カタールワールドカップの多義性 2022.12.28

競合する世界杯の物語

複雑な世界を理解可能にするためにホモサピエンスは色々な出来事を一つの物語に縫い合わせることを好む。例えば2022年のカタールワールドカップという複雑なメガスポーツイベントを巡って多くのストーリーが生産されています。欧米では人権侵害や汚職疑惑がつきまとう問題だらけの世界杯、とする物語が広がりました。他方で、その物語を批判する別のストーリーもあります。政治経済的分析を歴史学的な視点から行うウィアリングは、英米両国がそのエネルギー戦略の一環として中近東地域の民主化や自由化よりもその政治的安定を重視してきたことが現状を説明する重要な要因である、と説明する。 (David Wearing, 2018, AngloArabia: Why Gulf wealth matters to Britain, Polity Press)。つまり、当該地域の住人が十分に自由や人権を享受できていないなら、それは少なからず英米両国の責任でもある、と主張しているわけです。
同一イベントに関して多くの物語があるのはなぜか?それは、(a) 立ち位置が色々あって各立ち位置から重要に見えるデータが異なることや、(b)、絶対的な情報量が多すぎて一つの物語にそれを全て収められないこと、よって(c) 全情報の中から一部を選択することが必要となることなどと関係します。

物語市場の力学

物語はある種の商品です。はやるには、物語市場において他の物語よりも選ばれなければならないのです。では、選ばれる物語とはどのような物語なのか。このような問いにはもちろんここでは十分に回答できるわけではありませんが、一つの比較的単純が説明を試みることができます。イギリスの政治哲学者デイビーズは、現代人がますます感情をナビゲーションツールに使うようになってきていることを指摘する。つまり、情報の洪水を前に、我々はエビデンスをじっくり検討し、色々と熟慮して判断するのではなく、素早くその情報が我々をどのような気持ちにさせるかで、その良し悪しを判断する傾向が強まっている、と彼は論じる(W. Davies, 2019, Nervous states. Democracy and the decline of reason, W.W. Norton)。
やや強引な要約となりますが、人々は一般的に複雑でわかりにくい話を好まないし、自分の信念や利害と矛盾するような話も好まない。気持ちよく消費できるストーリーが好きなのだ。だから、英米人はカタールの厳格なイスラム教や人権問題を非難するストーリーを気持ちよく消費できる一方で、自分たちの国の行いが複雑な問題の一つの原因として登場するストーリーにはあまり魅力を感じない、よってその消費には前向きではない。

ミラーイメージ

私は中近東の専門では全くないが、カタールや中近東などではやっている物語に関しても同じようなことが言えるのではないかと思う。つまり、弱小国カタールが西洋圏発の非難の嵐に負けず大規模なイベントを成功させた事実をアラブ語系のメディアは誇らしく報道している。こうしたストーリーはカタールのみならず、大国の支配や介入を現に受けている、あるいは歴史的に受けてきた旧植民地などでは特に爽快に消費されていることでしょう。(「Grid News」How Qatar won over the Arab and Muslim worlds at the World Cup)そして逆に、当該地域の人権問題の深刻さや環境問題への加担の問題を指摘する物語は、それらが公に主張されることがあるとしても、気持ちよく受容できるものではないので、はやることは難しいでしょう。

人類の共通の課題

学部で800~1000字と長さを規定しているこのような短いエッセーの場合、終わりがいつも難しいのですが、今日は次のようなことが言えるのではないかなと思っています。すなわち、アラブ圏でも欧米圏でも現代人は同じような、物語に対する感情的バイアスを抱えており、複雑な全体を見つめる上でそのバイアスは障害として作用している。ベターな世界を志向するなら、このような感情的バイアスを乗り越えるための努力をともにした方が良さそうではないか、ということです!

マコーマック ノア 教授

歴史社会学、比較文化論

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