入賞

「芸術立国NIPPON」

文化学部 国際文化学科 4年次生 多田 柾博

審査員講評

 「私」は、この三年間京都で演劇活動をしてきている。その中で、京都だから生まれ、また出来る表現があることを見ており、芸術の持つ力を強く意識している。昨年夏に京都学生演劇祭に参加し、会場である元小学校の音楽室を活かした演劇の脚本を作り上げていく過程を、生き生きした筆致で描写している。それは、瀬戸内国際芸術祭で島に長期間滞在して島の人々と交流を図りながら創作していくという記事がヒントになったという。そして、「私」の考える住みたい町とは、様々な年代の人々が交流し、自分の輝ける場を持つ街であるという。国や行政が若手の芸術家を支援して、地方から芸術によって日本を盛り上げていくことを夢見ている。そこには、明るい未来が描かれており、入選に値すると評価する。評者は、本エッセイを読んで、無名塾を主催する仲代達矢氏の能登に於ける演劇活動を思い浮かべたことを附記する。

作品内容

「芸術立国NIPPON」多田 柾博

 京都に暮らして3年目になる。地元から離れた生活にも慣れ今ではすっかりこの土地に馴染んできていると感じる。でもまだわからないことは多い。「都会で生活しているな」と感じる瞬間がフとした瞬間に訪れることがある。私の地元は日本の中でもとりわけ若者が少ない地域である。京都の様に地下鉄でどこまでも行けるわけではないし、密集した歓楽街なんてものはもちろんない。若い人が減ってきていることを帰省のたびに賑やかな京都と、人通りの少ない地元の町を比べて感じることがある。
 就職という問題が差し迫った今、就職先も限られた企業しかなく「ここに戻ってくることは難しい」そういった思いに陥ったことも正直に言えば何度かある。だからと言って自分の生まれを変えられるわけでもなく、京都に住んでいる自分がそのままずっと京都に居られるわけでもなく、いつかは自分も地元に帰る日が来ることになるのだろうと頭の隅で漠然と考える。「地方」と言う言葉は地元に住んでいる間には全く意識するものでも無かったが、大学での3年間、京都での生活によって改めて地元を見つめ直した時に「地方」と言う言葉が現実味を持って浮かび上がってきた。

 そんな中で東京と京都と言う2つの土地についてここの所よく考えている。 私は演劇をやっていて、京都を中心にこの3年間演劇活動をやって来た。この地域は聞くところによれば全国でも有数の演劇が盛んな地域であり、毎週末(平日もだが)様々な場所で公演が行われている地域である。私も足しげく劇場に通っているが、その全てを網羅することは絶対にできないだろう。しかしながら、もし自分が「演劇で食べていこう」と野望を持った時に「東京に行かなければやっていけない」と言う1つの雰囲気がある。確かに関西を拠点において創作活動を続けている団体をいくつか知っているが、来場するお客さんの数や劇場の数を考えると「東京にはかなわない」と言う考えにも頷けるものがある。こうして考えた時に京都もその他の町と同じように1つの地方であり、自分が暮らしてきた地元と同じだと考えるようになった。
 知名度や集客数など、求め続ければ東京と言う場所でやっていく事も必要かもしれないが、東京だったら理想の演劇が出来るわけでも、教養のある人たちが観に来るわけでもない。京都だからこそできる、京都でこそ生まれた表現があることをこの3年間の間に私はいくつもの会場で観てきているしそれらの公演が持つ熱量に触れた瞬間こそ芸術の持っている力を私は強く意識した。
 また「全国」と言う目線で演劇を見つめた時に様々な試みがあることに気が付く。瀬戸内国際芸術祭を初め、国東半島芸術祭、BIWAKOビエンナーレなど様々な取り組みがある。これらの芸術祭が行われているのは必ずしも人口が多い場所ではなく、展示されている芸術作品や演劇の公演もその土地を考えて創作されているものが多い。

