セウタ危機から考えるグローバル・ガバナンス
2026.09.15
2026年7月30日から31日にかけて、北アフリカのスペイン領セウタにモロッコ側から大量の人々が流入した。スペイン当局は約4万9,000人と発表しており、その後の報道では約7万人規模に達したとされている ※1。人口約8万4,000人の都市に、わずか数日で人口に匹敵する人々が押し寄せたことで、スペイン政府は軍や警察を動員し、欧州全体に大きな懸念を生じさせた。
この出来事はしばしば「非正規移民の大量流入」や「国境危機」として報じられる。しかし、それだけでは今回の現象の本質は見えてこない。なぜこれほど多くの人々が一斉に移動したのかを理解するために、グローバル・ガバナンス研究の知見を踏まえながら、セウタ危機が提起した課題について考えてみたい。
セウタという特異な空間
セウタはモロッコ北部に位置するスペインの飛び地であり、アフリカ大陸にありながら欧州連合(EU)の一部を構成している。この地域は長い歴史的経緯を経てスペインの主権下に置かれてきたが、現在でもモロッコは領有権を主張している。そのためセウタは単なる国境都市ではなく、ヨーロッパとアフリカ、国家主権と地域統合、歴史と現実の政治が交錯する特殊な空間である。
移民にとってもセウタは重要な意味を持つ。アフリカからヨーロッパへの移動を希望する人々にとって、セウタは最も近い「EUへの入口」の一つだからである。その結果、セウタは長年にわたり移民移動の結節点となってきた。
このような地理的・政治的な特殊性を持つセウタでは、これまでも移民流入をめぐる緊張が繰り返されてきた。実際、セウタにおける危機は今回が初めてではない。2021年には約1万人が流入し、スペインとモロッコの外交対立が背景にあると指摘された。特に西サハラ問題をめぐる両国関係の緊張が危機を拡大させたと分析されている ※2。しかし2026年の危機は、外交対立だけでなく、人々の将来への期待や情報環境の変化、そして移民ガバナンスの構造的な脆弱性が複雑に重なり合って生じた点に特徴がある。
なぜ大量流入が起きたのか
では、なぜ2026年には過去を大きく上回る規模の人々が短期間でセウタへ向かったのだろうか。その背景を理解するには、移民研究で蓄積されてきた理論的な説明を参照する必要がある。移民研究では、人々の移動を説明する際に「プッシュ要因」と「プル要因」という概念が用いられることが多い。低所得や失業など出身地側の要因が人々を押し出し、より良い雇用や安全な生活環境が移動先へ引き寄せると考えられてきた ※3。
今回のセウタ危機にも、モロッコ国内の経済的困難という背景があったと考えられる。しかし、数万人規模の人々が短期間に一斉移動した現象を説明するには、それだけでは不十分である。近年の研究によれば、人々は単純に貧しいから移動するのではない。むしろ移動によって生活が改善するという期待(aspiration)を抱き、なおかつ実際に移動できる資源・能力(capability)を持つときに移動を選択する傾向がある ※4。
この観点から注目すべきなのは、今回の危機に先立ってスペインの移民政策に関する情報がSNSを通じて急速に拡散し、人々の移住期待を高めた可能性があることである。スペインの司法判断 ※5や移民政策をめぐる議論 ※6が、一部では「スペインに到達すれば送還されない可能性が高い」という認識として受け止められた。重要なのは、その認識が正確だったかどうかではない。移民研究が示してきたように、人々の行動を左右するのは政策そのものではなく、政策がどのように理解されるかである。その意味で、セウタ危機は「国境が破られた危機」ではなく、「移民政策に関する期待が国境を越えて共有された危機」とも理解できる。
このことをより深く理解するためには、移民ネットワークの存在が重要となる。家族や友人、同郷者のコミュニティを通じて移住に関する情報や経験が共有されることで、新たな移動が促進される ※7。この観点からみれば、2026年のセウタ危機も単にSNS上の誤情報だけで説明できるものではない。既にスペイン国内や欧州各地に形成されていた移民ネットワークを通じて、「最高裁判決により海路到着者は即時送還されない」「スペインで大規模な正規化政策が進められている」といった情報が急速に共有され、その内容が誇張あるいは誤解された形で伝播した可能性がある。かつては口コミや地域共同体が果たしていた役割を、今日ではSNSが補完している。現代の移民移動は、情報技術の発達によってより迅速かつ広域的に連鎖するようになったのである ※8。
