正月はなぜめでたいのか―法制と民俗
正月はなぜめでたいのか―法制と民俗
正月はなぜおめでたいのか――特に意識することもなく、正月になると「あけましておめでとうございます」とあいさつし、かなり少なくなったとはいえ「謹賀新年」と書かれた年賀状をやりとりしていますが、そう聞かれると困る人も多いのではないでしょうか。
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と公共放送の某人気番組に登場するキャラクターに怒られそうですが、だいたいの人はそんなものです。
そのような当たり前の日常の習慣の由来を考える学問として、「民間伝承の調査を通して、主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究する学問」(デジタル大辞泉)である「民俗学」があります。そのものズバリ、岩井 宏実『正月はなぜめでたいか―暮らしの中の民俗学』(大月書店)という本さえあるのです。
同書は「正月とはすべての生物が躍動する春を迎え、人々がその生命力の更新をよろこび、祝ったところに意味があり、〝めでたさ〟があった」とし、「穀霊であり、同時に祖霊たる祖先神」である「年神」(としがみ)を迎える日で、「祖先をまつるとき」でもあったとしています。その年神がもたらすものが「お年玉」であり、年神が宿る依代(よりしろ)が門松、祭の場を示すものがしめ縄であった‥‥としています。
しかし、それは正月がめでたい、ということを意味しますが、正月=1月がめでたいことの回答にはなっていません。年神が祖霊、つまり祖先の霊魂だとするならば、それはお盆にも戻ってくる存在のはずです。
実際、民俗学の祖とされる柳田 國男は、「盆と正月には今でも一対の儀式が色々ある。盆礼と称して袴をはいて廻礼するのは、必ずしも仏様を拝みに来るので無かった。踊とか綱引とかは現在は遊戯だが、それでもまだ方式が守られている。それが盆に行う土地と正月の十五日にするものとが入交っているのである。‥‥殊によく似ているのは盆の精霊棚と正月の年神棚との飾り方で、家の者がこれに仕える手続きから、特定の植物を採って来て結び付ける点まで一致している」としています(柳田 国男「春と暦」同『新たなる太陽』→『柳田国男全集16』ちくま文庫)。つまり、もとは豊かな実りをもたらす神であり、祖先の霊魂でもある年神が年の初めと半ばにそれぞれ村や家を訪れていたが、仏教の影響が強まると、正月は年神を迎える日、お盆は先祖を迎える日になっていったとしているのです。柳田のこの説には異論もあります。ただ、かつて正月のみがめでたい日ではなかった、ということは間違いないでしょう。
年神は具体的なかたちをとることもありました。たとえば、秋田県の男鹿半島で行われているナマハゲは、恐ろしい表情の仮面を着け、包丁やナタをもち、蓑をまとった存在が家々を訪れて人々に警告を与える行事で、本来小正月(1月15日)に行われており(現在は大晦日)、年神の一形態であったと思われます。佐賀県蓮池町の見島地区で行われるカセドリは、同じく小正月(現在は2月の第2土曜日)の行事で、笠と蓑を着けた存在が同じく家々を訪れます。一方、鹿児島県トカラ列島の悪石島に伝わるボゼは、仮面と蓑を着けた存在が家々を訪れますが、行われるのはお盆の時期です。これらはいずれも平成30年(2018)には、「来訪神:仮面・仮装の神々」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
かつて日本の各地には、年神とのちに総称される存在が、さまざまな季節の変わり目に山や海のむこうから家々を訪れていたのでしょう。柳田 國男の弟子で、国文学・民俗学の研究者であった折口 信夫は、このような存在は柳田が言うように、必ずしも祖霊に由来せず、「まれびと」と称すべきもので、その訪問はさまざまな祭祀や芸能の原型となるものであったと述べています。
柳田 國男の正月と盆は本来同じ行事であったという主張は、仏教以前から日本には盆行事に相当する祖先祭祀があったという推測を含んでいます。これに限らず、柳田の議論には、仏教や中国思想の影響を受けたとされる行事がもともと日本で行われていたとするものがしばしば見られます。これには2つの理由が考えられます。
1つは江戸時代の知識人が民間の行事を記録する際に、多く漢籍と結びつけて説明し、そのため行事の本来の姿がわかりにくくなっていたこと、もう1つは、柳田の問題意識に由来するものでしょう。
