サギタリウス賞

「近畿4大マラソン完全制覇」

文化学部 国際文化学科 4年次生 黒川 大樹

審査員講評

 募集テーマは「私がやり遂げたいこと」であったが、黒川君は表題にあるとおり、近畿4大マラソンの完全制覇をめざし、そのことをエッセイで取り上げている。その目標は、近畿地方で開催される4つのフルマラソンをすべて完走することである。同君は幼少の頃から聴覚に障害があり、小学3年の春には横紋筋融解症という一般にはあまり知られない難病に蝕まれた生い立ちを持つ。その難病は、約4年の闘病を経て完治したが、同君は心的外傷後ストレス障害となった。本学に入学し、同君は未来は自分の心構えと努力次第で変えられるかもしれないと、最も苦手なマラソンに挑戦し、指南書を読みつつトレーニングを重ね、見事に篠山ABCマラソンに出場し完走したことを瑞々しい筆致で描ききっている。与えられたテーマに対して、説得力ある描写を行い、全体的な構成も適切で、表現豊かな文章を綴っていることから、本作品は優秀賞に値すると評価できる。

作品内容

「近畿4大マラソン完全制覇」黒川 大樹

 就職氷河期と言われる中で無事に就職先も決まり、卒業を間近に控え、これからは社会人として世間の荒波に呑まれる私には今、絶対にやり遂げたい目標がある。
 それは近畿地方で開催される4つのフルマラソンをすべて完走することである。近年ますます拍車がかかっているランニングブームを受け、関西の大都市を中心にフルマラソンの大会が相次いで発足している。今年の12月には奈良で、来年の10月と11月には大阪と神戸で、再来年の3月には京都での開催が予定されている。その4つのフルマラソンをすべて完走してみたいと私は切望している。

 なぜ私がこれほどまでにマラソン競技にこだわるのか?それには私の生い立ちが深く関係してくる。運動はからっきしダメな母と、高校サッカーの大阪府選抜選手だった父との間に私は生まれた。私は幼少の頃から聴覚に障害があったが、それを補って余りあるほどの活発な子どもだったようだ。幼い時の私を知る人は皆、「クレヨンしんちゃんみたいな子で常に動きまわっていた」と口を揃えて言う。

 だが小学3年の春、私の足は横紋筋融解症に蝕まれた。最近では俳優の中尾彬さんもこの病に侵されて話題となったが、当時は一般にあまり知られていない難病であった。最悪の場合、腎不全を起こして死に至ることもあるという。私の場合は両足のふくらはぎの筋肉が融解して壊死し、歩くことはおろか、立ち上がることすらできなくなってしまった。当時の幼い私の心にはショックだったのだろうか、闘病中の記憶はほとんど残ってないが、両足の感覚が全くなくなってしまった時の生ぬるい感覚は、今でも私の脳裏に深く焼きついている。

 約4年の闘病を経て幸運にも完治したが、私の心はすっかり怯んでしまっていた。完治したと言われても、私は足が立たなかったあの時のことを鮮明に覚えている。いつまた膝から崩れ落ちるか分からない。もしかしたら運動をしたら再発するのかもしれない。そんな恐怖がPTSD――心的外傷後ストレス障害となって私に襲いかかってきた。安静にしなければいけない制約から解放されたことは確かに喜ばしいことだった。その半面、正直に言うと運動することがすごく怖くて、何もできなかったのである。

 このように最も楽しく活発な思春期を悶々と過ごしてしまったが、本学に入学して将来のキャリアプランを漠然と思い描いた時、「自分」の今までとこれからについて考える機会があった。もしかしたら私は今まで足の病気を隠れ蓑にして、自ら殻に閉じこもっていたのではないだろうか?それは食わず嫌いならぬ、やらず嫌いだったのではないだろうか?今はそれでもいいかもしれない。でももし世の中に出た時、はたして自分の苦手なことを避けても通用するような、そんな甘ったれた社会なのだろうか?絶対そんなことはない。そのような錯綜した思いが私の頭の中を駆け巡った。過去を変えることはできない。でもそれを言い訳の材料にしてはいけない。未来は自分の心構えと努力次第で変えられるかもしれない。だったら自分の心の弱さを克服するために、最も苦手なマラソンに挑戦することにしよう。