上記に加えて、モロッコ側の国境管理の状況も無視できない。通常であれば容易ではない越境が短期間に大規模化した背景には、モロッコ側の国境管理が結果として大量の移動を十分に抑制できなかったことが影響した可能性がある。実際、一部報道では、モロッコ当局の対応の遅れや管理上の脆弱性が指摘されている ※9。 すなわち、今回の危機は「移住を促す情報要因」と「越境を可能にした管理環境要因」が相互に作用した結果として理解するのが妥当であろう。
なぜ大量流入が起きたのか
では、なぜ2026年には過去を大きく上回る規模の人々が短期間でセウタへ向かったのだろうか。その背景を理解するには、移民研究で蓄積されてきた理論的な説明を参照する必要がある。移民研究では、人々の移動を説明する際に「プッシュ要因」と「プル要因」という概念が用いられることが多い。低所得や失業など出身地側の要因が人々を押し出し、より良い雇用や安全な生活環境が移動先へ引き寄せると考えられてきた 。
今回のセウタ危機にも、モロッコ国内の経済的困難という背景があったと考えられる。しかし、数万人規模の人々が短期間に一斉移動した現象を説明するには、それだけでは不十分である。近年の研究によれば、人々は単純に貧しいから移動するのではない。むしろ移動によって生活が改善するという期待(aspiration)を抱き、なおかつ実際に移動できる資源・能力(capability)を持つときに移動を選択する傾向がある 。
この観点から注目すべきなのは、今回の危機に先立ってスペインの移民政策に関する情報がSNSを通じて急速に拡散し、人々の移住期待を高めた可能性があることである。スペインの司法判断 や移民政策をめぐる議論 が、一部では「スペインに到達すれば送還されない可能性が高い」という認識として受け止められた。重要なのは、その認識が正確だったかどうかではない。移民研究が示してきたように、人々の行動を左右するのは政策そのものではなく、政策がどのように理解されるかである。その意味で、セウタ危機は「国境が破られた危機」ではなく、「移民政策に関する期待が国境を越えて共有された危機」とも理解できる。
このことをより深く理解するためには、移民ネットワークの存在が重要となる。家族や友人、同郷者のコミュニティを通じて移住に関する情報や経験が共有されることで、新たな移動が促進される 。この観点からみれば、2026年のセウタ危機も単にSNS上の誤情報だけで説明できるものではない。既にスペイン国内や欧州各地に形成されていた移民ネットワークを通じて、「最高裁判決により海路到着者は即時送還されない」「スペインで大規模な正規化政策が進められている」といった情報が急速に共有され、その内容が誇張あるいは誤解された形で伝播した可能性がある。かつては口コミや地域共同体が果たしていた役割を、今日ではSNSが補完している。現代の移民移動は、情報技術の発達によってより迅速かつ広域的に連鎖するようになったのである 。
上記に加えて、モロッコ側の国境管理の状況も無視できない。通常であれば容易ではない越境が短期間に大規模化した背景には、モロッコ側の国境管理が結果として大量の移動を十分に抑制できなかったことが影響した可能性がある。実際、一部報道では、モロッコ当局の対応の遅れや管理上の脆弱性が指摘されている 。 すなわち、今回の危機は「移住を促す情報要因」と「越境を可能にした管理環境要因」が相互に作用した結果として理解するのが妥当であろう。
人道と主権の衝突
このように、セウタ危機の背景には、経済的要因や情報環境の変化、国境管理の問題が複雑に絡み合っていた。その結果として生じたのは単なる人口移動ではなく、多くの犠牲者を伴う深刻な人道危機でもあった。今回の越境では、多くの人々がセウタとモロッコを隔てる国境フェンスを迂回し、海を泳いで渡ろうとした。死者数については報道により幅があるものの、少なくとも100人前後が死亡したとされており、多数の行方不明者も報告されている ※10。
