誰の「記憶」を継承するのか—インド・パキスタン分離独立の「記憶」の現在 2022.09.08
2022年8月15日、日本は77回目の「終戦の日」を迎えた。ロシアによるウクライナ侵攻の影響もあり、今年は第二次世界大戦下の戦争犯罪や民間人の被害などに焦点をあてる報道が多かったように思う。戦争体験者の高齢化が進むなか、「記憶」をいかに継承するかが喫緊の課題となっている。本ニュース解説では、同じく8月15日に節目の年を迎えたインドを取り上げ、「記憶」の継承をめぐるポリティックスについて考えてみたい。
1947年8月15日 インド分離独立(The Partition of India)
75年前の1947年8月15日、インド・パキスタンは200年に及ぶイギリス支配からの独立を果たした.1。戦争を経ることのない交渉による独立ではあったが、ヒンドゥー教徒が多く住むインドとイスラム教徒が多数派のパキスタンという2つの国の誕生は、両国民に深い傷跡を残すものとなった。正確な人数は分かっていないが、1200万人以上が難民となり、およそ100万人が殺害されたという.2。
イギリス領インドでは、かねてより宗教対立による暴動が発生していたため、分離独立の発表を受け、人々は迫害を逃れるために自分が宗教的多数派となる地域に移動を始めた。その過程において各地で惨劇が起こったのである。とりわけ、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がそれぞれ人口の半数を占めていたパンジャーブとベンガルでは、独立の2日後にそれぞれの土地をインドとパキスタンに二分割する国境線が発表されたため、大混乱となった.3。暴徒による襲撃をおそれ、パキスタンのヒンドゥー教徒はインドへ、インドのイスラム教徒はパキスタンへと逃れるために、列車やバスに殺到した。多くの住民は持てるだけの荷物を抱え、何日もかけて徒歩で国境を越えた。数か月という短期間での1000万人を超える人口の大移動は大量の難民を生み出しただけでなく、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の衝突、虐殺やレイプ、誘拐などを引き起こし、報復の連鎖が各地で起こった。
コミュナリズムによる「記憶」の政治化
分離独立後も国境紛争を抱えるインドとパキスタンは3度戦火を交え、互いに核兵器保有国となった現在も激しく対立している。国内に目を転じると、インド・パキスタン両国ともに、宗教少数派を国内に抱えており、独立後も「コミュナル(宗派)暴動」が深刻な問題となっている。
分離独立に伴う大規模なコミュナル暴動は、宗教対立の沸点であり、その後も続く暴力の要因ともなっている。しかし、こうした暴力の根底にある異教徒に対する憎悪と不信は、イギリスの植民地政策に起因するとの指摘がある。イギリスは、宗教やカースト、民族間の違いを強調し対立を煽る分断統治を行い、インド人の不満がイギリスに向かわないようにした。その根拠となる宗教やカーストなどの社会集団は、国勢調査などによってイギリスが社会集団間の境界を固定したものであった。植民地支配を通じて、インドでは宗教が自他を区別する最も明確で強力な指標として、ナショナリズムと結びつくようになっていた。
こうして形成されたコミュナリズム(宗派主義)は、イギリス植民地政策による地位や富の不均衡な配分への不満から、他の宗教コミュニティを敵対視し、政治的・経済的パワーを追求する政治エリートに利用されることとなった。特にインドでは、1990年代以降、ヒンドゥー・ナショナリズムが高揚し、大規模な反ムスリム暴動や虐殺事件が続発している。例えば、1992年、ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げるインド人民党(BJP)らが、アヨーディヤの「バーブリー・マスジット(モスク)」がヒンドゥー教の聖地に建てられていると主張し、数千人のヒンドゥー教徒を扇動してモスクを襲撃し破壊するという行為に及んだ.4。17世紀に起こったイスラム教徒によるヒンドゥー寺院の破壊という「記憶」が政治的に利用されたといえよう。
沈黙するサバイバー
