優秀賞

「節約生活を経て」

経済学部経済学科 3年次生 大島 和明

審査員講評

 今年度のテーマは省エネである。私が期待していたのは、「自ら具体的に省エネに取り組み、そこから自身の生活や社会全体、さらには将来世代への課題と、発展させて考えるようなエッセイ」である。この作品は、その期待に応えてくれた代表作の一つである。特に高い評価を与えたのは、以下の2点である。
 第一に、具体的な行動を継続して行った点である。特に図書館を大いに活用されたことは大学関係者としてうれしい。学生の本業は学業である。節電をしながら勉学が充実したなんて、素晴らしいではないか。第二に、私たちが当たり前だと思っている経済活動について、再検討の必要性を指摘している点である。確かに、個々の意識改革に加えて、手間のかかる行動へのインセンティブを与える仕組みも不可欠である。筆者の意見は、自分が行動したからこそ、説得力がある。

作品内容

「節約生活を経て」大島 和明

 あれ、故障かな。
 全ての始まりはそんな言葉からだった。エアコンを動かして二十分。いつまで経っても冷えないエアコンからの送風が気になってかざした手に生暖かい風が触れた。おかしいと思って見た設定温度は二十六度。送られてくる風は外気よりもわずかに低い程度の温風。これは故障だな、と断定したのは間もなくのことだった。
 私はもともとエアコンを自室では使わない生活をしていた。中学・高校と続けていた剣道のおかげか暑さには人一倍強くなり、幼いころから冬は雪の上で遊んでいたため寒さには強かった。私は良く言えば我慢強く、悪く言えば鈍感な体だ。昨年はエアコンを一切使用していなかったため、気づくのが遅れてしまったのだ。
 見上げれば故障しているエアコン。耳にふと飛び込むテレビからの音。それは節電の呼びかけをする関西電力のコマーシャル。私はこの時、今夏は省エネ生活をすると決めたのだった。
 如何にして節制するか。時に世間は省エネブーム。先述のことに気付いたのは現在のアパートに入居して一年半ほど経った、今年の定期テストの一週間前だった。エアコンの故障に関して気がついたのは、ちょうど正午。これから暑くなるのは目に見えている。それなら、図書館に行こう。常時空調がついている図書館は、勉強に最適な場所であり、節約するなら最適だ。そんな思考の下、私の省エネ生活は始まった。
 平日、休日ともに予定を終えたら学校や近隣の図書館に足を運ぶ。閉館時間になったらそのまま直帰。帰宅後すぐに窓を開けて換気扇をつけ、風を通し部屋の中に残っている熱気を外に出す。室内には必要最低限の物しか置いていないため、普段と違った事はわずか数点だった。
 第一に使用する物のコンセントを入れる時間を必要最低限、特定時間のみに。どうせなら徹底的にと感じ、待機電力による電力消費を無くすためにとことん追求した結果だ。一例を挙げるならば、テレビ。それまでは主電源を落としていたのだが、その日以降はコンセントを抜き、朝と夜に行われているニュース番組を視聴する以外の用途を持たないただの箱となった。
 第二に食費節約。それまで学食で食べていた昼食を弁当にした。弁当とは言っても、ただの食パンにジャムを塗ったものやチーズやハム、レタス等を挟んだ簡単なものだ。これで週1,200円ほどかかっていた昼食代を半分以下に。そして飲料水を買うことをやめ、自分でお茶を作って持っていくようになった。近くのスーパーで2Lペットボトルと500mlペットボトル合わせて買うと316円。それよりガスを使って自分で作った方がはるかに安上がりだ。一時期電子ケルトを使用していたが、電気による水の沸騰は熱効率が悪いと言われており、かつ沸騰させるまでの時間がガスより長かったため、今なお封印中である。
 第三に生活の効率化。少し大袈裟な言い方かもしれないが、要は余計なことをしない、である。夕食を作る際にだらだらとしない、不必要な電気はこまめに消す、短い時間内に何度もパソコンを立ち上げたりもOFFにしたりしないということである。若干第一に挙げた事に重なるがあえて別項にした。千里の道も一歩から。そんな考えの下行ったわずかな、だが積み重なれば大きなものとなる。その月の電気代は1300円。前月比−200円という結果になった。
 これらの行動は実家に帰った際もなるべく行うように努めていた。一人暮らしとは勝手が違うが、そこは見知った我が家。昔の感覚で放っておきそうになるのを抑え、こまめに。北陸地方の気候のためか、湿気は多く、風はあまり吹かない日々だったため、自転車で風を感じていた。
 上記の行動をしていると、意外に自分は無駄がある生活をしているのだと感じた。その必要だという行為は本当に必要なのだろうか。なんだかんだ理由をつけてただただ行っているだけではないのだろうかと。

