フィリピンにおけるマルコス=ドゥテルテ対立とミンダナオ独立問題 2025.01.08
フィリピン大統領・副大統領の衝突
先日の11月下旬、フィリピン政治に関する不穏なニュースが一斉に報じられた。それは、フィリピン前大統領ドゥテルテ氏の長女で現副大統領を務めるサラ・ドゥテルテ氏が、オンライン記者会見で発した衝撃の発言内容についてのものだった。サラ氏はその記者会見の場で「自分が殺されるようなことがあれば、大統領夫妻とロムアルデス下院議長を殺すよう伝えた」「冗談ではない。彼らを殺すまでやめるなと伝えた」と発言し*1、現フィリピン大統領であるフェルディナンド・マルコス・ジュニア(通称ボンボン・マルコス)氏の殺害を依頼したことを公言したのである。このニュースは日本においても報じられ、このニュースによってフィリピンの現大統領と現副大統領の間で生じている深刻な確執が広く知れ渡ることになった。
マルコス=ドゥテルテの協調と対立
以前のニュース解説「フィリピンの政局から見える国際関係(2024.03.11)」でも紹介したが、現大統領マルコス・ジュニア氏と元副大統領サラ氏との確執は、ドゥテルテ前大統領の任期満了にともない実施された2022年比大統領選挙までさかのぼる。元プロボクサーのマニー・パッキャオ氏が立候補したことでよく知られた同選挙であったが、実際には開発独裁者として知られ1986年のエドゥサ革命で国を追われたフェルディナンド・マルコス・シニア元大統領の第2子であるマルコス・ジュニア氏、そして当時の大統領の長女でありダバオ市長を務めたことでミンダナオ(南部)地域での支持基盤を有していたサラ氏の両名が立候補するかもしれないということで当時大きな注目を集めていた。しかし、大統領選を半年後に控えた2021年10月、サラ氏は大統領としての立候補を取りやめ副大統領選挙への出馬を表明し、大統領候補としてマルコス・ジュニア氏を支持するとともに同氏と共闘することを選択した。この選択の裏には、第一にマルコス・ジュニア氏が当時のドゥテルテ大統領の対中融和的な外交方針を「正しい方向」と評価しそれを継承する意欲を見せていたこと、そのうえで、第二にドゥテルテ親子にとってはマルコス・ジュニア氏が強い影響力を有するルソン島(北部)を、そしてマルコス・ジュニア氏にとってはサラ氏マルコス・ジュニア氏の影響力をお互いに取り込むことができるという思惑があったのではないかとされている*2。かくして両者の思惑により着実に北部・南部の支持を取り込んだことで、マルコス・ジュニア氏は大統領として、そしてサラ氏は副大統領としてそれぞれ2位候補に圧倒的な差をつけて当選し、前ドゥテルテ政権を継承するマルコス新政権が誕生した*3。
両家の蜜月的協調によって前途洋々かと思われたフィリピン政治であったが、2024年1月23日にマルコス・ジュニア大統領が現地ニュースのインタビューの中で政治家の任期見直しについて言及したことでその風向きは一変する。そもそもフィリピン大統領の任期(1期6年再選不可)はマルコス・シニア元大統領による長期独裁政権の反省から定められたものであったため、息子である現大統領がその変更に言及したことに対してドゥテルテ前大統領は強く批判し、サラ副大統領もその動きに同調しマルコス=ドゥテルテ協調はいとも簡単に崩壊していった*4。さらにドゥテルテ前大統領は、このマルコス・ジュニア大統領による任期見直し発言直後に、彼らが強い支持基盤を有するミンダナオの「独立」に向けた署名活動を開始するという方針を発表し*4、フィリピンにとって非常にセンシティブな問題を引き合いに出してまでマルコス・ジュニア大統領への反発を強めるようになった。
ミンダナオ独立運動の歴史
ドゥテルテ前大統領が持ち出したミンダナオ独立問題は、とりわけ現大統領のマルコス・ジュニア氏にとって決して無視できない問題である。1968年3月18日、マニラ湾への入り口にあるコレヒドール島で悲劇的な出来事が起こった。ジャビダ虐殺(コレヒドール事件)として知られるこの出来事は、当時マレーシアが編入したばかりのボルネオ北部サバへ潜入して破壊活動を行う軍事作戦のため、訓練を受けていたスールー出身の新兵数十名が軍によって虐殺された事件である。そしてこの悲劇の引き金となった軍事作戦「ムルデカ作戦(Operation Merdka)」を強力に推進していたのが、マルコス・ジュニア大統領の父であるマルコス・シニア元大統領であった*5。
