入賞

「様々な色を持ったグローバル」

経営学部 経営学科 3年次生 中田 美麗

審査員講評

 グローバル化という言葉の出会いを振り返り、その定義を調べることから留学体験をもとにして、改めて自身のグローバル化を考えようとする展開が自然になされている。ここに、書くことは考えることであり、そこに筆者の独自性が表れるのである。そうして、大切なことは相手の立場を考えてよく理解することであり、そこから互いに繋っていけると述べる。構え過ぎず、素直にまとめている。ただ、終盤で詩的な筆致で心情的に流れ、論旨として弱い。中心の「様々な色」を比喩でなく、具体的で実質的な行動で示さねばならない。その表れとして、不用な一行空け・体言止め、片仮名表記、会話的な「のだ」や語の繰り返し、鉤括弧・符号の多様など、ゆるみが目立つ。文章のこつは削って、引き締めることである。

作品内容

「様々な色を持ったグローバル」中田 美麗

 最近よく耳にするようになった「グローバル」。
 私が初めてしっかりと意識して捉えたのは、確か高校生の頃であったように思う。大学受験の際に、たくさんの大学が「グローバル」という言葉を掲げ、各学校のカリキュラムを紹介していた。その時は、ニュアンスとして国際的ということだろうと捉えていたが、就職活動を控えている機会に、今、企業が必要としているという大切な私にとっての「グローバル」というものを改めて考えてみようと思う。
 まず、「global」とは、どうやら「globe」を語源としてできたらしい。「globe」には、地球という意味があるが、やはりこの大きな、大きな地球にもとづく「global」には実に様々な意味があったのだ。
 その一つ目は、地球環境に視点を置いた「global」。1900年代後半、人類は便利さを追い求め、様々な発明を繰り返した。そのおかげで私たちの暮らしは便利なものに、また限りある時間を有効に使えるようにもなった。しかし、同時に環境に支払う代償も大きなものであった。そこで、生物の保護・気候変動の研究・水域の汚染防止・オゾン層の保護などの、地球環境に対する人類の課題という意識から「global」という言葉が広まった。
 二つ目は、世界平和を志向する「global」。まだ、アメリカとソ連が冷戦を続けていた時代、東西を行き来する者のことを「global」と言い始めたことがキッカケで、人類の世界平和を願う言葉として使用されるようになった。また、近年では、貧困問題について考えるグローバル会議も盛んに行われ、地球平和としての考えも普及している。
 最後に三つ目は、経済においての「global」がある。1990年代になると、「経済のグローバル化」という言葉が生まれた。世界各国が金融自由化を進め、日本の産業もバブル崩壊後には世界的な競争に加わっていった。ここから国際的な経済という理念に加え、全世界的な、といった意味も生まれていった。
 このように、「グローバル」について知った私だが、やはり丸い地球を語源にもつ「global」にはいろいろなものを受け止め、吸収していくように、様々な考えが込められていた。そして今振り返ると、私もグローバルな経験をしていたことに気付いた。これは、高校に入学して一年が経とうとする春休み、学校の制度を使い、イギリスのオックスフォードに短期留学に行った時のことである。そこでのクラスは、語学を勉強しようと様々な国から留学生で構成されていた。韓国、ロシア、フランス、中国、ポルトガルや、また、イギリス英語を勉強しようとアメリカからの留学生も一緒のクラスだった。一カ月近く一緒に過ごしたが、やはり文化の違いや考え方の違いは感じた。それは向こう側にも伝わったのか、典型的にどっちつかずな日本人の私に、一度why you always say so-so or either is fine?と質問されたことがある。それは、授業中にチーム対抗のゲームをしようとする時、中国人の王とアメリカ人のミカエラが、それぞれの作戦を少し口論しつつ、別々の提案をした時、双方を傷つけないように、「どちらもいいアイディアだと思う」と言ったときのことであった。良い関係を壊したくない、という私の気持ちもわかってほしかったと、韓国人のユンナにその話をしてみると、「相手を傷つけるというより、自分の思うことを伝えない方が相手に失礼な時もあったり、何より自分の意見を言わないなんてもったいない!」という意見を言われた。争いを避け、みんなに良い顔をしようとするところは、日本の政治とも似ている、と帰り道のバスでニヤリとしたことも覚えている。それから、私は自分が思ったことは顔色を窺いつつも言ってみるようにして、クラスの人たちともさらに交流を深められたように思った。この、グローバルなクラスならではの経験は、人生においても貴重なターニングポイントであった。
 そして、私にとってのグローバル化とは何かを改めて考えてみた。
 それは、「お互いを理解しあうこと」から始まるのではないかということである。世界を相手に、グローバル化を考えるということは、言葉だけではなく、その背景にその人たちの文化があることも忘れてはいけない。同じ日本でも価値観の違う人とたくさん出会うのだ。世界となると、うまく伝わらないこともあり、物事もすべて順調にいくとは限らない。まずは相手を知ること、相手を一度受け入れ、自分が相手だったらと考えた上での話し合いであれば、時には激しいディスカッションになっても構わない。これを繰り返していくことで、より良いものが生まれていくのではないかと考えている。これは、国境を越えて人々と協同する上でも大切なことで、リーダーシップをとる場面では、なおさら「理解する」「よく知る」は大切になってくるのだ。世界中の人たちが、それぞれいろいろなニュアンスで「自分のグローバル」を持っているだろう。なんだか「グローバル」とは、この言葉の中に果てしなく、多くの意味が詰まっていそうだが、国と国どうしの付き合いにおいても、双方が相手のことをきちんと知ることや、相手側の立場になって少しでも考えることが出来れば、今よりもずっと気持ちよく世界における問題についても話し合えるのではないか。
 「グローバル」とは「世界中をつなげてくれる言葉」なのだと思う。
 丸い大きな地球の上、同じ空の下で文化や生活の仕方も違う人たちが見えない透明な糸でつながっている。もちろん、わたしもあなたも。これを色の見える、交わった糸にしていくかどうかは、自分次第であろう。私は、一本でも多くの糸を見てみたいと思う。そして、自分の中での「グローバル」を広げ、まだ見たこともない、いろんな色をもった世界に出会ってみたいと思う。そして、「グローバル」という言葉はこれからも成長していくだろう。時代の変化と共に生きてきた言葉であり、世界が変わればまた違う意味が書き足されていくだろう。「様々な色を持ったグローバル」いつになるか分からない。しかし、昔よりもグローバルな環境の中で生きている私たちがこれからの社会を創造していくのである。
 「グローバル」を国語辞典で調べたとき、「様々な色をもった」という形容詞がヒットし、説明には「全世界中の人々が糸と糸でつながること、またその中で共にお互いの地球問題について考えることで糸が色づいていくこと」とある。こんな未来も遠くないだろう。いや、私たちが一歩でも近づけていかなければならないのである。

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