 私も最近、演劇の脚本を書く上でこうしたことについて考えることがあった。この夏に京都学生演劇祭と言う京都の学生同士の交流と発展を目的とした演劇祭に参加した。会場は元立誠小学校の音楽室。音楽室だけに壁には黒板とその中に五線譜。典型的な普通の音楽の教室である。普段は壁の一部にバッハやモーツァルトの肖像画なんてものも張ってある。演劇は1つの虚構をつくりあげる試みだが、音楽室は実際にそこに存在する。この場所でどこか違う世界の話をすることや、黒い幕を張って教室を覆い隠してしまえば自分たちのやりたいことを自由にやることは可能である。しかし折角の会場であるのだからこの会場に沿った話を書こうと私は思った。会場に寄り添う、活かした作品をつくることがより良い作品になるのではないかと考えたからだ。
 脚本を書いている時に瀬戸内国際芸術祭で滞在製作をしている劇団の記事を読んだことがこの考えのきっかけになっていた。瀬戸内の島に長期間滞在して、島の人と交流を図りながら創作していく、という内容の記事だった。夏の朝は地元の子供たちと一緒にラジオ体操をしてイベントを行い、自分たちの創作を続けながらも、たまに農家のおじさんの仕事を手伝って新鮮な野菜を分けて貰い交流を深めていく。そうした活動は私には芸術といった固い言葉を溶かして、日々の生活の中に芸術を溶け込ませていくように思えた。この様な創作のあり方が演劇の垣根を広げ、芸術の土壌を豊かにし、コミュニティを活性化させるものではないだろうかと感じたのだ。 もう1つ演劇の話で一般の65歳以上のキャストを20人程集めた公演を観に行く機会があった。普段自分とあまり年齢が変わらない人の演技ばかりを見ていることもあって新鮮だったこともあるが、歳を重ねることで出る「間」の感覚や、皺の1つ1つが生み出す表情、また高齢になっても「何かを表現したい」という熱量にとても感動した。私の地元では神楽が盛んであり、小学生や中学生を相手に高齢者がいきいきと舞や笛のやり方を若い人たちに教えるという光景を何度か目にしてきた。父親は「高齢になっても自分が輝ける場所があることが1番の健康だ」と言っていたがその通りだと演劇を通して実感した。

 大分前置きが長くなったが、「私の考える住みたいまち」とはこういった街である。
 詳しくいうなら様々な年代の人が交流し、自分の輝ける場を持つ街である。演劇は一種「祝祭」と言う意味合いを含んでいる。長い準備期間を経て、様々な人と協力し、その日になったらお披露目をして、終ったらみんなで苦労を労う。そこには賞賛をしてくれる人もいれば、年代を関係なく手を叩いて「良かったね」と言ってくれる人がいる。このような環境こそ「自分を必要としてくれる場所」として機能していくのではないかと思う。
 世の中には芸術を志しても作品を創ることで収入を得ることが難しい構造がある。また経験を踏もうにも日々の生活がのしかかって上手く創作が出来ない実情もある。自分も演劇をしている中で経済的な問題がネックになることは多い。しかし地方には使われない沢山の空き家があったり、若者が主体性を発揮できる場所が無いとか、高齢者が孤独に苛まれているといった現状がある。そうとだとするなら、演劇やその他多くの芸術を志す若者が地方の町に滞在して地域の人と一緒に地元を盛り上げていく、そんな選択を選べる可能性があってもいいのではないだろうか?国や行政が若手の芸術家を支援して地方から芸術によって日本を盛り上げていく。そんな明るい未来を私は考えていきたい。

 決して芸術作品は美術館だけで見るものでは無いし演劇も劇場以外でやってもいいのだ。自然の中で、環境の中で、多くの人と共有と交換を繰り返して出来上がった作品は誰かのものではなく、わたしたちもその作品の一部なのである。芸術で地方を変えていくなんて、まるで夢のようかもしれない。しかし孤独な創作活動に人の体温が加われば、今の沈滞するムードもサッと晴らしてくれるようなすばらしい表現が生まれてくるかもしれない。
 私はそんな可能性をみんなが考え、集える場所こそが理想の町の姿であり、また私自身の夢である。

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