入賞

「日本から世界に」

経済学部 経済学科 4年次生 森田 麗美

審査員講評

 小学生の時に父から聞いた「これから将来、日本だけで生きていこうと思うな」という改まった一言が、筆者にとってのグローバル化の始まりであるという。なんとなく重要そうだと判断しつつ、これまで心の片隅に放置してきた。就活を始めてから、調べようとする意欲をかき立てられたという。そしてその定義が抽象的であり、グローバル化そのものに対する論述の少なさに気づく。パン屋のアルバイト先で外国人と交流する機会があり、そこで机上ではない、奥深い意味に気づく。「グローバル化とは自分と違う価値観の中で生きてきた人に対して、自分のことを伝えようとしたり、相手のことをわかろうとすることそのものではないか。」に気づく。これは重要な発見であると思われる。筆者は、結びに「この国から世界にいい影響を発信していく人間になりたい。」と述べるが、その志を持ち続けて貰いたいと思う。文章も論理的で説得力があると評することが出来る。

作品内容

「日本から世界に」森田 麗美

 「これから将来、日本だけで生きていこうと思うな」
 今振り返ると私にとってのグローバル化は父の改まった一言から始まった。この時の私は齢十年未満の小学生だった。この時父が何を思って私にそういったのかはわからないが、よく世の中の流れというのを汲み取っていた父の言葉だった。また面倒なことをと嘆く本音を抱きつつ、なんとなく重要そうだと子供心に判断し、心の片隅に放置していた。
 その放置していたはずの言葉が肥大化し、それに追われているような気がしてきたのはいつからだろうか。父の警告とも取れた言葉を無にする形で中学英語に躓き、それを克服できないままに高校生になり、大学生になった。最初はどうってことないと高を括っていた綻びがどんどん広げられていく。危機感を覚えるももう遅いと苦手意識が囁き始める。その過程で私の意欲に反比例してよく流れるようになった単語がある。それが「グローバル化」だった。 グローバル。この単語は、就職活動をしている中でも、何気なく眺めるテレビでも、五十周年を控え、準備を進める学校の中にも、どこにでも転がっていた。以前はもっと戦略めいた響きを感じていたのに、今となると脳がただ一つの単語としか認識しない。それぐらい耳に馴染む言葉となった。
 特に就活を始めてからは、その単語はもはや流行語のように使われていた。だいたい地域密着と言わない企業は十中八九グローバルという。その度に自分への劣等感を感じてしまう。これほど自分を苦しめるグローバル化とはなんぞやと怒りに近い感情が、調べようとする意欲のきっかけとなった。
 調べてみて思ったことが、その定義が抽象的だいうことだ。主に問題として取り上げられているのがTPPなどの経済問題であり、グローバル化そのものに対する論述があまりにも少ない。
 仕方なく辞書を引いてみたところ、“global”という単語には大規模な・世界的な、という広い意味があることはわかった。しかし混合しやすい単語に挙げられる“international”という単語を引いてみて、もっとわからなくなった。
“global”世界的な
“international”国際的な
 この二つの単語の意味の違いは、後者が寄せ集めたものというニュアンスがあるのに対して、前者はもともと一つのものだという前提がある。こう見ると“global”とは随分強引な印象を受ける。そこにある国境も言葉の違いも文化の壁も全部なかったことにする、という身勝手さを含んだグローバル化よりも、国と国が共に歩むという優しいニュアンスを含んだインターナショナル化の方が私には理想的に感じた。結局、グローバル化の意味も、どうして今起こっているのがグローバル化なのかということもよくわからなくなってしまった。
 そんな中、私にある外国人と交流する機会が訪れた。アルバイト先のパン屋で接客をしていた際の出来事である。店の正面にある中学のALT(外国語指導助手)の先生がやってきたのだ。もともと人懐っこい性格なのか、既に何度も来ている慣れか彼は、初対面の私に拙い日本語でこの間買ったパンの感想を話してくれた。
