アメリカが仕向けた「もう一つの9.11」2023.09.28

「9.11」と聞けば、2001年に起こったアメリカ同時多発テロを思い浮かべる人が多いだろう。本ニュース解説では、「もう一つの9.11」と呼ばれる、50年前の9月11日に南米チリで起こった軍事クーデターを取り上げる。この事件の持つ意味と背景、そして現在への影響を考えてみたい。

サルバドル・アジェンデによる社会主義政権誕生

1970年、南米のチリにおいて、世界で初めて自由選挙による社会主義政権が誕生した。それまでロシアやキューバなど、暴力を伴う革命や戦争を経て社会(共産)主義政権が樹立されることはあったが、民主的な方法で社会主義政権が生まれたことはなかった。選挙で勝利したサルバドル・アジェンデ率いる「人民連合」は、農地改革や鉱山の国有化、労働・社会福祉政策を掲げ、国民からの強い支持を受けた。この背景には、一部の有力者に富や土地、権力が集中する社会・経済構造に対する人々の不満があった。チリでは、スペイン植民地時代に遡る大土地所有や階級システムが残っており、当時大半の国民が貧困状態にあった。独立以降も、アメリカを中心とする外国企業が大きな権益を持ち続け、鉱業や農業といった主要産業が外国資本に牛耳られていた※1
アジェンデは土地改革や企業の国有化を進めるなど、所得の再分配に力を入れ、低所得者層に手厚い施策を行った。しかし、政権の性急な構造改革は、チリの財閥や大地主の怒りを買っただけでなく、大きな経済的混乱を招いた。ただし、この背後にはアメリカ政府の妨害工作があったことに留意すべきであろう。アメリカ主導の金融・経済封鎖により、物資不足やインフレが急激に悪化し、1972年にはデモやストライキが各地で起こり、深刻な政情不安に陥った ※2

9.11軍事クーデターとアメリカの役割

1973年9月11日早朝、アウグスト・ピノチェト率いる軍が、大統領府であるモネダ宮殿に対し総攻撃を開始した。後にこのクーデターはCIAの支援を受けていたことが明らかになっている。退避を拒否したアジェンデは、モネダ宮殿から国民に対しラジオ演説を行い、自ら命を絶ったとされる。アジェンデ政権の崩壊は、46年間続いたチリの民主体制の終焉を意味し、民政移管するまでの17年間、チリはピノチェトによる独裁体制に入った。この間、アジェンデ政権の関係者や、左派、共産主義者を中心に、少なくとも3,065人が処刑され、4万人が不当に拘束・拷問され、20万を超える人々が亡命を余儀なくされた※3
この軍事クーデターが9月11日、しかも同じ火曜日に発生したこと、さらにアメリカ同時多発テロの犠牲者がピノチェト政権による犠牲者とほぼ同数の3,000人弱であることも、「もう一つの9.11」と呼ばれる所以ではあるが、ここまで読んで2つの事件に大きな違いがあることに読者は気付かれただろう。アメリカ同時多発テロが、アメリカの自由と繁栄への攻撃であったのに対し、1973年の軍事クーデターは、アメリカ支援によってチリの自由と民主主義が倒されたのである。1959年のキューバ革命によって反米・社会主義思想の拡大に危機感を覚えたアメリカは、親米傀儡勢力を支援し、アメリカの「裏庭」の中南米諸国に直接的・間接的に介入を繰り返した。2003年パウエル(当時)国務長官がチリのクーデターへの関わりを問われ「アメリカの誇らしい歴史ではない」と発言したように、アメリカは誤りを認めつつある。しかし、機密情報はすべて開示されたわけではなく、冷戦期、自由と民主主義を標榜するアメリカが中南米諸国で軍事政権をいかに支援し、人権弾圧にどのように加担していたのかは未だ十分に解明されていない。

新自由主義経済の「実験場」

1973年の軍事クーデターによって始まったのは親米右派の軍事独裁政権だけではなかった。ピノチェト政権下では、「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる、シカゴ学派の経済学者が顧問として招き入れられ、新自由主義政策が導入された。アジェンデ政権下で国営化された企業を外国企業に売却するなど、貿易自由化と規制緩和が推し進められ、チリは社会主義から新自由主義という極端に大きく振れる経済政策を経験することとなった。当時、新自由主義に基づく経済政策が本格的に導入された国はなく、チリは「実験場」と位置付けられた。1990年の民政移管後も新自由主義政策は継続され、「チリの奇跡」と称される一定の経済成長を遂げたが、実態は一握りの富裕層と多国籍企業が恩恵を受けただけで、国民の大半は貧困にあえぐという大きな経済格差を生んだ ※4 。28年後の9.11が行き過ぎた新自由主義経済への反動とみなされることを考えると※5 、歴史の偶然が必然にも思える。

過去の人権侵害にどのように向き合うのか

1973年のクーデターで実権を握ったピノチェトは、1978年の国民投票で信任を受け大統領に就任した。反体制派に対する厳しい弾圧はアジェンデを支持した多くの国民を恐怖に陥れたが、財閥や大地主たち政治的保守派からは高い支持を得た。1990年に大統領職を退いた後も陸軍最高司令官として大きな影響力を持ち続け、1998年には免責特権を持つ終身上院議員に就任した。これは実質的にチリ国内では人権侵害の罪を問えないことを意味していた。しかし転機は、1998年に訪れた。スペインから逮捕状が出されたことを受け、ロンドン滞在中にピノチェトはついに身柄拘束された ※6 。スペインへの送還は高齢を理由に見送られたが、チリに帰国後の2000年にピノチェトの免責特権がはく奪され、訴追されることとなった。大統領退任後10年が経ってようやく、チリ国内でピノチェト政権下の人権侵害問題を解決しようとする機運が高まったのである。
ピノチェトをはじめ、軍政下の重大な人権侵害の責任者の処罰は、実は1990年に大統領に就任したパトリシオ・エイルウィンの選挙公約であった。しかし、軍部の影響力が強く、クーデターを恐れた新政権は訴追を断念し、真相解明のための真実和解委員会を設置することを選択した。委員会は中立性を期すためにピノチェト支持派から4名と反対派の4名から構成されたが、1991年にエイルウィンに提出された報告書は、軍や警察の責任を指摘するものとなり、軍部は当然ながら激しく反発した。軍と大統領との関係が悪化する中、被害の認知はもとより、行方不明者の所在解明は棚上げされてしまった ※7