柳田が学生時代を送った明治時代の日本は、欧米の制度・文化を積極的に導入し、日本を強く富んだ国(富国強兵)に改造しようという時代でした。それを批判した自由主義者や社会主義者たちも、ヨーロッパの思想を日本に当てはめようと言う点では同様だったのです。柳田は東京帝国大学を卒業後、農商務省や法制局に勤務し、当時の農村の状況を観察する中で、外来の制度や思想をただ導入しても状況は改善されないと考えたようです。むしろ農村社会(当時は日本人のほとんどが農村の人々でした)の中で、何が賞賛され、何が憎まれたのか、それを理解し、残すべきものは残し、改めるべきものは改めなければならない――そのサンプルとして、柳田は生涯をかけて日本全国の信仰・儀礼・伝説・昔話・ことわざ・家族制度・生活習慣・妖怪の収集と整理に努めたのです(化野 燐「妖怪」東アジア恠異学会編『怪異から妖怪へ』文学通信)。その中で、日本の社会に根ざした論理を求めるために、中国思想や仏教の影響が見られるものは収集対象から外されたり、本質的なものではないとされたりしがちでした。
しかし、それはやはり柳田の勇み足であり、外来の思想を受容し、変質させていく中に日本の民俗社会のあり方を考える研究も現在では行われています(五来 重『仏教と民俗』角川ソフィア文庫)。
そうしますと、やはり正月=1月がめでたいのは、中国思想の影響であり、それに年神の信仰が結びついたものと考えるべきでしょう。
正月はなぜめでたいのか―法制史の立場から
今まで民俗学は正月がなぜめでたいかを説明しても、その正月が1月であることは説明できていないとしてきました。正月が1月なのは当たり前と思われるかもしれません。しかし、中国において正月は必ずしも1月とは限らないのです。以下、法制史家の瀧川 政次郎『元号考證』(永田書房)に基づいて説明します。
前漢の歴史家で、紀元前2世紀の人物である司馬遷(しばせん)は中国正史の最初とされる『史記』を著しました。その中の「歴書」は、暦を「王者の重んずる所なり」とし、「夏の正は一月を以てし、殷の正は十二月を以てし、周の正は十一月を以てす」と、中国古代王朝の夏・殷・周王朝の時代にしばしば正月が変わったことを伝えています。更に周王朝の統治が乱れた春秋戦国時代の混乱を治めた始皇帝の秦は「正を十月を以てし」、秦滅亡後に中国を統一した前漢の5代武帝(司馬遷が仕えた皇帝でもあります)の時代には「夏正と同じ」として1月を正月としました。それが現在まで続いているのですが、北宋の司馬光の『資治通鑑』には武則天(則天武后)の時代の出来事として「始めて周正を用ゐる。永昌元年十一月を改め載初元年正月と為す」とあり、8世紀に唐を改めて周(武周)とした女帝・則天武后の時代には、短期間、古代の周王朝に倣い、正月を11月とした時期もあったようです。
司馬遷は「王者、姓を易(か)へ、命を受くるや、必ず始初を慎む。正朔を改め、服色を易へるは、天の元を推本し、厥の意に順承す」とし、新しく君主(皇帝)となったときは慎重に天の意を読み取り、制度を変えねばならないとし、具体的には「正朔」(せいさく、正=年の始めと朔=月の初め、あわせて暦を意味する)と「服色」(天皇・皇后の服装の色)を挙げています。
中国の皇帝は全世界の支配者であり、空間とともに、時間の支配権、つまり年や月の始まりを決める権限を有していると考えられていました。そのため、漢の武帝は、地方分権的であった前漢の支配を中央集権的に改めるとともに、西域に領土を広げたと考えられます。また「太初暦」という暦を制定し、前述したように正月を1月に改めたのです。さらに武帝は初めて「年号」(元号)を定めた皇帝でもあります。年号もまた、皇帝の統治の時間の途中に、新しい出発点を設定するもので、皇帝の時間への支配権を示すものでした(所 功ほか『元号-年号からみた日本史』文春新書、渡邊 義浩『漢帝国-400年の興亡』中公新書)。
日本が、中国の暦をいつから取り入れたのかははっきりしていません。しかし、中国の皇帝に対し周辺諸国が臣下の礼を取る際には、「正朔を奉ず」「正朔に帰す」という言葉が用いられており、中国の暦の使用が重視されていました。中国皇帝の支配に服すことはその時間軸を使うということを意味していたのです。
