ヴェノムとラトゥール ――アクターネットワーク理論で考えるAI時代の教育
2026.04.30
ゼミ生とヴェノムをみる
しばらく前のことだが、ゼミの学生がみんなで映画をみたいということでマーベル・コミックをもとにした映画「ヴェノム」(2018年)を鑑賞した。ご存じない方もおられると思うので、映画のあらすじを簡単に説明しておくと、野心的な科学者が宇宙から持ち帰った謎の生命体――シンビオート――が研究中の事故で逃げ出し、ジャーナリストのエディ・ブロックに取り憑いてしまう。エディの肉体とシンビオートは反発しながらも次第に融合し、「ヴェノム」という異形の存在として行動をともにする。やがて二人は人類を支配しようとする別のシンビオートの陰謀に立ち向かう。映画を鑑賞して「はい、お終い」というわけにもいかないため、その場ではヴェノムはB.ラトゥールらが提唱した「アクターネットワーク理論」の好例のようだと話した。
ヴェノムとラトゥール
つまり、エディという人間とヴェノムというシンビオートは、どちらが主体でどちらが客体なのかが判然としない。エディがヴェノムを「使って」戦うのか、ヴェノムがエディを「借りて」生き延びるのか。その問いに映画は明確な答えを与えてくれない。二人はたえず交渉し、衝突し、妥協しながら、ひとつの行為体として動く。ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)が描くのも、まさにこのような世界である。大学院生の頃に人類学者の故・足立明先生の授業を受けた際、足立先生はアクターネットワーク理論を分かりやすく説明するためにホテルの鍵の話を引き合いに出した※1 。ホテルの鍵には時々太い棒のようなキーホルダーがついている。それにより宿泊客は鍵をポケットに入れて外に持ち出しにくくなり、鍵の紛失が減る。これは人間の意志によるものか、鍵のかたちや大きさに動かされたものなのか。人間だけが「行為の主体」なのではなく、道具も機械も、そして制度もネットワークのなかで人間とともに何かを「する」のである。
ヴェノム作品の作り手が、アクターネットワーク理論を意識していたかどうかは分からない。しかし、彼ら/彼女らが描こうとしてもの――すなわち人間ではない存在と深く結びつくことで個人の境界が曖昧になり、新たな行動や社会的役割が生まれるという世界観――は、ポストヒューマニズムやアクターネットワーク理論などの思想や理論と深く共鳴しているように思われる。
ケンタウロスかヴェノムか
さて、2020年代になって生成AIが一気に注目を集めた。ChatGPT登場の衝撃は大きく、シンギュラリティや人間を凌駕する超知能の話が現実味をもって語られた。アメリカではAIを「神」と崇める新興宗教までつくられたそうだが(もっとも実際にどこまで本気で信じていた人がいるかは不明だが)、それ以前からすでにこうしたことを描いたY.N.ハラリの『ホモ・デウス-テクノロジーとサピエンスの未来』(2018年[原著2015年])が世界的に大ヒットしており、AIによる人間や社会の変化(むしろ革命)を想起させる土台が出来つつあった ※2。もっとも「AI神」に関しては、それは「過去のデータが擬神化されたものに過ぎない」※3という論文も書かれており、興味深い研究の蓄積が進んでいる。そして最近ではAIを巡る議論は超知能やポストヒューマンの問題と並行して、人とAIがいかに協働できるかといった地に足のついた問いも広がりつつある。人間に「おべっか」を使うAIへの警戒や、人間とAIの役割分業を論じた論文や記事も増えてきた。
こうした議論でよく引き合いに出されるのはハーバード大学のS.サガーフィアンらによる論文で、そこでは人間とAIが協調・融合するモデルとして「ケンタウロス」が提唱されている ※4。チェスの例が引き合いにだされたこの論文では、人間の直感とAIの計算力を組み合わせることで、どちらか単独よりも強い判断ができるという考え方が示されている。なるほど分かりやすい比喩ではあるが、ひそかにケンタウロスよりもヴェノムのほうが適切ではないかと思っている。理由は、ケンタウロスが人間とAIをあらかじめ役割の決まった「上半身と下半身」として分離したままとらえるのに対し、ヴェノムの比喩では両者の境界そのものが問いになるからだ。どちらが主体でどちらが道具なのか、その問いを棚上げにしたまま、ともかくひとつの行為体として動いてしまう。それこそが、私たちが生成AIとともに生きるという経験の実態に近いのではないか。
教育への活用
そろそろ着地点に向かって話を収めなければいけない。大学で働いていると学生がレポートやレジュメ、さらに卒論までもAIで作成してくるケースが増えており、今日の教育現場が直面する最大級の課題とされる。AIを使ってはいけないと言っても、時間がなければAIを使う学生がいるのは当然だし、これだけAIが普及した世の中でAIを全く使うなと指示するのもどこか違うように思う。そのため私のゼミでは、AIを使ってもよいが、どこまで優れたレジュメを作成できるかで学生の提出物を評価し、フィードバックを行うように試みている。その際に使うのが、ヴェノムの比喩だ。シンビオートに飲み込まれて主体性が奪われれば「うまく融合できなかったヴェノム」になり、やがては淘汰されかねない。逆にAIと交渉しながら自分の判断を手放さずにいられれば、より高い着地点が見えてくる。もっとも、これが奏功するかどうかは、しばらくやってみなければ分からないことではあるが、「取」か「捨」かという二択を越えたところにAI時代の教育が拓けてくることを信じたい。ヴェノムもエディも最初から融合を望んでいたわけではなかった。それでも交渉を重ねるうちに、ひとつの行為体として動けるようになっていった。学生とAIの関係も案外そういうものなのかもしれない。
- もともとはラトゥールの下記の論文にルームキーの話として書かれている。 Bruno Latour. 1990. Technology is Society Made Durable. The Sociological Review, 38(1), pp. 103-131, last accessed on 15 April 2026.
- ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之訳)2018『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来(上)(下)』河出書房新社.
- Carl Öhman. 2024. We are Building Gods: AI as the Anthropomorphised Authority of the Past, Minds and Machines, 34, last accessed on 15 April 2026.
- Soroush Saghafian & Lihi Idan. 2024. Effective Generative AI: The Human‑Algorithm Centaur. Harvard Data Science Review, Special Issue: Grappling with the Generative AI Revolution, last accessed on 15 April 2026.

千葉 悠志 准教授
中東地域研究、メディア研究、国際関係論