この事実は、移民問題が安全保障や国境管理の問題であると同時に、人道上の問題でもあることを示している。そして、この危機は難民保護と国境管理のあり方をめぐる法的・政治的課題を改めて浮き彫りにした。国家には国境を管理し治安を維持する責任がある一方で、国際難民法上のノン・ルフールマン原則に基づき、迫害や重大な危害のおそれがある場所への送還は禁じられている。そのため国家は、人権保護と国境管理の間で難しい判断を迫られる。セウタ危機は、こうした二つの要請が正面から衝突した事例であった。
さらに、今回の危機はスペイン一国の問題にとどまらなかった。イタリアやフランスを含む複数のEU加盟国が警戒を強め、EUレベルでの協議も求められた。セウタはEUの外部国境の一部であり、大規模な不規則移民の流入はスペインのみならずEU全体の移民・国境管理政策に影響を及ぼし得るためである。もっとも、セウタに到達した人々が直ちにスペイン本土やシェンゲン圏へ自由に移動できるわけではなく、実際には本土への移動には一定の管理措置が存在する。それでも、セウタへの大量流入はEU外部国境の管理能力や移民政策全体への信頼性に関わる問題として受け止められた。実際、危機発生後には22か国のEU加盟国が共同で対応を求め、EUレベルで緊急協議が実施された。
2015年の欧州難民危機以降、移民政策はEU政治における最大の争点の一つとなっている。シェンゲン体制による自由移動は欧州統合の象徴だが、大規模な移民流入の局面では加盟国の間に緊張が生じやすい。今回の危機もまた、自由移動と国境管理をどのように両立させるのかという根本的な課題を改めて浮き彫りにした。そして、この課題はEU内部の政策調整だけでは解決できない。むしろ、国境を越えて連鎖する移民移動そのものをどのように統治するかという、より広いグローバル・ガバナンスの問題として捉える必要がある。
グローバル・ガバナンス ※11の視点から見たセウタ危機
セウタ危機を理解する上で最も重要なのは、この問題をスペイン一国の国境管理の失敗として捉えないことである。
グローバル・ガバナンス研究は、気候変動や感染症対策と同様に、移民・難民問題も一国だけでは解決できない越境的課題であることを示してきた。人々の移動は出身国の経済状況、受入国の政策、国際法、人権規範、市民社会の活動などが相互に作用することで生じる。この危機にはスペインとモロッコだけでなく、EU、国際法、移民ネットワーク、SNS上の情報空間など複数の主体・制度が関与している。そのため、問題への対応もまた多層的でなければならない。
セウタ危機が示したのは、移民政策がもはや国家単独の統治対象ではないという現実である。スペインだけが国境を強化しても、人々を移動へと駆り立てる社会経済的要因は消えない。モロッコだけが取り締まりを強化しても、人々の将来への期待や移動ネットワークを完全に遮断することはできない。EUだけが制度改革を進めても、出身国との協力がなければ持続的な解決にはつながらない。
求められているのは、国境管理と人権保護を対立概念として捉えるのではなく、両者を両立させる制度設計である。難民認定手続の効率化、出身国における経済発展支援、そして地域間協力の強化など、多様な政策を組み合わせた包括的な対応が不可欠となる。
セウタ危機は、移民をどのように排除するかという問題ではなく、人々の移動が常態化した世界において、いかにして秩序と人権を両立させるかという問題を私たちに突きつけている。その意味で、この出来事はスペインやモロッコだけの問題ではない。国境を越えて相互依存を深める21世紀の国際社会全体が向き合うべき課題なのである。
注
- 毎日新聞「スペイン領に移民殺到、「モロッコが意図的に容認」の見方浮上」(2026年8月4日)
- 2021年春、スペイン政府は、西サハラ独立運動組織であるポリサリオ戦線の指導者ブラヒム・ガリ氏を、新型コロナウイルス感染症の治療のため偽名でスペイン国内の病院に受け入れた。西サハラの領有権を主張するモロッコ政府はこれに強く反発し、両国関係は急速に悪化した。そうした中、2021年5月には数千人規模の移民が泳いだり防波堤を越えたりしてスペイン領セウタへ流入する事態が発生した。多くの報道や専門家は、この大量流入の背景として、モロッコ当局が国境管理を緩めたことを指摘している。2021年危機において、国家間の政治的対立の中で移民が外交的圧力手段として利用された可能性について言及しているものとしてGabrielli, L., & Garcés Mascareñas, B. (2025). 'The framing of migration as a hybrid military threat: Insights from the Ceuta's 2021 "crisis"'. Migration Studies, 13(1), mnaf007.を参照。