そうすると、「魏志倭人伝」(『三国志』)に登場する3世紀の邪馬台国の女王・卑弥呼の時代には、魏王朝から「親魏倭王」の称号とともに、暦が授けられていたのかもしれません。もっとも、5世紀になり『三国志』に付加された裴松之(はいしょうし)の注に引用された『魏略』には邪馬台国の生活について「其の俗、正歳四節を知らず、但春耕秋収を計りて年紀と為す」とあり、ほとんどの人は中国の暦を理解せず、種蒔き(田植え)と収穫を1年のサイクルの指標(目印)として生活をしていた様子がうかがえます。

大伴家持像(富山県高岡市勝興寺)
また『宋書』倭国伝には5世紀ごろ、中国の宋王朝にしばしば使者を派遣した「倭の五王」の記事があり、その最後の「武」は雄略天皇とされます。その雄略天皇=ワカタケル大王に仕えた「ヲワケ臣」の墓に収められた鉄刀が埼玉県稲荷山古墳から出土しており、その銘文には「辛亥年七月中記」という文字が確認できます。この時代には確実に中国の暦を採用していたのです。
しかし、古代の日本人は中国の暦を取り入れながらも、中国皇帝の時間の支配権をそのまま認めることには抵抗を感じていたようです。645年に蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子らによる新政府は、独自に「大化」という年号を使用し、更に660年には中大兄皇子が「漏刻」(ろうこく、水時計)を設置したと『日本書紀』には見えます。「大化」年号は、現在宇治市の橋寺放生院にある「宇治橋断碑」に確認され(現在のものは江戸時代に復元されたもので、その真偽には議論があります)、また漏刻の存在は奈良県の飛鳥水落遺跡から遺構が発見されています(復元模型が飛鳥資料館や高岡万葉歴史館に存在)。ここには日本独自の時間の制度を設定しようとする古代の人々の努力がうかがえます。しかし、日本人が独自の暦を制定するのは、それからはるかのちの時代、江戸時代の渋川春海の貞享暦(じょうきょうれき)の作成を待たねばなりませんでした。
そして、飛鳥・奈良時代になると、中国の制度にならい、元日には天皇を臣下が拝礼するという「朝賀」の儀式が行われるようになりました。
この儀式ではまず、天皇が大極殿の高御座に座り、数千人の貴族・官僚がその前の庭に列立して柏手を打ち、天皇を拝みます。さらに皇太子が進み出て「新年の新月の新日や、万福を持ち参り来て、拝み供へ奉らくと申す」と申し上げ、天皇はそれに対して宣命(お言葉)で答える。その内容が貴族・官僚たちに伝えられると、うちそろって「おおーっ」と声を挙げ、万歳を称し、旗を振るというものでした(『儀式』・『延喜式』)。
『続日本紀』には大宝元年(701)の元日の出来事として「天皇、大極殿に御しまして朝を受けたまふ。その儀、正門に烏形の幢(とう、はたぼこ)を樹つ。左は日像・青竜・朱雀の幡(ばん、はた)、右は月像・玄武・白虎の幡なり。蕃夷(ばんい、外国)の使者、左右に陳列す。文物の儀、是に備れり」という記事があります。正月に天皇を拝礼する行事は、それ以前から行われていた可能性が高いのですが、中国的な朝賀の儀礼が行われ、それを実行できる制度が整備されたことを『続日本紀』は誇らしげに述べていることがわかります。
さらにこの時、諸国(地方)では、天皇の代理人としての国司に対して、中央から派遣された部下たちと、現地で任用された郡司たちが拝礼し、その後宴会を行うという儀式も行われていました。古代において元日の朝は、日本国内(当時は東北から九州まで)の貴族・官僚たちが全て天皇を拝すという壮大な儀式が行われる日だったのです。
瀧川 政次郎は、この儀式を、天皇が定めた正月を貴族・官僚たちが祝うものであり、その名残が年賀状における「謹賀新年」「恭賀新年」という言葉であると指摘し「謹んで、あるいは恭(うやうや)しく新年を賀するというのは、新年が天皇によって定められた天皇の元日なるが故であって、自然にめぐりあった一月一日なれば、なにも謹んだり、恭しくしたりする必要はない」と皮肉交じりに述べています。
つまり、法制史的に正月はなぜめでたいかを考えれば、中国の時間の制度をとりいれた日本古代の天皇が、1月を正月と定め、その日が来たことを祝う意味があるからめでたい、ということになります。
さて、皆さんはどうお考えになるでしょうか。
最後に、中央での朝賀と、地方(因幡国)における国庁での宴会について詠まれた歌を挙げておきます。
雲の上にきこえあげよとよばふらし 年の始(はじめ)の万代(よろずよ)の声(『年中行事歌合』前大納言)
新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)(『万葉集』大伴家持)

久禮 旦雄 教授



