サギタリウス賞

「私のルーツは治与門」

経営学部 経営学科 4年次生 中田 美麗

審査員講評

 長野県北部の震災において、被害の最小化に密な地域関係が寄与したことが報道されたのは記憶に新しい。「治与門とこの孫さん」はその報道から現在の自分、幼いころの自分、またその頃に聞いた母の言葉を手掛かりに自分が生まれる以前にまで思いを巡らし、人と人が助け合い、自然に触れ、生きている事を実感できる「こころが温かくなる街」に住みたいと述べている。「こころが温かくなる街」とは抽象的な表現であるが、屋号である程度のことがわかるような濃厚な人間関係を有する共同体こそが、筆者にとって心の温かさを感じられるものなのであろう。屋号を手掛かりに、現代社会が喪失した、旧き良き日本社会の社会的慣習が有する意義を再発見し、今後の街創りに生かしていきたいという筆者の主張は、殺伐としたにわかに信じ難いような事件が多発する昨今、傾聴に値する意見であろう。

作品内容

「私のルーツは治与門」中田 美麗

 「この子、治与門とこの孫さんか」

 京都・山城地方にあるおばあちゃんの家の近くで母と歩いていると、見も知らずのおばあさんが母にどこの子かと尋ねる。そして母が「治与門です」と伝えると、その人は私をあたかも良く知っているかのように温かい笑顔で見るのだ。最初は、どこのお侍さんの名前なのだろうと思っていた。その人たちは、佐太郎や新兵衛、久衛門という現代では耳にしないような名前で人を判別していた。母に聞くと、驚いたことに“治与門”は私のルーツらしい。どうやら、私は幼い頃から「屋号」というものを通して色々な人に可愛がられ生きてきたのだ。

 屋号とは、家屋敷の各戸につける姓以外の通称で家名ともいう。私の母が小さい頃も屋号は伝えるだけで、自分の知らないおばちゃんが「あそこの子か」とわかる不思議なものだったという。そこには、私の事を誰かが知ってくれているという何とも言えない安心感があり、また誰かに見られている!悪いことはできない!という緊張感もあったそうだが、今思えば自然に倫理観も身についたのかなと言っていた。

 そんな中で大阪に住んでいる現状の生活を考えてみると、近所の人との付き合いもほとんど無く、夜は明かりで星も見えず、また気付けばスマートフォンと向き合っているため1日の大半、下を向いて過ごしている。インターネットが普及し便利になってからは、家の中に居ながらモノが揃い生活が出来るし、知りたい情報も簡単に手に入るので、必要以上に外に出なくなった。また、京都に住んでいた幼い頃は、自然に囲まれカブトムシやダンゴ虫、ザリガニ、セミの抜け殻までもが私の毎日をワクワクさせていた。しかし今は、バスの中で見つけた足元の小さな虫にすら恐怖を感じる。わたしは、少し栄えたこのまちで“生かされている実感”を失いそうになっているのかもしれない。

 わたしは、自分の住みたいまちを考えたとき真っ先に“こころが温かくなる街”がいいなと思った。人と人が助け合い、自然に触れ、生きている事を実感出来るまちである。 “こころが温かくなる街”を創生する材料は、人・自然・生き物・である。

 まず“生き物”だが、生き物は私たちに色々なことを教えてくれる。ウグイスが春の訪れを、セミの鳴き声が夏の醍醐味で、といったように季節を知らせてくれる以外にも、いのちの尊さも教えてくれる。小学生の頃、セミはたった1週間の命のため、7年土の中で眠るといった話を聞いた帰り公園で死んでいるセミを土にかえしてあげながら、自分の命の長さに感謝し涙したことを今でも覚えている。鳥の鳴き声、ねこのあくび、夏のホタル、一緒に生きている生き物たちが私たちに与える“生きている”は強いパワーを発しているのだ。 次に、自然が必要である。私たちを見守る山、広大な海、綺麗でおいしい空気、季節ごとの美味しいお野菜、太陽の眩しい輝き、これら自然は健康にとって非常に大切なものだと考えている。しかし、そんな自然を後どれくらい私たちの子孫に残すことが出来るだろうか。最近になって、様々な異常気象や自然災害が私たちを襲う。これは、自然からの最後のSOSなのかもしれない。便利を、エネルギーを追求し自然を破壊しているのも私たちだが、そんな自然を守っていくのも私たちなのだ。私は、夜空を見上げるのが大好きである。その静かな時間が、自分を見つめ直させてくれるのだ。そんな自然に“生かされている”ということを教わり、感謝しそれぞれが自然を大切にできる機会が持てるまちを目指したい。

 最後にまちを創る上で、必要不可欠な“人”の理想像を述べたい。まず、第一に子供、大人、高齢者と多世代が共同した地域を創りたい。多世代の家族で集まって住んでいるほかに、同じ地域に住むコミュニティ内でもそれぞれが生活を共にすることが出来れば、古くから続く文化を残していったり、めまぐるしく変わる現代の便利さに高齢者も含め皆で感動したり、地域の問題を共有できるなど日々、より良い地域づくりに取り組めるのではないか。そのような、密で温もりのある人間関係をどう創ろうかと悩んだとき、冒頭の屋号の温かさを思い出した。 その背景には、11月22日の夜に長野県北部で起こった地震のニュースを目にしたことがある。毎日新聞には「最大震度6弱という大きな揺れで住宅も崩れ、40人を超える重軽傷者が出てしまったものの幸いにも死者や行方不明者はいなかった。中越地震をきっかけに、長野県は独自事業として災害時住民支え合いマップ(地図)の作製を市町村に働きかけ、災害時の避難に手助けが必要な高齢者ら要援護者の住まいなどの情報を地図上に書き込み、それを地域住民で共有し、誰が支援するかを含めて事前に準備していた」とあった。まさに、地域住民たちの共助が功を奏したのだ。密な地域関係が、いくつもの命を救ったのだ。私はこれを目にしたとき、自分の今の地域への共生観の無さを実感すると同時に、京都での屋号を通しての人の温かさを思い出したのである。

 新しくまちを創る中で、この屋号の仕組みを新しいカタチで取り入れたいと考えている。例えば、初めに住む人たちはまず、自分の住むその家の土地に屋号ならぬ名前をつける。今までと違い、グローバルな現代の中でもし人が入れ替わることがあったとしても、家の土地に名前がついていることで、知らない人に土地名を言うだけでずっと住んでいる人が「あそこの子か」とわかる仕組みである。この仕組みから、昔の母のように自然に倫理観が身に付くことによって、まちの安心・安全が守られ地域のコミュニティはぐっと濃いものになるのだ。

 近頃、こどもを一人で外に遊ばせることの出来ないような事件がよく報道されている。“他人を信用する”ことに抵抗を感じる人も増えてきているかもしれない。しかしそれによって、「人と人のつながり」が少なくなった今、“独り”を感じる若者が増えてきているのではないか。機能性の高いゲームが開発され、家に引きこもる事により“生き物の命や人の温かさ”に触れる機会が減った子供たちが増えてきているのではないか。わたしは、そのような問題を地域に住む人と“こころが温かくなる街”にて解決したい。一方通行の思いではなく、こころを通わせ共に感動し一緒にまちを創っていきながら。

 そして、いつの日かを想像して未来が楽しみになる。「あんた、どこの子や?」という問いに対して私の子供が言う「治与門です。

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