「日本の大都市制度」と『大阪都構想』

再び動き始めた「大阪都構想」

2020年9月7日に、いわゆる「大阪都構想」の賛否を問う二度目の大阪市民による住民投票が「10月12日告示・11月1日投開票」となることが正式に決定されました。一度目は2015年5月17日に実施され、有権者を二分し、賛成49.62%、反対50.38%という僅差で否決されたものです。

本コラムはこういう時期での執筆ですから、時節柄、政治的な主張を伴う内容になるのは避けられませんので、公平を期すため、予め私のこの問題に対する立場を明らかにしておきます。読者各位は、それを前提に本稿を批判的に読まれることをお勧めします。私は、「政令指定都市制度を含む現在の日本の「大都市制度(*)」には、(改革を求めるという意味で)「反対」の立場ですが、その改革案の一つとしての「大阪都構想」にも「反対」です。本コラムでは、そうした立場から、できるだけ一般市民の目線に立って、「大都市制度」や「大阪都構想」の問題点を考えていきます。
*ちなみに、「大都市制度」とは、地方制度のうち大都市にのみ適用される特例を定める制度のことです。全国にある政令指定都市制度や東京都の「都制」などが、その代表例ですが、他にも中核市制度などがあります。多くの国で、様々なバリエーションの大都市制度があります。

政令指定都市制度の問題点

よく言われているように、政令指定都市には、府県と同等の事務権限が与えられています。具体的には、政令指定都市制度の下では、児童福祉、都市計画、道路、教育などの行政分野で、府県が行う事務の大半を行う権限が政令指定都市に与えられています。しかし、府県は、こうした事務を政令指定都市に行わせているにも拘わらず、それに要する経費を委託金ないし交付金として政令市に支払うことはありません。これを市民の立場から見れば、例えば政令指定都市である大阪市の市民は市民税のみならず、これらの分野では大阪府から行政サービスを受けもしないのに府民税を徴収されていることになります。かつて大阪府知事だった橋下徹は、国の直轄事業地方負担金の問題点を評して、「ぼったくりバーの請求書」と表現しましたが、其の伝で言えば、大阪府は大阪市民や立地企業から府民税や事業税を「やらずぼったくり**」していると言えます。

これは大阪市にかぎらず、政令指定都市であれば全国どこでもそうなのですが、奇妙なことではないでしょうか? もちろん警察事務など、政令指定都市が担っていない府県事務もありますが、それにしても何等の減額措置もなく100%の府民税が容赦なく大阪市民からも徴収されることには違和感がぬぐえません。大阪都構想の推進者は、現行の政令指定都市制度を「二重行政」と呼んで批判しましたが、政令指定都市制度の真の問題の所在は、市民にとっては、手厚くて結構この上ない「二重行政」どころか、「やらずぼったくり」という「架空請求による二重負担」という点にあるのです。
**人に与えずに、ただ取り上げるばかりであるという意味(「日本国語大辞典」による)

この奇妙さの正体は一体何なのでしょうか。それは、行政サービスを提供する(事務権限を持つ)自治体に税を支払う(財源を与える)という「受益と負担の対応関係(権限と財源の一体関係)」が成立しているという「健全な財政秩序」が、政令指定都市制度では破綻していることにあります。なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか? それは、「特別市制運動」という戦前にまでさかのぼる、府県からの独立をめざす大都市とそれを阻止しようとする府県との間の長い政治的抗争に由来します。

戦後に誕生した政令指定都市制度は、この抗争の政治的妥協の産物として、大都市は府県並みの権限を得るが、財源は府県がそのまま保持するというものでした。つまりわかりやすく言うと、政令指定都市制度とは大都市が府県から「権限を財源で買う」ことで抗争に手打ちを図った制度と評されています。しかしその取引きは大成功でした。大都市と府県双方がこの取引きに大いに満足した結果、政令指定都市制度は日本の大都市制度として、半世紀以上にわたって非常に安定した制度として、浮沈の激しい日本の地方制度の中でしっかりと定着しました。現在でさえ、政令指定都市を目指す自治体は少なくありません。しかし、この「歪んだ財政秩序」のしわ寄せは、最終的に大都市の住民が負担していることを忘れてはならないでしょう。
それでは、その改革案としての「大阪都構想」について考えてみたいと思います。

「大阪都構想」とその評価

「大阪都構想」とは、平成24年に制定された「大都市地域における特別区の設置に関する法律」に基づいて提唱されている、大阪市域に関する大都市制度の改革提案です。しかし実態は、平成22年に、当時の大阪府知事の橋下徹氏を代表とする「大阪維新の会」が発表した行政構想を実現するために、議員立法によって、「大都市地域における特別区の設置に関する法律」が制定されたという経緯があり、政治主導かつ地方発の大都市制度改革構想といえます。この点がこれまでの国発・行政主導の大都市制度改革案とは異なる、大阪都構想の唯一の長所といえるでしょう。

