2025年8月1日(金)と2日(土)にかけて、クロスゼミ3年次生12名が東京と横浜でフィールド・ワークを行いました。クロスゼミでは、戦後80年の節目にあたり、戦争の記憶がどのように継承されるのか、どのような記憶が継承されることが難しいのかを、ゼミ内で議論してきました。フィールド・ワークでは、朝鮮半島出身の元BC級戦犯と第二次世界大戦で捕虜となり日本で亡くなった連合国兵士に焦点をあて、語られることが少ない日本の加害について多くの方々からお話を伺いました。

1日目の8月1日(金)は東京都新宿区にある「高麗博物館」を訪れました。同博物館では、「なぜ『朝鮮人』が戦犯になったのか~戦後80年を迎えてなお続く植民地主義を問う~」企画展を見学しました。この企画展は、BC級戦犯として処刑・収監された朝鮮半島出身の元軍属が経験した、戦後の国籍条項に基づく差別待遇を扱うもので、展示を企画した高麗博物館理事の岩元さんや「『同進会』を応援する西東京市民の会」の横井さんから企画の意図などを聞きました。
1945年8月15日の日本敗戦後、日本国内外49か所に設置されたBC級戦犯法廷が設置され、連合軍捕虜に対する虐待等で、4,403人が有罪、920人が絞首刑になりました。このうち148名が朝鮮半島出身者で、23名が処刑されました。1952年4月28日に締結されたサンフランシスコ平和条約によって日本国籍を失った朝鮮人元戦犯たちは、「日本人」として刑を科されたにも関わらず、出所後は「国籍」を理由に日本人戦犯に与えられた恩給や補償を否定されました。元戦犯たちは「同進会」を結成し、朝鮮人戦犯刑死者の本国への遺骨送還や国家補償を求めて司法や日本政府に訴えてきました。最後の朝鮮人元BC級戦犯の李鶴来さんが2021年に亡くなられましたが、今なお朝鮮人元戦犯に対し日本政府からは何の補償もなされていません。
展示見学後、岩元さんや横井さんと振り返りを行い、学生たちからは「『同進会』を応援する西東京市民の会」が結成された背景を聞く質問や、日本政府が頑なに補償を実施しない理由を問う質問が出ました。お話を聞き、戦後も韓国に戻ることもできず、金銭的援助なく日本に残った朝鮮人元戦犯に対する不条理に接し、長年にわたって支援をおこなってきた市民団体があることに勇気づけられました。同時に、日本では多くの人が朝鮮人元戦犯に対する不正義に無関心であったことに気づかされました。

2日目の8月2日(土)は、横浜市保土ヶ谷区にある「英連邦戦死者墓地」で行われた追悼礼拝に参加しました。英連邦戦死者墓地には、日本国内の捕虜収容所で亡くなったおよそ1,700人の英連邦出身(イギリス、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、インドなど)の兵士が眠っています。日本の市民団体主催の追悼礼拝は、今年で31回目になり、イギリスやオーストラリア大使館などの関係者や市民、およそ150人が祈りを捧げました。13ヘクタールという広大な敷地はイギリス区、オーストラリア区などに分けられ、それぞれに墓碑が整然と並んでいます。かつて児童遊園地であったこの土地は戦後すぐに墓地として造成が始まり、日本政府が英連邦戦没者委員会に永久無償貸与しました。観光スポットである横浜外国人墓地とは異なり、同墓地の存在は一般にはほとんど知られていません。

追悼礼拝前に、捕虜・民間人抑留者や戦犯裁判の調査、元捕虜や遺族との交流などに取り組むPOW研究会の笹本さんに墓地を案内していただきました。POW研究会は同墓地に眠る捕虜1人1人の来歴やエピソードを調査されています。お話を伺い、墓碑に刻まれた兵士には、それぞれに家族があり、人生があったことに思いを馳せました。労働力不足を補うためにアジア各地から日本に移送された捕虜たちの多くは、病気や栄養失調、過酷な労働、虐待等で若くして命を落としました。こうした日本国内の連合国兵士に対する加害の歴史についてはほとんど知られていません。

追悼礼拝後は、父が日本軍の捕虜となり、横浜の捕虜収容所で亡くなった、オーストラリア人のダグラス・ヘイウッドさんと交流会を行いました。ヘイウッドさんの父のスコット・ヘイウッド陸軍准尉は、シンガポールで捕虜となり、泰緬鉄道で過酷な強制労働に従事しました。その後日本移送中にアメリカの潜水艦に攻撃を受けて乗っていた船が沈没しましたが、幸運にも救助され、日本到着後は横浜にあった東芝工場で働かされました。しかし残念なことに、終戦の1か月前の1945年7月13日、連合軍による空襲で亡くなってしまったとのことです。戦後、日本移送前にスコットさんが看守の目を盗んで妻や子どもあてに書きためた389通の手紙が戦友を通じて母のマージさんに届けられました。ダグラスさんはこの手紙を読み、父が過酷な環境に関わらず不満ではなく、希望をもって生きていたこと、また、敵である日本兵と親しくなっていたことを知りました。ダグラスさんがタイプした手紙を基に執筆された、小説『A Week in September』は、ベストセラーになりました。

交流会後半には、学生たちからダグラスさんに「戦争を直接体験していない若い世代に何を望むか」などの質問が出ました。ダグラスさんは、日本人はとても親切でよい人たちで、何の恨みも持っていないこと、一般兵士は戦いたくないのに戦うことを強いられたこと、敵・味方関係のなく戦争ではみな不幸になるため、笑顔でみな友達になろう、と話されました。戦後80年の夏、日本の加害の歴史の一端に実際に触れ、あらためて平和について考える機会になりました。
