入賞

「人生の『あこがれ』」

経営学部 1年次生 松永 遼

審査員講評

 作者は、自分の内面に向かって深い考察を行う人なのでしょう。そのことがよく伝わって来る作品でした。ここでは、目標を持たない生活はきっと楽であるけども、目標を一つ一つ達成しながら歩んでいくことが、人生を豊かにするのに必要なことであると訴えかけられています。そのこと自体は説得力を持って表現されていたと言えるでしょう。ただし、目標は必ずしも憧れではありません。おそらくは筆者の憧れの対象の一人であるイチローが人生の目標について考えを深めることになったことの意味が、もう少し伝えられていたらもっとよくなっていたのでしょう。そうでなければイチローのくだりが不要な付け足しに見えます。その点が少し残念でした。

作品内容

「人生の『あこがれ』」松永 遼

 「あこがれ」という言葉には不思議な魅力がある。だからこそ人間は誰でも多かれ少なかれ「あこがれ」を抱いて生きているのだと思う。「あこがれ」を実際に手にする者もいれば、道半ばで挫折してしまう者もいる。世の中には人生そのものに迷ってしまう人もたくさんいる。それでも、幼いころから一心に自身の抱いた「あこがれ」という山の頂を目指し、日々の努力を怠らない人間も世間にはいる。そのような話をテレビ番組などで耳にするたびに私自身、多くのことを考えさせられる。そして、最後に必ず行きつくのは私の「あこがれ」とはいったい何なのかということである。私のこれまでの人生を振り返ってみて日々の生活の原動力になっているものはと人に問われると答えに窮してしまう自分がそこにいる。これはたいへん恥ずかしいことだと思う。「あこがれ」についてとやかく語る資格はないのかもしれない。だが、最近ようやく気付きはじめたことがある。それは自分の目標を設定し一つ一つ着実に達成していくことの意味である。これを教えてくれたのは米国大リーグで活躍されている、マリナーズのイチロー選手である。イチロー選手の日米通算2000本安打・9年連続200本安打の達成という前人未到の偉業はみなの記憶に新しいだろう。そのイチロー選手は試合後、次のように語っている。
「記録を達成していく過程が楽しかった。来季以降も200本安打を目指すことに変わりない」
この言葉にはイチロー選手だからこその重みがある。そうしたことをさらりと言ってのけるだけの影での努力に頭がさがる思いがする。きっとそこにはイチロー選手の「あこがれ」があったのだろう。

 改めて自分自身の内面に目を向けてみると新たな発見があった。自分もその節目ごとに、一つ一つ目標を乗り越えてきて今ここにいるということに。今改めて考えるとその目標は、部活動の試合であったり、定期試験だったり学園祭の準備であったのだ。すべてが順風満帆であったわけではない。迷ったこともあったし、挫折を味わったりもした。なにも大きな目標である必要はなく、一つ一つ乗り越えていくことにこそ意味があったのだと今更ながら気付くことができた。人生を迷うことなく歩むことは到底、困難なことだろう。人は悩み苦しみながら小さな一歩を踏み出す。「あこがれ」はそんな悩める私たちに与えられる唯一の光といえるのではないだろうか。たとえ小さな光でも手を伸ばすことができれば、何気ない日常に新たな彩が加わる。進むべき道を指し示してくれる。充実した日々を送っているという実感を得ることができる。しかしながら、その光を生かすも殺すも自分次第。何も行動に移せない人の前では光は瞬く間に燃え尽きてしまう。決して光が大きくなることはない。ただし、ひたすらに目の前の光に手を伸ばそうとしている人間の前の光は決して消えることはない。最後には大輪の花となって実を結ぶことだろう。

 大学に入学した今、私は新しい目標を設定しなければならない局面に立たされている。今度も決して大きい目標である必要はない。歩みを止めることなく、地道に、そして誠実に一歩を踏み出せばいいのだ。自分の心に素直になれば自然と道は開かれていくものだ。大学は具体的な「あこがれ」を見つける場なのかもしれない。大学生活四年間を通じて自分というものをしっかりと見つめなおしていきたいと思う。また、同時に己の「あこがれ」を己自身に問い続けていきたい。

 今後、世の中はますます混沌を極めていくことだろう。そんな世の中だからこそ人は「あこがれ」を持つべきだし、希望を胸に生きていかなければならないと思う。それが人生というものだ。人生に明確な答えはない。それは人間が一人一人違うからだ。背負っているものも違えば、生い立ちも違う。みなが同じ道を歩いているわけではない。人生は重要な選択であふれている。だからこそ脇道にそれても、寄り道をしてもいい。人生にはきっと無駄なことはないのだと思う。必ずそこには意味があり、失敗しようと成功しようと、それは人生の大切な糧となるに違いない。人は頭であれこれ考えてしまうが故に無意識のうちに内なる自分に目隠しをして生きているのではないだろうか。本当の気持ちに目を向けるのを恐れているのではないだろうか。それは、「あこがれ」を持つことに恐怖を抱いているということなのかもしれない。自分の手元から「あこがれ」がこぼれ落ちてしまうことを恐れているのだ。「あこがれ」と現在の自分との距離に落胆することもある。失うことを恐れるのであれば、はじめから胸に抱え込まなければよい。話はとても単純な話である。だが、それでは豊かな人生を送っているとは言い難い。世の中を本当に歩んでいるといえる人は常に自分と闘っているものだ。自分をがんじがらめにしているのは他でもない自分自身なのだ。その自分自身を解き放つことが人生の第一歩なのだろう。やがて月日を経て人生を振り返るに至ったとき、今までの人生がすばらしかったと胸をはって言えること、そう実感を込めて言える人間になることこそが私の最大の「あこがれ」である。

PAGE TOP