 かくして私の挑戦は幕を開けた。2回生になる春のことだった。

 とはいえ陸上競技者としての心得が全くなかった私は、まずは指南書を読みながら毎日少しずつ走ることにした。1週間に1度の頻度で長い距離を走るより、まずはランニングの習慣を身体に染み込ませるために短い距離を毎日走るほうが得策だと判断したからだ。指南書に書かれていることは陸上競技の経験者やブランクのある人が参考にすることが多い。私は全くの初心者だったので、指南書に書かれていることを鵜呑みにして全てのことを模倣するのではなく、真似できる部分だけを参考にし、極力謙虚な気持ちで自分の身の丈に合ったトレーニング方法にアレンジすることにした。背伸びして無理しても連日ハードなトレーニングばかり課していると、やがては嫌気がさしてしまう。もともと飽きっぽい私が今でも楽しくランニング生活を続けられているのも、ひとえに最初から無理強いしなかったからであろう。「決して自分の持つ力以上のトレーニングを課さない」こと。常に自分の限界以上を追い求めるアスリートとしては失格かもしれないが、長いスパンで競技を楽しむという観点においては、少なくとも間違ってはいないと私は思う。そしてこのセオリーは今後も私の教訓となり続けるだろう。

 2回生の冬シーズンに私は1ヶ月で3つのハーフマラソンを完走することを目標に掲げた。当然のことながら、周囲の反応は私の体を気遣っての否定的なものが多かった。「プロのアスリートですらもっとレースの間隔を取っている」という意見や「身体に負担がかかりすぎるのでは…」という意見など。確かにその通りだったと私も思った。しかし絶対に完走できるという意志と自信があったのも事実だ。オフシーズンも決してサボることなく着実に課題をクリアしてきた。その成果を短期間に、しかも複数の条件下で試してみたいという気持ちが強かったのである。たくさんのアドバイスに耳を傾けることは大切だが、だからといって何でも傾聴するあまり、自分の意志を曲げてしまうのは筋違いだと私は感じた。結果的には周囲の反対を押し切った形だが、3大会とも制限時間内に完走することができた。「自分で決めた目標は必ずやり遂げる」こと。またしても私の中に教訓が芽生えた出来事でもあった。

 ところで私の父は18歳で第1回の篠山ABCマラソンに出場している。若気の至りからか、舞い上がってオーバーペースになってしまい、34キロ地点でリタイアしてしまったらしい。その話を聞いているうちにいつしか父の雪辱を果たしたいと思うようになった。そして今春、ついに父の無念を30年越しで晴らす時がやってきた。私にとっても初のフルマラソン挑戦であったが、父のエピソードを知る家族や友人からたくさんの激励をもらっている手前、絶対にリタイアすることは許されなかった。父がリタイアした地点までは極力マイペースで走った。僕にとっては34キロまでの道のりが果てしなく長く感じた。いろんな思いを交錯させながら、今までに抱いたことのない感情と共に走った。34キロを通過してからは心底ホッとし、自然と心と足が軽くなったことを覚えている。後半は尻上がりにペースが上がり、市民ランナーにとっての目標である3時間台での完走を果たすことに成功した。練習時よりも55分もタイムを更新してのゴール。まさに気持ちが導いてくれたゴールだった。今までにないほどの強烈なプレッシャーを自分自身にかけ、それをはねのけて克己を果たせたことにひたすら安堵した。

 フルマラソンを完走して以降、私の心境に変化があった。これからは自分と同じ病気で闘っている人に少しでも勇気や希望を与えるために走りたい。自分のためだけではなく、人のために走りたい。もう私は以前のように打たれ弱い私ではない。打たれ弱いなんて言わせない。両親よ見てくれ、これがあなたたちの息子だ!今までさんざん心配をかけたけど、これからは私の名前「大樹」の由来通り、いざという時にこの人を頼れば大丈夫だと思われるような人間になれるよう、心の中に揺るぎない大きな樹を持つ人間になりたい。 私の挑戦はまだ始まったばかりである。

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