「ノヴォロシア」の幻影—ウクライナ情勢 2022.04.12

ロシア国防省は3月29日、キーウ、チェルニヒウ方面における軍事活動を大幅に縮小する旨を正式発表し、その後の進展をみるかぎりでは首都攻略を断念したようだが、他方で、キーウ近郊の町ブチャでの虐殺が明るみに出るなど、ロシア軍の残忍性はむしろ増しているように思われる。

また、主戦場をウクライナ東部に定めたらしく、軍部隊をその周辺に集中させている様子が報じられている。ウクライナ政府の高官は4月10日、今後2週間にわたりウクライナ東部で重大な戦闘が行われるだろうとの見方を示している。ロシアのプーチン政権はいま、ウクライナで何を目指しているのだろうか?

ロシア側も大きな痛手を被っていること、そして戦闘の早期終結を求めていることは、ロシアのペスコフ大統領報道官が4月7日、英国のテレビ局で述べている。一説には、5月9日までに何らかの幕引きをはかろうとしているとも言われている。その日は対ドイツ戦勝記念日であるため、ウクライナでの「特別軍事作戦」の「成功」と併せ、盛大な祝賀会を開催するつもりなのではないかとの予測があるのだ。 しかし、現状のままではロシア側の敗北は誰の目にも明らかである。ロシア政府としては、ウクライナ東部だけでも征服することが必須だと考えているのだろう。プーチン大統領は最近、シリアでも陣頭指揮をとっていたとされる強硬な人物を、新しい軍総司令官に任命した模様である。近々激しい戦いが行われる公算は高まっている。

ロシアは侵攻開始3日前の2月21日、ウクライナ東部の分離独立派が実効支配する自称「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を国家承認した。かりにウクライナ政府がこの2つの「共和国」の独立を認めれば、ロシア側は矛を収めるのだろうか。 どうやら問題はより複雑な様相を呈しているようだ。プーチン大統領の野心はもっと大きいからである。先の2つの「共和国」はそれぞれウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の一部を占めているに過ぎないが、少なくともプーチン氏は、両州(通称ドンバス地域)をそっくり支配下に置くことを目指しており、できればこれに南部も加えたいと考えている。これは2014年のクリミア併合時からの悲願なのである。

この東部と南部を合せた地域は歴史的に「ノヴォロシア」と呼ばれる。「ノヴォ」とはロシア語で「新しい」という意味だ。プーチン氏はこの「ノヴォロシア(新ロシア)」の割譲をウクライナに迫るのではないか。そこまで行かないとロシア側は戦いの手を緩めないようにも思われる。

なぜプーチン氏は「ノヴォロシア」にこだわるのか?2014年5月29日、プーチン大統領は国民の質問に電話で直接答えるテレビ番組のなかで、大略こう述べているのである。

「肝心なことはウクライナ南東部のロシア人及びロシア語使用住民の法的権利と利益を保証することです。この地方を帝政時代の用語で呼ぶならノヴォロシアです。すなわち、ハリコフ、ルガンスク、ドネツク、ヘルソン、ニコラエフ、オデッサで、これらは帝政期にウクライナに属してはいませんでした。これらはすべて1920年代にソ連政府によってウクライナに組み込まれてしまったのです。われわれは彼らの権利を守らなくてはなりません。」
上の発言からもわかるように、プーチン氏にとって「ノヴォロシア」はロシア領の一部なのである。

ところで、ロシアの通信社「リア・ノーボスチ」が伝えるところによれば、今年3月25日、クリミア議会のウラジーミル・コンスタンチノフ議長は、ウクライナ南東部は「ノヴォロシア」という新しい行政区に再編されることになるだろうとの見通しを述べている。つまり、2014年にロシアに併合されたクリミアと、ウクライナ東部のドンバス地域を一つに統合し、「ノヴォロシア」にするというのである。クリミア議会の一議長の判断で、このような構想が出て来るとは思えない。これはプーチン政権の意を体しての発言とみてよいであろう。

だが、そのような野望がこの戦争によって実現し得るのだろうか。もし実現すれば、ウクライナは首都キーウを維持できたにせよ、国土の3分の1を失うことになるだろう。が、この1ヶ月半の戦闘をみるかぎり、とても現実化するとは思えない。ウクライナ東部と南部の要に位置するマリウポリを廃墟にしても、なおこの都市を陥落させることさえ困難を極めているのである。

プーチン氏及び政権中枢部の人々は当初、「親露派」住民の歓迎を期待していたのだろうが、そもそも「親露」など幻想であって、いくらロシア語を常用していても、彼らはれっきとしたウクライナ国民だということを悟らなくてはならない。プーチン政権が今後も存続し得るとすれば、それが彼らにとっての教訓となるはずである。

河原地 英武 教授

ロシア政治、安全保障問題、国際関係論

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