- Ravenstein, E. G. (1889). 'The laws of migration'. Journal of the Royal Statistical Society, Vol 52, No. 2, pp. 214-301.
- Carling, J. & Collins, F. (2018). 'Aspiration, Desire and Drivers of Migration'. Journal of Ethnic and Migration Studies, 44(6), 909-926; de Haas, H. (2021). 'A Theory of Migration: The Aspirations-Capabilities Framework'. Comparative Migration Studies, 9(1), Article 8.
- 2026年6月29日のスペイン最高裁判決(Sentencia 814/2026)は、セウタおよびメリリャに海路で到達した移民について、国境フェンスなどの物理的な国境管理施設を突破していない場合には、いわゆる「即時送還」を適用できないと判断した。その一方で、送還そのものを禁止したわけではなく、通常の返還手続きを通じて対応し、本人確認や法的支援など必要な手続保障を確保しなければならないとしたものである。ところが、この判決の趣旨がSNSなどで単純化され、「海から泳いで来れば送還されない」といった誤った理解が広まり、誤情報として拡散したとされている。
- スペイン政府は2026年、国内で生活する約50万人規模の非正規移民を対象とした大規模な正規化政策を進めていた。この政策は、新たな移民流入を促進することを目的としたものではなく、すでにスペイン社会の中で生活し、就労している人々を法制度の枠内に組み込み、労働力不足の解消や社会統合の促進、地下経済の縮小を図ることを目的としていた。対象となるのは原則として2025年末以前からスペイン国内に居住していた者であり、滞在実績や犯罪歴の有無など一定の要件を満たす必要があった。しかし、この正規化政策と、同年6月のスペイン最高裁判決(Sentencia 814/2026)の内容がSNSなどで単純化され、「スペインは不法移民を合法化している」「海からセウタへ渡れば送還されない」といった形で拡散したとされている。
- Massey, D. S. (1990). 'Social Structure, Household Strategies, and the Cumulative Causation of Migration'. Population Index, Vol. 56, No. 1, 3-26.
- Dekker, R. & Engbersen, G. (2014). 'How Social Media Transform Migrant Networks and Facilitate Migration'. Global Networks, 14(4), 401-418.
- 危機はモロッコの王位記念日の時期に発生した。一部報道では、モロッコ当局が国境管理を十分に機能させなかった可能性や、王位記念日に関連した政治的文脈が指摘されている(France 24; Euronews)。
- BBC「スペイン飛び地セウタへ移民が大規模流入......情報機関が事前警告 政府文書で明らかに」(2026年9月10日)
- グローバル・ガバナンスとは、国家だけでは解決できない国際的課題に対し、国家、国際機関、市民社会、民間企業など多様な主体が協力して対応する仕組みを指す。

井口 正彦 教授
グローバル・ガバナンス論、地球環境政治学

