今年のノーベル平和賞 2021.10.29

2021年10月8日、ノルウェーのノーベル賞委員会が平和賞の受賞者を発表した。今年は、フィリピンとロシアのジャーナリストに授与されることが決まった。

1人はマリア・レッサ氏。彼女はフィリピンのオンラインメディア「ラップラー」のCEOとして調査報道を指揮し、ドゥテルテ政権の人命を軽視した麻薬対策など、その強権政治を一貫して厳しく批判してきた。
もう1人はロシアの独立系新聞『ノーバヤ・ガゼータ』(「新しい新聞」の意)編集長ドミトリー・ムラトフ氏。リベラルな論調を堅持し、プーチン政権の人権侵害や腐敗、選挙不正などを一貫して追及している。
度重なる弾圧に屈せず、反権力報道を続けるジャーナリストの勇気が評価されたことの意義は非常に大きいと考える。特に2つの観点から、その意義を述べてみたい。

第1点は、ノーベル平和賞が「報道」にスポットを当てたことである。ジャーナリズム活動へのノーベル平和賞の授与は、第二次世界大戦後初めてのことである。すなわち1935年、ナチスドイツのヒトラー政権から弾圧を受けたドイツ人ジャーナリストのカール・フォン・オシエツキー氏以来となる(『京都新聞』2021年10月9日)。
これが意味することは何か。いまやナチス時代以来の言論弾圧の危機が迫っていると、ノルウェーのノーベル賞委員会が判断したということだろう。筆者はこの認識に賛同する。これはフィリピンやロシアだけの問題ではない。毎日のようにネットニュースや新聞記事で見かける中国や北朝鮮、アフガニスタンにおける報道統制はもとより、途上国と先進国とを問わず、言論・表現の自由度が次第に狭められている現実への警鐘として、今回のノーベル平和賞を受け止めたい。

2点目は、この賞が団体ではなく、ジャーナリスト個人に授けられたことである。言論・表現の自由を監視し、民主主義を擁護する団体はいくつもある。たとえばフランスのパリに本部を置く「国境なき記者団」も十分に授賞の対象になり得ただろう(現に有力候補にも挙げられていた)。
しかしノーベル賞委員会はあえて顔の見える個人を選んだのである。「報道の自由」「表現の自由」は生身の人間が、それこそ命がけで闘いながら守り抜いていることに注意を喚起したかったのだと推測する。
この点については、もう少し詳しく説明してみたい。報道によればレッサ氏自身、現政権下で少なくとも2度逮捕され、政権攻撃への報復と思われる容疑で「名誉毀損」による有罪判決、「脱税」でも追訴を受けている。ムラトフ氏が率いる『ノーバヤ・ガゼータ』紙も、15年前に暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤ女史など、政権批判報道の第一線に立っていた6名の記者や関係者が殺害もしくは不審死をとげている。「国境なき記者団」の調べによれば、過去10年間に世界で殺害されたジャーナリストの数は937名にのぼるそうである(『朝日新聞』2021年10月9日)。

強権政治と戦うジャーナリストたちはまさに「戦士」のように命を危険にさらしつつ、取材と執筆と報道に従事しているのだ。今回の受賞者である2人はいわば、その代表だといえよう。ノーベル賞委員会も、この授賞は「逆境に直面する民主主義と報道の自由のために働くすべての記者たちに向けたものだ」と強調していることに留意したい。つまり今回の授賞は、世界中のこうした記者やジャーナリストたち一人一人を鼓舞し、勇気づけることが目的だったといえるのではないか。
さらにベーリット・レイスアンデルセン委員長は、「表現の自由はいまや絶滅危惧種となった」と危機感をあらわにしている。われわれはこの言葉を重く受け止めなくてはならないと感じる。日本を含めた民主主義国家も、自分たちは安泰だと、対岸の火事のように油断していると大変なことになりかねない。専制主義の国ほど露骨でないだけに、民主主義体制下における報道・表現の自由の浸食はある種不気味である。
たしかに民主主義国家においては、法的にも制度的にも報道や表現の自由は守られている。だが、それだけでは十分だとは言えない。法や制度はあくまでも枠組みにすぎないからだ。それをどう運用するかが肝心である。
独裁者にかぎらず、一般に強大な権力を有する者は不都合な事実を隠そうとし、それを暴くような報道を規制する方向に動くものだ。これは歴史が示すところでもある。国民が安閑としていれば、為政者は法や制度を自分たちの都合がいいように解釈し、運用するかもしれない。また、「サイバーテロ」や「フェイクニュース」などを口実に、情報管理を強化し、報道に制限を設けることもできる。

為政者や政治家が本当に恐れるのはジャーナリストではなく、国民である。なぜなら権力を有する者は、国民の支持によってその権力を得ているからである。もしもその国民がジャーナリストを軽視すれば、ジャーナリストはいくら真実を暴き出そうが、権力者によってつぶされてしまうだろう。あるいはマスコミがいくら政治家を追及しようと、国民に関心がなければ、それまでである。これは専制主義の国であろうと民主主義の国であろうと変わらない。筆者は真実を求める記者やジャーナリストを孤立させてはならないと考える。制度だけでは真の報道の自由は守れまい。国民の報道に対する持続的な関心と、為政者に対する厳しい目こそが公正な報道を支えているのだと銘記したい。

河原地 英武 教授

ロシア政治、安全保障問題、国際関係論

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