西高瀬筋高反別取調繪圖

写本 明治5年(1872年) 菅忠治郎
1舗; 28×362cm(変形つなぎあり)
※「右之通西高瀬筋高反別取調繪圖書入奉差上候以上 明治五壬申二月 庄屋 菅忠治郎」とあり。巻末に「葛野郡西京村西院村」とあり

 本絵図は、西高瀬川に関して西京村と西院村の西は字嶋之内(中京区西ノ京島ノ内町)から東は字樋ノ口(中京区西ノ京樋ノ口町)まで、川床として供出した土地(潰地)に対する補償(米代)を求めるために、明治5年(1872)2月に西京村の庄屋、菅忠次郎が作成したものである。同年2月5日に京都府から大蔵省に宛て提出した「西高瀬川開発入費御下金再願書」には、「分間絵図」一葉を添付したことが記されており、この絵図は添付した「分間絵図」の控えである可能性がある。国立公文書館所蔵の「公文録」(1871年)に収録されている「東西高瀬川々床潰地償米代金御渡方伺」には、明治4年(1871)時点の「西高瀬川筋潰地高寄帳」が掲載されており、西高瀬川沿いの村々の名が記されているが、その中に西京村は含まれていない。このことから推測して、明治5年に改めて西京村の潰地への補償を求めるために本図を制作したのではないかと推察される。

(引用・参考)
鈴木康久編(2022)『淀川水系 河川絵図集成』一般財団法人近畿地域づくり研究所 寺尾宏二(1973)「西高瀬川考」(『経済経営論叢』第八巻第二号、京都産業大学) 寺尾宏二(1974)「西高瀬川続考」(『経済経営論叢』第八巻第四号、京都産業大学)