 彼の日本語はときたま単語のみとなり、こちらが補ってやりながら理解する、それでわからない時は英語を使う彼に、こちらも負けじと拙い英語で応戦するという、国際的なコミュニケーションとしては型破りでイレギュラーなものだった。しかし、何度もパンを買いに来てくれる彼との会話はきっちりしていない分気楽であり、私にとって楽しいものへと変わっていった。
 内容的にも特に中身のないもので、例えばあんぱんを初めて食べたと話す彼に、どうして外国ではあんぱんを食べなかったのかと聞いてみた。そもそもアメリカと日本では、パンという食べ物の立ち位置が違うのだと彼は一生懸命伝えてくれた。よくわからないと表情で返す私に、日本でディナーに饅頭は食べないよね?とゆっくりした英語で言って彼は笑った。そんな具合だ。
 グローバル化どころか、ただの英会話未満かつ日本語会話未満の会話である。しかし、彼との会話で日本と彼の母国の違いの多さに気づいた。その中で以前に投げてしまった二つ目の疑問、どうして今起こっているのがグローバル化なのかが少しわかるようになった。彼には自分の国の文化を尊重する気持ちはあった。しかし、守ろうとはしていなかった。インターナショナル化は国家間という色がある。それぞれの文化や価値観について大切にするあまり不可侵的な存在となる。しかし、グローバル化はノーガードである。各々の文化の存在は認めるし、尊重もする。しかし、保護はしないという方針は人の往来が盛んな現代では当然のように思われた。交通機関の発展で世界が縮小していく中で、自国の文化を蔑ろにするわけではないながらも、他国の文化を積極的に受け入れようとする姿勢がこれから必要になる。彼の性格も勿論あったのだろうが、物の出入りが多いからこそ、郷に入りては郷に馴染むように積極的努力しなければならない時代なのだろう。
 彼は他にも自分の国のことをたくさん教えてくれた。時には家族の写真を持ってきてくれた。たまにわからない言葉もあったけど、易しい英語を使って教えようとしてくれた。一方で私は、パンの知識なら答えることができたが、自国のことを聞かれると途端に自信を無くしてしまうのだった。普通はとか多分とか曖昧な返事が多くなってしまうのだ。彼が自信ありげに話すのとは対称的だ。それを自覚した時、私ははっとした。 グローバル化とは自分と違う価値観の中で生きてきた人に対して、自分のことを伝えようとしたり、相手のことをわかろうとすることそのものではないか。
 自分達の文化を保障してくれないグローバルな世界では、いかに相手に自分の持っているものを伝えるかが文化の存続を決める。土地にも家柄にも縛られず、国境すらフリー化するこの世の中で、文化を次の世代に存続しようと思えば、誰かにそれをいいものだと認識させる必要がある。その人たちがまた次の若者に伝えていく。守らずしても、必要だと思う人が多いほどそれは活性化する。それは経済でも然りで、必要と不必要に世の中が再編されることを危惧して反対の声が上がっているのだと認識した。
 グローバル化は他の国の言葉を使えるようになることではなかったのだ。自分の国で培ってきた技術や知ってほしいことを世界の人たちがもっと幸せな生活を送れるように伝えることだった。
 私は自分の国のことが語れなかった。それはグローバル化した世界では人に必要とされないという意味がある。しかし、日本には日本にしかない良さがある。手先の器用さも、どん底から這い上がるガッツも、それを表に出さない謙虚さも。グローバル化している現代だからこそ、もっと日本の技術が世界にどう役に立つかという点を考えるべきではないだろうか。伝えたいと思うことが多い国こそが国際競争力なのだと定義すると、日本の競争力は世界トップクラスにもなれるのだから。
 一か月前、バイト先に来てくれていた青年は母国に帰ってしまった。最後に「またね」と言っていつもと変わらず帰った彼は、これから同じグローバル化した時代をけん引していく同志となる。「日本だけで生きていこうと思うな」そう言った父の言葉を好きに解釈していいのなら、その言葉通り私はこれからを生きる若者の一人として、この国から世界にいい影響を発信していく人間になりたい。

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