 生活している上で、人は必ず何らかのエネルギーを使用する。だが、そのエネルギーを消費する行為は本当に必要な行為なのであろうか。東北地方太平洋沖地震発生後、福島の原発が停止、電気が足りないから協力してほしい、との広報が流れるようになった。今夏は関西電力もその呼びかけをするようになった。
 節電。漢字二文字で表される行為。それに多くの人々は喜んで協力したと考えられる。だが、それを何故今まで行わなかったのだろうか。その答えは簡単だ。その必要がないからだ。我々の住むこの日本は先進国である。物資が街を飛び交い、食料は有り余り、エネルギーを何一つ不自由なく使用することが出来る環境に住んでいる。人は一度慣れた環境から不便な生活にしようと思うことは少ない。何かきっかけがなければ、東北地方太平洋沖地震が起きなければ、我々は普段と変わらず、節電も行わない、エネルギーを大量に消費し続けていただろう。 電気の大量消費。私達はそれを前提とした社会に生まれた。様々な技術の発展により、私たちの社会は便利になった。文通からインターネットの掲示板に。電話は映像つきに。うちわからクーラーに。行灯から蛍光灯に。かまどからIHに。氷室から冷蔵庫に。オール電化の家屋に住むことが可能であるように、電気を消費して様々なことが出来るようになった。逆に言えば、それを行わなければ維持できないということになる。生活するにあたって、電気は欠かせないものとなってしまった。
 停電により発生するのは、経済活動の停止。現在、機械は電気で動くものが多く使用されている。先進国であるためにエネルギーを消費し日々新たなものを創造していく。何の惜しみもなく資源を大量に消費しながら。我々の社会は省エネを呼びかけながら大量にエネルギー及び資源を消費していく。矛盾した行いだ。 現在、活用されている資源の底はもう見えている。新たな資源の開発はされているが、それが現在の資源の代替となるものという保証はない。電気を使う際に必須となる導線に多く使われる銅は残り30年ほどしか可採年がない。アルミニウムも15年ほどで底がつくと言われている。このままいけば、我々の生活は将来的に崩壊する。そうしないためにも如何にして生き、如何にして過ごすか、それを考えていかなければならない。
 リサイクルの効率化など、実施可能でありながら行われていないことを行っていかなければならない。デポジット制を導入し回収しやすくするなど、人々に何らかのインセンティブを与え、より効率化していかなければならない。可燃物、不燃物としてゴミに出されるものの中には、いくらでも再利用可能なものが混じっている。手間がかかるからやらない、ではなく、手間がかかってもやる、という意識が必要になるだろう。
 今後私たちはどのような行動をとって行かなければならないか。その答えとして私は今夏の生活を経て、結論付けた。現在を重視するのではなく、将来を見据えて行動することが必要であると。
 確かに現在の生活を向上させるのは良いことだと考えられる。だが、未来のことを考えずにするのは意味が全く違ってくる。現在ばかりを見据えて生活し、私たちの後の世代が苦心するような未来を作り上げるのでは意味がない。後進のための道づくりが必要だと私は考えている。先代が築き上げた道を後代が受け継ぎ、より発展していく。それが理想だ。
 未来へと続く。それを実現させるために私たちは意識を変え、日々を過ごしていかなければならないと私は考えている。

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