皇室のお正月と法制度

皇室のお正月はお忙しい

「四方拝御図」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)

天皇陛下は紅白歌合戦を最後までご覧になられることはありません。
1月1日の夜明け前(午前5時半頃)、皇居の神嘉殿(しんかでん)の前庭において、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をお召しになった天皇が出御され、皇室のご先祖(皇祖神)である天照大神をお祭りする伊勢の神宮と四方(よも)の神々、歴代天皇の山陵を拝礼され、五穀の豊穣と国家の安寧を祈られます。

この儀式は天皇ご自身が必ず行われるもので、代拝は行われません。昭和・平成の天皇がご高齢となり、神嘉殿前庭への出御が難しくなった時は、御所のベランダにて行われました。
四方拝の準備のため、天皇陛下は31日のはやくにお休みになられ、早朝の4時過ぎには潔斎(沐浴)に入られます。ですから、12月31日の紅白歌合戦を最後までご覧になることはできません。
ある時、昭和天皇がその勝敗を気にされたのですが、関係職員も正月の諸行事の準備に追われ、誰も最後まで見ていた人がいなかったためにNHKに問い合わせた、ということもあったようです(谷部金次郎『昭和天皇と鰻茶漬』河出文庫)。

どのような状況でも行われる、ということについては昭和20年(1945)から翌年にかけて侍従長を務められた藤田尚徳氏が紹介された以下のエピソードがあります。
昭和20年(1945)の正月は、戦争の最末期であり、ろうそくや電灯の使用が制限される中で四方拝の準備が進められていました。当時昭和天皇がお住まいだった御文庫(皇居内の防空壕)から神嘉殿へ向かう自動車が出るとまもなく、警戒警報の発令があり、サイレンの音が都内の四方から響きだしました。一度御文庫に引き返したものの、警報は解除になる様子はなく、夜は次第に明けつつありました。とうとう軍装のまま、御文庫の庭上にて行うこととなったのです。
「侍従たちが御文庫の庭にむしろを敷き、‥‥金屏風をもちだして、拝礼の場を急造した。‥‥陛下が、四方をかこんだ金屏風の中へ入られる。やがてむしろをすべる沓音が、さあー、さあー、とひびいて来た。四方拝が行われている。非常例外のことであった。」(藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫)。

改めて現在行われている儀式の流れを見ておきましょう。
当日、陛下がお出ましになる前に、極寒で真暗闇の中、祭祀をつかさどる職員(掌典職)の方々により、四方拝の準備が始められます。前庭の吹き抜けの仮屋の中で、地面の上に荒薦・白布と真薦・蘭薦を敷き、その上に天皇の御座となる厚畳(あつだたみ)を置きます。その周囲に二双の屏風をめぐらし、伊勢神宮の方向となる西南の方向を少し明けておきます。

天皇陛下は潔斎の上でモーニングコートを召され、皇后陛下のお見送りを受けられ、自動車で宮中三殿の奥にある綾綺殿(りょうきでん)に向かい、そこで黄櫨染御袍を召され、立纓(りゅうえい)の御冠を被り笏を持たれます。そしてお手水のあと、設えが出来た仮屋に向かわれます。

黄櫨染御袍 イラスト解説」(風俗博物館)

  1. 立纓の御冠(りゅうえいのおんかんむり)
    a.懸(掛)緒紙捻(かけおこびねり)
  2. 御単(おんひとえ)
  3. 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)
  4. 御下襲の裾(おんしたがさねのきょ)
  5. 御笏(おんしゃく)
  6. 御檜扇(おんひおうぎ)
  7. 御帖紙(おんたとう)
  8. 御表袴(おんうえのはかま)
  9. 御大口(おんおおぐち)
  10. 御挿鞋(おんそうかい)
  11. 御石帯の上手(おんせきたいのうわで)
  12. 御石帯(おんせきたい)

「宮中三殿御図」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)

そして5時半になると天皇は御座に着され、西南に向かい、「伊勢の内宮・外宮」、次に天地四方の「天神地祇(てんじんちぎ)」、ついで初代天皇である「神武天皇御陵」と明治・大正・昭和の「先帝三代の御陵」を拝されます。
続いて皇居がある武蔵国一宮の「氷川神社」、京都御所がある山城国一宮の「賀茂上下両社」、応神天皇をお祭りする「石清水八幡宮」、三種の神器の一つである草薙剣をお祭りする「熱田神宮」、記紀神話で天孫降臨に際して功があったとされる武神の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)をお祭りする「鹿島神宮」といった、皇室にゆかりのある神社を拝まれます(遥拝)(所功『天皇の「まつりごと」 象徴としての祭祀と公務』(NHK出版生活人新書、皇室事典編集委員会編著『皇室事典 文化と生活』角川ソフィア文庫)。

四方拝が終わると、宮中三殿に向かわれ、皇祖神である天照大神の分霊とされ、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をお祭りする「賢所」、歴代天皇・皇族の霊魂をお祭りする「皇霊殿」、天神地祇をお祭りする「神殿」への拝礼を皇太子(現在は皇嗣)とともに行われます。その頃、ようやく朝がしらじらと明け始めます。

