シンガポールに迫る変革の時〜リー・クァンユー体制と世代交代 2021.07.07

シンガポールは、マレー半島の先端に位置するシンガポール島を中心とする島嶼国家で、国土面積719㎢(徳島県三好市と近い)の中に570万人(2019年)の人口を有する。マラッカ海峡の要所に位置していることもあり、古くから中継貿易の拠点として栄えてきた歴史を持つ。マーライオンやマリーナベイサンズなどいわゆる「インスタ映え」な観光スポットで有名だが、近年では米国前トランプ政権下での米朝会談(2018年)や某元芸人Youtuberの移住など、日本メディアで取り上げられる機会も増えてきているので、ご存知の方も多いだろう。ちなみに、私が担当している東南アジア論で毎年とっている「興味あるASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国」アンケートでは、常に1位を取るほど、若い人の関心が非常に高い国である。

このシンガポールは19世紀初めにイギリスの「海峡植民地」となり、太平洋戦争時の日本占領と終戦後のイギリスによる再支配を経て、1959年に自治権を獲得した。その後、イギリスから独立したマレーシア連邦に組み込まれたが、民族対立を背景にシンガポール共和国として1965年に独立を果たした。独立当初は狭小な国土と乏しい資源によって自律的な経済発展に難儀したシンガポールだったが、今日では国民一人当たり「国民総所得(Gross National Income;GNI)」が約約60,000US㌦(2019年)に迫るなど、ASEAN加盟国の中で最も経済的に成功を遂げた国である。

その成功の背景には、シンガポールの先見的な経済開発が存在する。1960年代半ばには輸入代替工業化から輸出志向工業化へ、そして1970年代には労働集約産業から資本集約産業への構造転換をはかったシンガポールは、他の周辺ASEAN諸国が輸出志向工業化を本格化させた1980年代半ばにはすでに金融・運輸・通信産業を中心としたサービス部門への産業構造シフトを決定していた。当時、1985年プラザ合意を機に日本やアジア新興工業経済地域(Newly Industrialized Economies;NIEs)からの海外直接投資(Foreign Direct Investment;FDI)流入に沸き立っていた他のASEAN諸国を尻目に、シンガポールは今日の経済基盤となるヒト・モノ・カネのハブ(中継拠点)化へすでに舵を切っていたのである。

こうした先見的なシンガポールの経済開発とその結果とも言える経済的繁栄を語るうえで、決して忘れてはならないのが指導者リー・クァンユー(Lee Kuan Yew、李光耀)の存在である。彼は、自治権を獲得した1959年に人民行動党(People’s Action Party;PAP)を結党し、シンガポール州選挙での勝利を引き金にシンガポールを独立へと導いた。その後、彼はその強烈なリーダーシップを生かし、生産要素に乏しい国家でありながら、それを克服し得る「先進的経済開発プロセス」とそれを可能にする「官僚主導国家」を築き上げた。彼は、1990年に腹心であったゴー・チョク・トン(Goh Chok Tong、呉作棟)に首相の座を譲った際もその政権において上級相を務め、ゴーに代わり彼の息子であるリー・シェンロン(Lee Hsien Loong、李顕竜)が首相となった政権下においても顧問相を務めた。リー・クァンユーは2015年3月に亡くなったが、少なくとも彼が2011年に完全引退を表明するまでの約50年間にわたって、彼自身と彼の意思を継ぐ後継リーダー、そしてそれを支えてきた官僚主導システムによってシンガポールは成功を収めてきた。いわゆるこの「リー・クァンユー体制」こそが、確かにPAPの一党独裁や人権などの問題で国際社会の批判を浴びる要因でありつつも、それ以上に、ASEAN加盟国の中でも突出した経済繁栄を手にできた源泉だと言えるのである。

このように国父リー・クァンユーによって築き上げられたシンガポールも、今日では彼の意思を継ぐ息子リー・シェンロン首相以降の世代交代が問題となっている。現在69歳のリー・シェンロン首相は、テレビ中継されていた2016年8月の独立記念日集会での演説中に倒れ、また2002年に発症していたリンパ腫の問題も相まって、健康問題が度々取り沙汰されている。シンガポール政治では、これまで与党PAPが慣例的に次世代の首相候補育成を目的として積極的に閣僚として登用してきた。しかしそんな中で、リー・シェンロン首相自身だけにとどまらず、当時財務相だったヘン・スイーキアなどの次世代首相候補にも健康問題が影を落とし、これまでの世代交代慣習の限界を露呈させた。2021年4月の報道では、次の首相候補として有力視されていた副首相兼財務相ヘン・スイキャット氏が、より若い世代への世代交代を推奨するとして首相候補辞退を表明し、リー・シェンロン首相もその意思に理解を示したとされ、また同時期に、それまでと異なる非エリート出身者3名が新たな首相候補として選出されている。このようにシンガポールにおける世代交代においては、前代未聞の状況によってこれまでの慣習を大きく変更せざるを得ない状況が生まれている。この状況とそれに対応するという新たな「変化」が、果たしてリー・クァンユーによって作り上げられたこれまでのシンガポールとその体制にいかなる影響をもたらしていくのか。是非、今後も注目してほしい。

吉川 敬介 准教授

開発経済論、ASEAN経済、地域研究(カンボジア)

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