研究紹介

経済学研究科 経済学専攻 田中寧教授 インタビュー

「個人と社会のつながりを分析――労働社会学の視点から」

心理学、社会学から労働経済学へ

私が研究を一生の仕事として選んだもともとの理由は「人の心の動きを知ること」にありました。つまり、はじめは心理学を学びたいと思ったのです。しかし、大学で心理学の入門コースを受講するうちに、「人の心の動きが他の人々に多く影響を受けること」に気が付き、私の興味は社会学にシフトしました。さらに、社会学をかじっていると、分析を政策に結びつけるのには経済学がより効果的であると思いだしたのです。もともと数学が好きだったこともあり、学部では数理経済学と計量経済学を専攻しましたが、その後研究分野として労働経済学を選びました。私にとっては、労働経済学は「個々人の社会的価値」の研究です。したがって「個人と社会とのつながりの分析」という意味で心理学や社会学と密接な関係を持っているわけです。ここでは労働経済学で扱うトピックの中で私の興味の中心である人的資本論、コーオプ教育、所得と資産の不平等について簡単に紹介したいと思います。

大学教育の収益率をみる人的資本論

書籍

さて我々の給料が生産性を反映しているということを経済学では「賃金=労働の限界生産性」と表現しますが、生産性とは個人の社会に対する物質的貢献度です。これはまた個人に対する社会的評価の一つですから、給料が高いと自分は高い評価を受けていると満足し、低いと自分が適切な評価を受けていないと不満に感じるでしょう。この生産性を決める要素の研究の一つが「人的資本論」で、1950年代頃からアメリカのシカゴ大学を中心に進められてきました。人的資本論とは我々が教育を通して自分に投資することを分析する理論です。大学を例としてあげると、この理論は大学教育が将来の賃金に与える影響を検証します。ここでは金融投資の収益率を計算するように、教育の収益率を計算するのです。もちろん、それだけが教育の意義というのは少々短絡的な考えでしょう。しかし、仮に大学進学にこのような効果がなく、学問的興味を満足させるためだけのものならば、世の中の親に果たして子どもの大学進学を応援する余裕があるでしょうか。幸いに、国内外の多くの研究は大学教育には確実に経済的メリットがあるとの結果を導き出しています。ただし、欧米諸国と比較すると日本の大学進学の経済効果は弱いことも知られていて、これは日本の大学の授業料が高いことと大卒と高卒の賃金格差が小さいことに起因しています。言うまでもなく、賃金は世の中の様々な出来事によって決まり、その多くは我々自身のコントロール範囲外にあります。しかし、だからこそ、ある程度は自分でコントロールできる「教育を受けるという行動」についてより正確な情報を持つことが大切なのです。

座学と就業体験を交互に行うコーオプ教育

「日本の大学がレジャーランド化し、大学生は遊びの資金集めのためのアルバイトばかりして全く勉強をしていない」という不満はよく聞きます。実際、欧米の大学と比べると日本の大学生の勉強時間がきわめて短いという統計調査結果も発表されています。また、「大学で学んだことが職場で使えるのか」という疑問もよく聞きます。このような不満や疑問に対して政府もやっと重い腰を上げ「社会人基礎力の修得」「キャリア教育」などのコンセプトの下に勉学と仕事のつながりについて真剣に取り組み始めました。人的資本論が教育の量について言及しているならば、上記のコンセプトは教育の質に関係するといえるでしょう。「キャリア教育」というコンセプトは、北米では「コーオプ教育」という名の下に1世紀以上の歴史を持っています。コーオプ教育とは、一口でいうと「座学と就業体験を交互に行う教育プログラム」で、その目的は学生が在学中の就業体験を通じて座学の社会的価値を見出し、勉学と仕事のつながりを通して相乗効果を生むことです。欧米のコーオプ学生は在学中に1年間近くの有償就業体験(インターンシップ)をします。日本はこの分野ではかなりの後発国ですが、京都産業大学は国内ではコーオプ教育の先駆者の一つとして知られています。2015年には本学で第19回世界コーオプ教育大会(The 19 th WACE World Conference in Kyoto)が日本で初めて開催されました。

私の最近の研究テーマの一つは労働経済学に基づくコーオプ教育の効果の分析です。コーオプ教育を人的教育投資と考え、大学教育においてコーオプ教育が学業や就職活動に与える効果を人的資本論の概念や計量経済学の手法を使って分析しています。コーオプ教育は実践面が重視されがちでその研究は学問としてはあまり確立されておらず、強いてあげるとすれば教育学や心理学で部分的に研究対象になっているのみです。しかし、「教育と就労のつながり」に関する研究として取り上げるならば、経済学、とりわけ、労働経済学が扱っても不思議ではありません。

ピケティの論点「所得と資産の不平等」に注目

インタビュー風景

2014年にフランス人経済学者のトマス・ピケティが『21世紀の資本』という本を出して話題になりました。また年末には邦訳が出たため2015年には日本でも話題になりました。この本は経済的不平等を歴史的データと経済理論に基づいて分析した大書で、原書のフランス語版は970ページ、そして、大ヒットした英語版も700ページほどもあり、「完読率」がきわめて低いという分析もアマゾンから出ているようです。アメリカでヒットした大きな理由は、リーマンショック以降のアメリカ社会における格差の拡大にあります。ピケティは過去数世紀に遡り、主にフランス、イギリス、アメリカにおける所得と資産の分布の推移を分析し、このままでは21世紀には第二次大戦後のような平等な社会はなくなり、我々は19世紀にあったきわめて不平等な社会に逆戻りすると主張しています。また、これを防ぐ対策として資産に対する累進課税の必要性を説きます。一方、所得税については過度の累進性は勤労意欲を減退させるため好ましくないとも言っています。ピケティの論点の中心は資本主義の存続には規制が必要であるというものです。この本は日本でも話題にはなりましたが、盛り上がりには欠けました。その理由の一つは日本がそれほど不平等でないことです。特に日本の資産分布は欧米諸国と比較するときわめて平等であることが知られています。一方で、所得については高度経済成長期と比べると確実に不平等化しています。ただし、学生たちに聞いてわかったことですが、今の若者は70、80年代の若者のようには平等性を重視していないようです。

社会人の学び深める通信課程へのご招待

2007年の通信制開講以降、大学卒業後間もない方や、私自身と同年代の方、一般企業の方、地方公務員の方、医療機関や教育機関の職員の方など様々な方を指導してきました。通信課程受講中は平均睡眠時間が数時間という方もおられました。すべての方に共通するのは学ぶことに対するハングリー精神と高い向学心です。受講者の方々の社会人としての経験が勉学のモチベーションを高めているのならば、これこそが座学と就業のつながりの模範例であるわけで、ぜひ現役の大学生にも参考にしてもらいたい限りです。

受講生の方には社会経験を通じて思うところを大いに語っていただきたいと思います。我々の役割は、これを経済学分析の枠組みに流し込んで、受講生の方々が学問的にも説得力を持った論文を完成させるためのお手伝いをすることです。