当時フィリピンは1963年にマレーシアへと編入されたボルネオ島サバに対して領有権を主張していたが、1967年の東南アジア諸国連合(Association of Southeast Asian Nations, ASEAN)設立をめぐる一連の動きの中でその問題が棚上げされた。しかし、サバ地域の奪還に強い関心を示していた前大統領マカパガル氏の意思を受け継いだ当時のマルコス・シニア大統領は、それを潜入による破壊活動によって成し遂げようと企て、ムスリムが多数を占めるサバ地域へ潜入するために同じムスリムのスールー新兵を動員した*5。このムスリム新兵達が軍事訓練に対する反発を示したため、その粛清として虐殺されたのがこの事件の経緯である*6。
このジャビダ虐殺のスキャンダルがメディアによって報じられると、キリスト教が支配するマニラ政府によるムスリム虐殺であるとしてフィリピン国内のムスリムは強い反発を示した。この動きはコタバト知事による「ミンダナオ独立運動(Mindanao Independence Movement, MIM)」を引き起こし、それによって分離独立への願いを強めたムスリム達は「モロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front, MNLF)」を結成した。MNLFはその後諸派への分派を繰り返し、その一部が「モロ・イスーラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front, MILF)」やテロ組織「アブ・サヤフ(Abu Sayyaf Group, ASG)」を結成して南部フィリピン紛争を引き起こし、その紛争は今日に至るまで数十万人の犠牲者と難民を生み出した*7。
現大統領への批判として使われたミンダナオ独立問題
このように、当時の大統領マルコス・シニア氏主導のもとで強力に推し進められたムルデカ作戦はジャビダ虐殺という悲劇を生み出し、それがキリスト教によるムスリム弾圧の象徴として捉えられたことで、今日においても未だ解決を見ないミンダナオ独立問題を引き起こすきっかけとなった。このジャビダ虐殺はマルコス独裁政治の黒歴史であり、それは2022年大統領選において対立候補だったマニー・パッキャオ氏が2022年4月に行った大規模集会で「ジャビダ虐殺を決して忘れない」と発言してマルコス・ジュニア氏を牽制したことからも明らかだった*8。したがって、先述したドゥテルテ前大統領によるミンダナオ「独立」署名活動開始という揺さぶりは、マルコス・ジュニア氏が大統領選でも触れさせずに通してきた父の暗い過去に周囲の注目を集めようとするネガディブキャンペーンの一環として捉えることができる。マルコス=ドゥテルテ対立がフィリピンの政局に今後どのように影響をおよぼしていくのか、引き続き注目してほしい。
- 藤田祐樹(2024)、「大統領暗殺目的「殺し屋雇った」フィリピン大統領暴言 物議(2024年11月26日、日本経済新聞、朝刊)」、日本経済新聞社。
- 志賀優一(2021)、「ドゥテルテ路線継続争点 比大統領 サラ氏、副大統領選に(2021年11月16日、日本経済新聞、朝刊)」、日本経済新聞社。
- 日本経済新聞(2022)、「マルコス氏、当選確実 フィリピン大統領選 親中路線踏襲へ(2022年5月10日 朝刊)」、日本経済新聞社。
- 志賀優一(2024)、「フィリピン前大統領、マルコス氏対立 南部独立案で揺さぶり(2024年2月22日 朝刊)」、日本経済新聞社。
- Rommel A. Curaming (2017), From Bitter Memories to Heritage-Making? The Jabidah Massacre and the Mindanao Garden of Peace, Journal of Social Issues in Southeast Asia Vol.32, No.1, pp.78-106, ISEAS (Institute of Southeast Asian Studies) - Yusof Ishak Institute.
- 反発の理由については、劣悪な訓練環境と当初約束されていた月額50ペソの手当が受け取れなかったことや、当時のフィリピンメディアが報じたとされる「ムスリム同士による殺し合い」への不満など、諸説存在する。
- 川島緑(2014)、「南部フィリピン紛争 宗教的民族概念の形成と再定義をめぐって」、『アジア太平洋研(Review of Asian and Pacific Studies) 第39巻』、PP.41-56、成蹊大学アジア太平洋センター。
- JAMIL SANTOS (2022), Pacquiao reminds Mindanaons: Never forget Jabidah Massacre, GMA NEWS ONLINE, (Accessed: December 10,2024).