続いて8時頃から御所で皇后陛下とともに正月の「御祝御膳」を召し上がり、9時から侍従職の新年の挨拶を受けます。そして宮殿に向かわれ、儀礼的に食事をとる所作をされる「晴御膳(はれのおもの)の儀」が9時半から、その後9時45分からはじまる「祝賀の儀」では皇后陛下とともに、皇嗣殿下をはじめとした皇族、内閣総理大臣、閣僚、衆参両院議長、最高裁長官、各国の駐在大使公使夫妻のほか、宮内庁職員及び元職員・元皇族やご親族の方々からの新年のご挨拶を数時間にわたりお受けになります。全てが終了するのは午後4時半。御所に戻られ、6時半ごろに夕食として京味噌仕立て丸餅の雑煮を含む御祝御膳を召し上がりになります。

1月2日には一般国民からの祝意をお受けになる新年の一般参賀があり、おおむね5回皇居の長和殿(ちょうわでん)のベランダにお出ましになられます(令和3年度は新型コロナ感染症の影響で中止)。1月3日は正月のお祭りである宮中三殿での元始祭‥‥と祭祀・儀礼・行事が切れ目なく続きます(所前掲書)。皇室のお正月はかくもお忙しいのです。

四方拝の成立

天皇陛下が1月1日に行われる四方拝の起源ははっきりしませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の時代にはじまったとする説が有力です。嵯峨天皇の時代に編纂(へんさん)されたとされる儀式書『内裏儀式』に記された四方拝のあり方は以下のようになります。

1月1日の鶏鳴の頃(午前2時頃)に、内裏の清涼殿の東庭に屏風を立てめぐらし、属星(生まれた年により決定されるその人を守護する北斗七星のうちの一つ)を拝する座、天地四方を拝する座、ご両親の山陵を拝する座の三座が設けられます。続いて黄櫨染御袍を召された天皇が屏風の中に入られ、まず北方を向いて属星を拝され、呪文を唱えられる。続いて天地四方を拝され、最後に山陵を拝されます。
この時唱えられる呪文は、「賊寇之中過度我身 毒魔之中過度我身 毒氣之中過度我身 毀(危)厄之中過度我身 五急(危)六害之中過度我身 五兵六舌之中過度我身 厭魅之中過度我身 萬(百)病除癒、所欲随心、急急如律令」(『内裏儀式』のものを『江家次第』により補う)という中国風のもので、北斗七星を拝するというかたちとともに、中国的な儀礼として行われていたことがわかります。嵯峨天皇は空海・最澄とともに唐に留学した菅原清公という人物を重く用い、朝廷の儀式のかたちや内裏の建物の名称などを中国風に改めるとともに、漢詩・漢文を重んじた方です。その治世において、このような中国的な儀礼がはじめられたというのは充分にあり得ることでしょう。

 

その後、清公の孫である菅原道真を登用した宇多天皇の時代には毎朝四方拝という儀礼もはじまりました。ただし、これについては宇多天皇ご自身の日記に「我が国は神国である。よって毎朝、四方の大中小の天神地祇を拝礼する。この敬拝のことは、今より始めて、今後一日も怠ることはない」と記されているように(『江家次第抄』所引「宇多天皇御記」)、日本の神祇信仰による祭祀とされていたようです(所功「元旦四方拝の成立」同『平安朝儀式書成立史の研究』国書刊行会)。

四方拝の変化

元旦四方拝はその後も長く行われますが、明治時代にその内容を大きく変えることになります。その際、かつての中国的な要素はなくなり、現在行われているものとほぼ同じかたちとなりました。そして明治の『皇室典範』に伴う「皇室令」第一号「皇室祭祀令」の23条に「歳旦祭の当日にこれに先立ち四方拝を行う」と規定されます。この動きの背後には、皇室を中心に、日本独自の要素を重視して近代国家日本のかたちをつくりあげていこうという当時の人々の思いを読み取ることができます。

戦後の昭和22年(1947)、占領下において明治の『皇室典範』も「皇室祭祀令」を含む「皇室令」も廃されました。しかし、同年に宮内府(現在の宮内庁)から出された「依命通牒(いめいつうちょう)」という通達には、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」とされており、現在の皇室の祭祀・儀礼はこれに基づいて行われていると考えられます。歴史や伝統を時に大きく変え、時に慎重に受け継いで、皇室の諸制度は維持されてきたのです。

「星宿れる空」に

新年の1月1日の早朝、天皇陛下が極寒の中で今年1年の国家の安泰を祈られている、という事実はあまり知られてはいません。どうか新年を迎えられた皆さんがそのことを認識して、陛下とともに日本国のよき1年をつくりあげていく決意をしていただければと思います。
最後に、平成の天皇陛下(現・上皇陛下)と皇后陛下(現・上皇后陛下)が皇太子・皇太子妃時代に正月の歳旦祭について詠まれた歌を紹介しておきます。

昭和49年(1974)歌会始 
神殿へ すのこの上を すすみ行く 年の始の空白み初む
昭和54年(1979)
去年(こぞ)の星 宿れる空に 年明けて 歳旦祭に君いでたまふ

ここでは歌の意味は書きません。皆さんで調べて、新年の祭祀の場に向かわれ、それをお見送りになる皇室の方々のお気持ちに思いを致してください。

令和4年(2022)も新型コロナ・ウィルス感染症の影響により、一般参賀は中止となりました。そのため、昨年と同様、1月1日に天皇皇后両陛下による「新年ビデオメッセージ」が動画・文章で宮内庁ホームページにて公開されています。

 

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