Ⅷ 蘇民将来と疫病よけ

『釈日本紀』巻7に引用されている『備後国風土記』逸文に、疫隅社(えのくましゃ)の縁起として、次の説話が記されています。
昔、北の海に住んでいた武塔神(むたのかみ)が、南の海神の娘のもとに出かける途中、二人の兄弟に宿を乞いました。兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はとても貧しく、弟は裕福で大きな家に住んでいました。弟は惜しんで家を貸そうとはしませんでした。一方、兄は粟の茎で編んだ座布団をすすめ、粟飯と粟酒などを出してもてなしました。
数年が経ち、武塔神は八人の子神を連れてその地を再び訪れました。そこで、「私は、以前受けた恩に報いようと思う。あなたの子孫は家にいるか」と尋ねました。蘇民将来は「私の娘と妻とが家におります」と答えました。すると武塔神は、「茅の輪をその娘の腰に着けさせよ」と言います。そのとおり娘の腰に茅の輪を着けさせたところ、その夜に娘一人を除いて、その土地の人々はことごとく殺され滅ぼされてしまいました。
武塔神は、さらに「私の正体は速須佐能雄能神(はやすさのをのかみ)である。今後、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を着けていれば、死を免れるであろう」と言いました。
この説話は、疫病消除の「茅の輪」の由来譚となっていますが、「蘇民将来の子孫」が呪文となり、疫病除けの護符に使用されます(右図)。また、武塔神はスサノオノミコトと名乗っていますが、後には祇園社(八坂神社)の牛頭天王と習合し、その信仰は複雑に展開していきます。

(大江 篤)


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