分離独立とそれに伴うコミュナル暴力を生き延びた人々(サバイバー)は長きにわたって沈黙してきた。一夜にして創られた国境によって、家族が引き裂かれ、住み慣れた町を離れざるを得なかった恨み、怒り、悲しみは言葉では言い表せないだろう。多くの人びとにとって、剥き出しの暴力に晒された経験は癒えることないトラウマとなっていた。特に分離独立を女性がどのように体験したかを話すことはタブー視された。75,000人以上の女性が異教徒にレイプされ、また多くの女性が誘拐され改宗を強要されたことはいわば公然の秘密であった.5。
しかし、サバイバーが最も恐れたのは、過激化するコミュナリズムの標的になることであったとされる.6。「向こう側」から逃れてきたことへの差別があったこと、また何より、国家中心の「記憶」と異なる個人的「記憶」を公表することがためらわれた。多くのサバイバーは、分離独立以前は異教徒と隣りあって生活していた。パンジャーブやベンガルでは、イスラムとヒンドゥーの同化や習合がすすんでおり、異教徒間の婚姻が許容されるなど、社会集団間に一定の流動性があった.7。分離独立時の暴動の際に異教徒の隣人にかくまわれたことを証言する人も多くいた。個人レベルでは、敵と味方を宗教によって分けることは困難なのであろう。
「記憶」の継承がなぜ必要なのか
2000年代に入り、サバイバー一人ひとりの記憶や語りをアーカイブ化し公開する取り組みがアメリカやイギリスで始まった。政治的中立性が担保されたデジタルの世界で、高齢になったサバイバーが重い口を開き証言に協力するようになったという。今では、インドやパキスタンでもアーカイブ化を進めサバイバーの「記憶」を継承する動きが見られる.8。
個々のサバイバーの「記憶」は一様ではない。だが、上記アーカイブは多様な人々の「記憶」を積み重ね、国家が提供する「記憶」にあらがおうとしている。BJPを率いるモディ首相は、イスラム教徒の排斥ともいえる「改正国籍法」を制定するなど、インド政治はますますヒンドゥー化している.9。分離独立のサバイバーの「記憶」継承は、強まるコミュナリズムへの抵抗ともいえる。サバイバーの「記憶」は、犠牲者は「向こう側」にもいること、同じ痛みと悲しみを持つ人が「両側」にいることを人々に気づかせるきっかけになるかもしれない。
多様な「記憶」があることを受入れ、多様な「記憶」に耳を傾けることが、痛ましい過去と向き合う第一歩となる。誰の「記憶」に耳を傾けているのか、声なき人々の「記憶」は継承されているのか、私たち自身にも問いかけなければならない。沈黙は新たな暴力とさらなる沈黙を生みだすからだ。
- パキスタンの独立は8月14日に宣言された。
- 死者数は20万から200万人と幅がある。The Conversation, “How the Partition of India happened – and why its effects are still felt today,” August 10, 2017.
- パキスタンは、分割された東半分のパンジャーブとベンガルの西半分の東西パキスタンで構成された。西パキスタンは1971年バングラディシュとして独立した。
- 襲撃者たちは、ヒンドゥー教の神であるラーマ王子が約7000年前に生誕した地に建てられていた寺院が、16世紀にムガル帝国のバーブリー王に破壊され、その上にモスクが建設されたと主張した。この暴動に対する報復は国境を越えて各地に飛び火し、約2000人が命を落としたとされる。The Morning Chronicle, “As a reaction to Babri Masjid demolition, what had happened in Pakistan and Bangladesh on 6 December, 1992,” December 6, 1992.
- ウルワシー・ブターリア(藤岡恵美子訳)『沈黙の向こう側-インド・パキスタン分離独立と引き裂かれた人々の声』明石書店、2002年。
- The New Humanitarian, “Oral Testimonies Help Partition Survivors Break Taboos and Heal Old Wounds,” May 21, 2018.
- 中里成章『インドのヒンドゥーとムスリム』山川出版社、2008年。
- 例えば、以下を参照のこと。The 1947 Archive, Partition Museum, The 1947 Partition Archive, The Citizens Archive of Pakistan
- Reuters, “アングル:抗議活動広がるインド国籍法改正の問題点,” 2019年12月16日。