その内容をわかりやすく図示すると、図1のようになるでしょう。

まず、現在の大阪市を横に上下に分割して上の部分(いわゆる「広域行政」部分)を現在の大阪府に移転します。下の部分(いわゆる「基礎自治体」部分)を地域ごとに縦に4分割し、これを「特別区」と呼ぶことにします(淀川区、中央区、北区、天王寺区、の4区案が提案されています)。

4つの「特別区」は、市町村と同じものですから、基礎自治体部分に関して言えば、大阪市という1つの市を4つの小さな市に分割することと同じですので、市町村合併と反対のことを行うと考えればわかりやすでしょう。

「大阪都構想」の「大義名分」(政治的スローガン)は、「二重行政の弊害」の排除です。しかしここで言われている「二重行政の弊害」には、2つの異なる内容があることには注意が必要です。一つは、「行革的観点からの二重行政の弊害」です。病院や図書館、大学、産業政策(信用保証協会)などの住民(企業を含む)向けの同種同等の行政サービスが大阪府・市双方から二つ行われていて、それが「無駄遣い」であるという主張です。

筆者はなぜこれが「無駄遣い」であるのか、理解に苦しみます。なぜなら、市民にとっては、手厚い行政サービスが受けられることは決して「無駄」ではないと思うからです。まして、大阪市民は、大阪市にも大阪府にも税金(市民税、府民税)を払っているのですから、その両方から行政サービスが受けられるのは当然のことであり、決して「不当な利得」ではありません。これを「無駄遣い」と感じるのは、市民ではなく、役人の発想にすぎません。そして、大阪府の役人がこれを「無駄遣い」だと考えるのなら、単に大阪市民向けのサービスを停止しさえすれば(例えば、府立施設での大阪市民の利用を禁止するなど)直ちに「二重行政」は解消されるのです。それをしないのは、もしそんなことをすると、大阪市民からの「やらずぼったくり」という制度的な矛盾が赤裸々に露呈してしまい、大阪市民による大阪府民税の納税拒否運動さえ起こりかねないからでしょう。

「二重行政の弊害」のもう一つの内容は、「成長政策的観点からの二重行政の弊害」です。大阪が長期的に衰退し結果的に東京一極集中を招いたのは、大阪府と大阪市が、広域行政の分野でお互いに変な意地を張り合って必要な協調行動ができず、ともに中途半端な都市基盤整備しかできなかったことが原因であるという主張です。それを単純に裏返して、大阪府市が一体となって都と同様になれば、大阪も東京と並ぶ大都市になるという主張が大阪都構想です。しかし、政令指定都市制度の下にあっても、広域的で大規模・専門的な都市基盤整備は府県の権限かつ責任ですので(***地方自治法第2条第5項)、大阪が、東京都のように大都市基盤の整備がすすまなかったのは、政令指定都市制度のせいではなく、単に大阪府にその能力やノウハウが欠如していたからでしょう。現に、大阪府には、かつて東大阪の荒本や堺市の中百舌鳥、泉州のりんくうタウンに新都心を整備する構想がありましたが、ことごとく失敗に帰しています。逆に大阪市は、関一市長以来全国に先駆けた地下鉄網の建設や御堂筋の整備、大阪駅前再開発や大阪港の築港など、着実に大都市基盤の整備を図ってきた実績があります。
***地方自治法第2条第5項「都道府県は、市町村を包括する広域の地方公共団体として、第二項の事務で、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理するものとする。(下線部は筆者)」

「大阪都構想」は、この意味での「二重行政の弊害」を、大阪市の広域行政の権限を大阪府に移転して一元化することで解消することを目指しているのですが、これは実績や実態を伴わない妄想と言え、逆効果になる可能性があるでしょう。なぜこのような妄想が生じるのでしょうか? それは、大阪府庁の政治・行政関係者を中心に、「大阪」とは「大阪府」のことであるという勘違いがあるからでしょう。「大阪」とは当然ながら「大阪市」のことであり、決して「大阪府」のことではありません。たまたま府県名と都市名が同じであるから、生じた誤解なのです。生粋の京都市民は「伏見や山科は京都やおへん。」と考えているそうなのですが、大阪府民の中でも泉州や河内の生粋の住民は、「わいらは大阪とちゃうで」と考えていることでしょう。大阪府を「大阪」と勘違いしているのは、一部の役人や政治家に過ぎません。地方自治では歴史に培われた住民の共同体意識は本質的に重要な要素です。大阪市という歴史と伝統のある市民自治組織を、行政の都合に合わせていともたやすく分断・分割する改革構想は、その1点だけですでに失敗作であるといえるでしょう。しかも、それが住民投票による市民自身の選択の結果として、「市民自治」の名のもとに是認される仕掛けなのです。それは歴史的に見ればファシズムにも道を開くことすらもある、民主主義の持つ怖い一面です。住民投票を前にして、今一度、十分な熟議と市民への説明が欠かせません。

 
この2つの庁舎はなぜか全面の凸凹がしっかりと噛み合うように巧みにデザインされています。庁舎だけでなく行政もそうありたいものです。
 

喜多見 富太郎 教授

地方自治論、地域行政学


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