入賞

「病的な「純愛」」

文化学部 国際文化学科 3年次生 守口 由乃

審査員講評

 「私の好きなアーティスト」ではなく、「私の愛するアーティスト」あるいは、「私の愛する男性」と言ってもいい。一人の男として愛しているからである。しかしこれは、少しやばい。好きというよりも愛、それも純愛を過ぎて「熱愛」であり、かなり病的である。でも、現実の世界ではなく、「シュール」な世界である点に救いがある。ともかく、これほど純粋に熱愛していると、日常生活に差し支えが出ても仕方がないのではないだろうか。そんな心配が出てくるほどである。しかし、応募者は、本当に大竹一樹を「芸能人」としてではなく、「一人の男性」として愛しているのであろうか。もちろんそうではないはずである。なぜなら「かわいさ」は、愛ではないからである。

作品内容

「病的な「純愛」」守口 由乃

 私が彼と出会ったのは、中学三年生の冬であった。それは、本当に偶然としか言いようのないものだった。しかし以来私は完全に彼にはまり、それはもはや病的であると自他共に認めている。

 彼の名前は大竹一樹。今年で41歳。お笑い芸人さまぁ〜ずとして、三村マサカズとコンビを組んで20年になる。私の最愛のartistだ。

 大竹氏の最大の魅力はなんと言ってもそのかわいさにある。私は彼ほどかわいい男を見た事がない。彼を見ていると、私の心はとろけるようにうっとりする。彼にかかると、世の中に存在するものすべてが、かわいらしくなる。どこがかわいいのかといえば、私にははっきりと答える事ができない。それは彼から発するオーラだったり、しぐさだったりトータル的な魅力なのだ。

 彼のかわいさは、話し言葉にも現れている。大竹氏は語尾によく「…だからね」や、「…しちゃう」などを付け、彼の話し言葉からは標準語独特の無機質な感じや、冷たさが全く感じられない。

 大竹氏は自身のネタによく動物を持ち出すが、それもまたかわいらしさを助長させている。ここで彼のネタを紹介してもよいのだが、彼の魅力は、百聞は一見にしかず、実際見てもらったほうがわかりやすいので、割愛する。ただ一つ言えるのは、私が大竹氏を見た時に、かわいいと感じなかった事はないということだ。ではなぜ私がここまで大竹氏を溺愛するようになったのか。

 冒頭に中学三年生の冬に、「偶然出会った」と書いたが、それは完全に私目線での表記である。正しくは、「中学三年生の冬に始めて観た番組で、面白さを知った」のだ。その番組とは「内村プロデュース」(以下「内P」)である。

 私は始めて「内P」を観た時から、すっかりファンになってしまい、月曜深夜12時半から1時半は私にとってのゴールデンタイムだった。そしてその中で、異彩を放ち圧倒的に面白かったのが大竹氏であった。

 彼は確かに面白かった。どのような状況でも、確実に面白かった。そして私は「大竹氏なら確実に笑わせてくれる」という期待を抱くようになり、そして彼もまたその期待に答えてくれた。こうして彼は私のお気に入りのお笑い芸人になった。

 大竹氏に対する面白いという感情は、次第に好きという感情に変化した。そして好きという気持ちは愛しいという気持ちに成長した。そして今、愛しさはかわいいという心情になった。私は愛しさの容量があふれると、その愛情はかわいさに変わる事を知った。

 私は大竹氏のファンではない。ファンは憧れの人を「芸能人」として応援しているが、私は、彼を一人の男性として心の底から応援している。例えば、もし大竹氏に幻滅してしまうような一面があったとして、ファンなら理想と違う事にショックだし、その愛情も比例して冷めてしまうかも知れないが、私は、大竹氏にどのような一面があろうと、受け容れられる自信がある。なぜなら私は、お笑い芸人として大竹氏が好きなのではなく、一人の男性いや、人間として好きだからだ。

 これほど大竹氏が好きな私は、その他の大竹ファンの人々と同様、いつか大竹氏に会うことを夢みている。そして私はいつか彼と会える事を確信している。その根拠はどこにもないが、しいて言うなら私が(一方的に)運命を感じているからだ。

 しかし、ここで私はすごく重大な事に気づいた。そしてその事に、大竹氏に出会う前に気づいた自分を褒めてあげたい。それは出会ってからどうするかという問題だ。先にも言ったように、私はファンではない。だから直に彼が見たいだけではない。会って彼と知り合いになりたい。ならば連絡先を渡すのが先決だ。

 そこで私は、小さなカードを作った。そこには
「大竹さんへ
ほんとに、ほんとに大好きです。ただ大好きです。これからもずーっと応援しています。000-000-000・***@***」と書いてある。

 そしてこれを常時、携帯することによって、いつ大竹氏と出会っても、混乱することなく彼に連絡先を知らせる事ができる。このような行動が、私の大竹氏への愛が病的と評されているゆえんだろう。しかし私はこの案をとても誇りに思っている。こうする事によって、大竹氏に全くの負担をかけず、最も効率的に、彼と私の間にコンタクトを持つ事ができるからだ。そして、常に携帯していることは、私が彼のことをいつも頭において生活している、ということを示す証にもなっている。しかし、周りはこの行為に対して、いまいち理解に乏しい。  そしてこれがもっとも大事なところなのだが、大竹氏はartistだ。「Artist…画家、芸術家。名人、達人。(ジーニアス英和辞典)」何も、歌手や画家だけがartistとは限らない。その道を極めた人ならば、誰でもartistと呼んでよいのではないか。少なくとも大竹氏はartistの名に恥じない感性と世界観を持っている。

 その世界観とは先に述べたように、彼オリジナルのかわいさに根源を持ち、そしてネガティブで、消極的な世界だ。よく、彼の世界観は「シュール」と評されるが、「シュール」とは、本来シュルレアリスムに起源を持つ言葉で、現在においては難解なさまや、奇抜なことを指す言葉として用いられる。この意味において、彼の世界観は全く「シュール」に当てはまらない。彼の世界観は、奇抜でもないし、不可解でもない。むしろ日常の小さなことや些細な事に端を発している。しかし彼の着眼点は、明らかに、他のお笑い芸人やその他大衆とは一線を画している。その独創性には、もはや「お笑い」と言う形容詞よりも、artistの方がふさわしい。

 そしてもう一つ彼をartistとする理由がある。思うにartistとは、オリジナルの感性や世界観だけでなく、それによって、第三者を触発するような存在であるべきだと思う。大竹氏はその点においても、疑いの余地がない。なぜなら、私は彼に心酔してからというもの、その彼へのエネルギーを放出すべく、湧き上がる創作意欲が止まらないからだ。「この愛情を表現したい」その気持ちが私を、創作へと走らせる。だから今こうしてエッセイを書いているのだ。

 私は大竹氏に、人が想像する以上に心酔している。彼は、私の生きる支えだ。そしてそれは、彼でしか満たしえない。他の誰でもない大竹一樹でないとダメなのだ。この感情を「純愛」と言うのなら、大竹氏は私に「愛」を教えてくれたことになる。「愛」を伝えてくれる人をartistと呼ばずに、誰をartistと呼ぼうか。
 しかし果たして、この大竹氏への愛は「純愛」なのか、はたまた「病的」か…。

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