祇園祭—交流のもたらす幸いと災い

「祇園さん」と八坂神社

『都名所図会』「祇園社」国立国会図書館デジタルコレクション

京都で、「八坂神社はどこですか?」と聞くと、帰ってくる答えは「祇園さんは…」ということが多いようです。これは、「祇園祭」という祭の名称とともに、現在の八坂神社がかつて「祇園社」と呼ばれていたことのなごりと言えます。
「祇園」とは、仏教の創始者である釈迦に対して、帰依した須達(スダッタ)長者が寄進したといわれる「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」という寺院のことです。八坂神社、すなわちかつての祇園社の祭神はその祇園精舎の守護神とされていました。

神社の神さまが寺を守るというのは、今日の私たちにとっては違和感があるかもしれません。飛鳥時代に日本にもたらされた仏教の教えは長い時間をかけて神々の祭りと結びつき、一部の地域を除いて、明治時代になるまで、日本の神々は仏教の教えの中で理解されるようになっていたのです。祇園社の祭神が祇園精舎の守護神であるという理解は、その一例といえるでしょう。

また、明治時代になるまで、祇園社の石鳥居や手水舎には「感神院(かんしんいん)」と書かれた額が掲げられていました。これは「祇園社」のもう一つの呼称で、「寺院を守護する神の社」であるとともに「神をまつる寺院」であったことを示しています。

「蘇民将来の子孫也」

京都産業大学むすびわざ館ギャラリー展示「吉兆と魔除け」より

では、その祭神とはいかなる存在だったのでしょうか。
現在、八坂神社の祭神は『古事記』『日本書紀』などに登場する神である、スサノヲノミコトとその妻であるクシイナダヒメ、そして二人の間の八柱の御子たちとされています。
しかし、明治以前は牛頭天王(ごずてんのう)と正妻の頗梨采女(はりさいにょ)、そしてその子の八王子、あるいは側室である蛇毒気神龍王(じゃどくけしんりゅうおう)を祭神としていました(『二十二社註式』『都名所図会』)。

これらの神々は奈良時代の『古事記』や『日本書紀』には登場していませんし、名前も日本在来のものではなさそうです。
鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』には「祇園社の本縁」(由来)として、『古事記』『日本書紀』と同時期に書かれたと思われる『備後国風土記』(逸文)が引用されています。
そこでは「武塔神(むとうしん)」が宿を貸さなかった弟の将来(別の資料では巨旦将来)を恨み、一族を皆殺しにする際に、貧しい中で宿を貸し、粟飯でもてなした兄の蘇民将来(そみんしょうらい)に対して、家族に「茅(イネ科の植物であるチガヤ)で輪をつくり、着けさせよ」と命じ、それにより死を免れた。そして武塔神は「後の時代に疫病が流行した時は、蘇民将来の子孫であると言って、茅の輪を腰に着けた人は感染を免れるだろう」と告げたとしています。

現在、7月31日に八坂神社の境内にある疫神社の茅の輪くぐり(新型コロナウィルス感染症が流行し始めた令和2年〔2020〕には本殿横にも設置)やお守り、また祇園祭の宵宮の際に山鉾で授与される「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽」などはこれに由来するものです。
長岡京跡遺跡から延暦8年(789)から同11年頃と思われる「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符状の木簡が出土しており、その信仰の古さを示しています。
これらの祇園社に関わる説話や信仰からは、仏教とともに、大陸由来の呪術的な信仰に近いものを感じることができます。

しかし、慶応4年(明治元年、1868)3月28日の「神祇事務局達」は「中古以来、某権現或は牛頭天王之類、其の他仏語を以て神号に相称へ候神社少なからず」と批判し、仏教的な社号・神名を持つ神社の由来を報告するように命じています。同時期に祇園社は、仏教的な社号から、地名に由来する「八坂神社」に改名することとなったのです。

神輿渡御(みこしとぎょ)と山鉾巡行

祇園社の成立は明確ではありませんが、平安時代の貞観18年(876)、円如という僧による寺院建立に始まると考えられます(『社家条々記録』)。平安時代中期にはすでに疫病除けの神とされていたことが貴族の日記からわかります(『貞信公記』)。

祇園祭は貞観11年(869)の疫病流行の際、卜部平麻呂が神泉苑に66本の矛を立て、神輿を出した「祇園御霊会」に始まるとされます(『祇園社本縁録』)。しかし、このかたちがその後どのように継承されたかは不明です。