新たな左派政権の誕生

民政移管後も継続された新自由主義経済政策によって、チリは「南米の優等生」と呼ばれる高い政治的安定と経済成長を誇ってきた。しかし、経済成長の恩恵を感じることのできない市民は、経済低迷によって悪化した生活苦に抗議の声を上げ始めた。2019年の地下鉄料金の引き上げをきっかけに大規模な暴動が起こり、非常事態宣言が発令され、2万8千人以上の拘束者が出るなどした ※8
こうした混乱の中、2021年の大統領選挙で格差是正を掲げる元学生運動家のガブリエル・ボリッチが当選した。アジェンデを敬うボリッチは、クーデターから50年になるのを前に、ピノチェト政権下で失踪した1469人の捜索を政府が行う計画を発表した。9月11日の式典では、「心と魂の傷は何世代も受け継がれる。だからこそ今日、我々は真実や正義で過去の出来事に向き合う責任がある」と述べている※9

チリ社会の分断の行方は

しかしながら、軍政期の評価をめぐって、チリ社会は現在も分断している。直近の世論調査によれば、「クーデターは正しかった」と答えた人が36%、「経済を促進させてチリを近代化させた」とする人が39%に上るという※10 。ピノチェト人権侵害裁判は結審することなく、2006年のピノチェトの死亡により終結を迎えた。ピノチェト裁判以降、軍政の残虐行為をめぐって、その責任を問う裁判も行われるようになったが、他方で治安の安定をもたらした軍部を支持する声は今も根強い※11 。1998年のロンドンでのピノチェト逮捕をめぐって、ピノチェト支持派と反対派がスペインとイギリス大使館前でそれぞれにデモを行うなど、チリ社会には大きな溝があることが露呈したが※12 、その溝は埋まることなくむしろ大きく深くなったと言えるかもしれない。
チリ社会の分断は、植民地支配に遡る社会・経済構造の是正を訴える人々の声が、アメリカ支援のもと軍部によって力ずくでかき消されたことに端を発する。2018年以降、チリを含む中南米諸国で「ピンクの潮流の再来」と呼ばれる左派政権が相次いで誕生し、アメリカの懸念材料になっていると言われる※13 。歴史は繰り返されるのだろうか。ボリッチ大統領は、格差是正や環境対策を掲げ、リチウム産業を国有化するなど、新自由主義とは相いれない政策を打ち出している。ピノチェト支持派と反対派の関係修復は容易ではないが、過去と向き合うと同時に、分断を克服する未来志向の施策の実行が求められている。


  1. こうした経済構造は中南米諸国に共通した問題であった。1960年代から70年代にかけて「従属論」という資源供給国の低成長の要因を説明する理論が中南米諸国で提唱された。
  2. 1973年6月のクーデター未遂を含む30におよぶアメリカのチリに対する工作情報は機密解除され、「ピノチェト・ファイル」として公開されている。Peter Kornbluh, The Pinochet File: A Declassified Dossier on Atrocity and Accountability, The New Press, 2013.
  3. クーデター後の1年間は、国内において「死のキャラバン」作戦が実行され、国外では「コンドル作戦」という左派活動家の暗殺活動が行われた。
  4. タケウチサキ「チリ:格差の改善へ?」Global News View、2020年12月3日。
  5. 的場昭弘「新自由主義の勃興と転換を促した9月の2つの事件—チリとアメリカ、同じ『9.11』に起きた史実の糸」東洋経済ONLINE、2013年9月14日。
  6. 普遍主義に基づく管轄権を利用して、第三国で重大な人権侵害を訴追・処罰する手法は、国外裁判の一つとしてこの事件を契機に定着することになり、「ピノチェト効果」と呼ばれた。
  7. 杉山知子『移行期の正義とラテンアメリカの教訓—真実と正義の政治学』北樹出版、2011年。
  8. 日本経済新聞「チリ、終わらぬ混乱—抗議活動が先鋭化、現場ルポ」2020年1月17日。
  9. 日本経済新聞「チリ大統領『過去に対峙する責任』—軍事クーデター50年」2023年9月12日。
  10. 軽部理人「チリ、軍政の爪痕なお-被害の「失踪」1162人、政府捜索へ」朝日新聞、2023年9月18日。
  11. Eva Vergara and Daniel Politi, “A half-century after Gen. Augusto Pinochet’s coup, some in Chile remember the dictatorship fondly,” The Associate Press, Sep.5, 2023.
  12. Marjorie Miller and Sebastian Rotella, “Britian Arrests Ex-Dictator Pinochet,” Los Angel Times, Oct.18, 1998.
  13. 「ピンクの潮流」とは、暴力的な革命による共産主義を象徴する「赤」ではなく、選挙を通じた社会主義的政策の実現を目指す「ピンク」の政権が、21世紀初めに中南米諸国で相次いで誕生したことを指す。飯野克彦「中南米で『ピンクの潮流』再び—米国外交の懸念材料に」日本経済新聞、2022年7月17日。

クロス 京子 教授

平和構築、紛争解決学、人間の安全保障、移行期正義

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