間を駆け回る姿は、この点で象徴的でした。トランプ大統領は、法螺(ほら)をときどき吹いて困ったものだが、それも隣のジョンと同じでご愛敬、プロレス好きのいいおじさんだと映ります。

民主主義の試練

このように、民主主義の危機は、社会の分裂と収斂という双方向の変化で引き起こされている複雑な現象です。最近では、AIの普及がホワイカラーを凋落させ、代わりにブルーカラーを復権させるという予測も、しばしば話題に上ります。20世紀後半の脱産業社会はブルーカラーとホワイトカラーの賃金格差を拡大させましたが、その流れはこれによって変わるかもしれません。しかしホワイトカラーの凋落が現実化すれば、今度はホワイトカラーの困窮が、「極左」の台頭かは分かりませんが、別のかたちで民主主義の危機をもたらすでしょう。

今後起こりうる巨大IT企業による富の独占と失業に対して、ベーシック・インカムの導入、巨大テック株式の市民共有、AIツールの共同所有など、(日本ではあまり聞こえてこないようにも思いますが)多くの先進諸国では相当な危機意識のもと、知恵が模索されています。アセモグル自身は、労働階級リベラリズム(working-class liberalism)というものを提唱しています。AIの発達に起因する富のさらなる格差が実際に起こった場合に、これらの方策がうまく機能するかはまだ分かりません。しかし仮にこれらがうまく働き、分裂の方の問題が緩和されたとしても、収斂によって生じている問題はなおも残ります。こちらは個人の内面により深くかかわる事柄です。その対応は、さらに困難な挑戦です。

文献案内

Acemoglu, Daron (2026) What Happened to Liberal Democracy? Dutton.
Finley, Emily B. (2022) The Ideology of Democratism. Oxford University Press.
村上泰亮 (1984) 『新中間大衆の時代』中央公論社。

1980年に発表された村上の論考は、改稿されて上の書籍に収められています。フィンリーには邦訳もあります。先月出版されたばかりのアセモグルには日本語訳はまだありませんが、スター経済学者の手による同書には、遠からず日本語版も出てくることでしょう。彼らしく400ページの大著ですが、最後の2章では、労働との関係でAI開発の今後あるべき方向性も議論されています。学生の皆さんにとっても、興味を引くテーマではないでしょうか(2026年9月21日脱稿)。

付記 このコラムは執筆者の論考であり、京都産業大学の見解ではありません。

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山本 和也 教授
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政策科学(主に国際政治を対象)

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