現在、祇園祭のイメージといえば山鉾巡行ですが、祇園祭を八坂神社(祇園社)の祭祀として考えるならば、それ以前に行われる神輿渡御を見逃すことはできません。これは祇園社の祭神が宿る三つの神輿が神社から移動し、賀茂川を渡り、御旅所(現在は四条寺町の四条御旅所)に奉安され(神幸祭)、一週間後に神社に帰還する(還幸祭)かたちをとります。山鉾とは本来御旅所の前を巡行し、神と人の目を楽しませるためのものなのです。

つまり祇園祭とは、賀茂川の向こうに普段は祭られている疫病をつかさどる神を、一年に一度だけ平安京(京都)内部にお迎えし、もてなした後にお帰り頂く祭祀であり、山鉾巡行はそれに付随するページェント(祝祭的行列)なのです。かつては神輿に対して、四条京極で粟飯がささげられており(『釈日本紀』『公事根源』)、旅人を歓待することが幸いにつながる蘇民将来の説話を再現した祭祀とも考えられます。

この神輿の渡御については、『祇園社記』は天延2年(974)に高辻東洞院に住む秦助正の邸宅を御旅所とせよ、神の訪れ(神幸)があるとの託宣が下り、その後、祇園社の神殿より助正邸まで蜘蛛の糸が続いていたことから、朝廷より助正を神主とし、その邸宅を御旅所とせよと命ぜられたと記し、「祭礼(祇園祭)の濫觴(始まり)也」と述べています。

神輿に比べて山鉾の登場は少し遅れます。平安時代半ばには、当時の摂政である藤原道長が祇園祭に際して「柱」「空車」を出すのを禁じています(『本朝世紀』『小右記』)。山や鉾の原型でしょう。当初は禁じられたページェントですが、のちには祇園祭には欠かせないものとなっていき、室町時代には、京都の人々が「(祇園社の)神事これ無くとも、山鉾渡したし」と主張するほどでした(『祇園執行日記』)。
また、現在の山鉾の懸装品には、ベルギーのゴブラン織によるタペストリー(鯉山)やペルシャ絨毯(長刀鉾)、インド更紗(南観音山)など世界中からもたらされた織物が用いられており、「動く博物館」「動く美術館」と言われていますが、これは安土桃山時代(1573年~1603年)に日本にもたらされたものが多いようです。

「夏祭り」と都市型災害としての疫病

祇園祭はなぜ華美なものとなり、人々を楽しませることになったのでしょうか。それは平安京の疫病除けの神の祭りであることと関係します。

疫病というものが、人の動きと密接に結びついており、人の動きが最も激しい都市部で広まるものであることは、私たちがこの2年ほどで身に染みて理解したところです。
そのため、疫病除けの祭りである祇園祭は都市である平安京ではじまり、腐敗が進みやすく、体力が落ちて病気が流行る夏の行事となりました。そして都市の見ず知らずの人々による祭りのため、その神の力を知らしめるように華美なものとなっていったのです。
民俗学者の柳田國男は、華美な行列を伴う「祭礼」を、従来の農村部の「祭」から発展したものとし、祇園祭を中心とした、疫病除けの夏祭りに伴うものと指摘しています(柳田國男『日本の祭』)。

山や鉾の原型が出現した藤原道長の時代にも数年おきに繰り返し疫病が流行しており、その際、紫式部の夫である藤原宣孝も病死しています。もし紫式部が夫を失わなければ宮中に勤務することもなく、世界的な名作『源氏物語』も生まれなかったでしょう。祇園祭もこの時代に信仰を集めていますので、いわば『源氏物語』と「祇園」(八坂神社に隣接する花街)という、今日の京都を代表する文化は、疫病の中から生まれたといえるのです。

交流のもたらす幸いと災い

祇園祭は、仏教や大陸の呪術の影響を受けた牛頭天王の祭祀であり、その山鉾にはヨーロッパやイラン、インド由来の織物が用いられるなど、世界的な人と文化の交流の歴史をうかがうことができます。その一方で、『備後國風土記』逸文の説話や賀茂川の対岸の神社から平安京内に神輿を招くという祭祀には、外部との交流が災い(あるいは幸い)をもたらすかもしれないという、プリミティブ(原始的)な畏怖の念を読み取れます。人との交流のもたらす幸いを願いと災いを恐れる思い、それは世界と交流が不可避となった現在を生きる私たちの中に、今も存在する感覚なのかもしれません。

参考文献

  • 柳田國男『日本の祭』(角川ソフィア文庫)
  • 所功『京都の三大祭』(角川ソフィア文庫)
  • 森浩一『京都の歴史を足元から探る[洛東の巻]』(学生社)
  • 笠井昌昭『古代日本の精神風土』(ぺりかん社)
  • 『祇園祭大展 山鉾名宝を中心に』(京都文化博物館)

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