優秀賞

「文字で表現することの醍醐味」

法学部 法律学科 4年次生 森島 志帆

審査員講評

 読書好きですね。それも「読むこと」の醸し出す魅力に嵌っている。乙一という作家の文字を操る技にぞっこん惚れ込んでしまった。確かに、文字は、映像とは違って、読み手の想像力を掻き立てる。読み手の想像力を前提にしてしか成り立たない。漫画や映画のようにすべてを描き切るのではなく、文字を介して読み手に自由に想像力を発揮できる余地を残している。それも、学術書や解説書ではなく、物語り文学の場合はそうである。そういう点では、応募者は、読書好きというより「物語り好き」である。つまり「表現」の面白さ、醍醐味に憑かれているのである。ただ、コンテストの課題は、「私の好きなアーティスト」であったのだから、もう少し乙一の作品の中身にも触れてほしかった気がする。そうすれば、乙一作品のネタバレになり、読書の醍醐味を奪ってしまうかも知れないが。

作品内容

「文字で表現することの醍醐味」森島 志帆

 小さい頃は本を読むのが好きだった。ねずみくんのチョッキ、わかったさん・こまったさんシリーズ、かぎばあさんシリーズ…絵本や児童書は、驚きや憧れ、恐怖までも呼び起こしてくれた。

 しかし、いつの頃からかアニメやドラマ、漫画やゲームに夢中になっていった。その方が手っ取り早くておもしろかったのだ。本を読む機会といえば、夏休みの宿題である読書感想文だけだった。指定図書の中で、(まぁ、おもしろそうかな)というのを無理やり選んで、無理やり読んでいた。読んだら読んだでおもしろいけれども、時間がかかるし面倒だった。そんなことをするよりもゲームをしたいし、外で遊びたい。でも、宿題はやらないといけないと思っていたので、必要に迫られて仕方なく読んでいた。

 同じく、読書を強要される場が朝読書だ。文字を読むのは苦痛ではなく、むしろ好きだったのでしんどくはなかった。ただ、めっちゃくちゃ読みたい気分の時もあれば、読みたくない気分の時だってある。それなのに、いちいち自分が読む本を決めて絶対に読まないといけない。それが嫌だった。けれど、学校は文句を言ったところで聞き入れてくれるような場所ではないことは分かっていたし、いちいち対立するのも面倒なので、読みたくない時は本を広げてぼーっとしていた。学校の図書室にある本は、大人が望む読んでほしい本であって、下手に感動を押し付けて教訓を述べたりする、つまらないものだと思っていた。読むなら断然おもしろい漫画がいいに決まっている。

 それに加えて、私は学校や先生というものがきれいごとづくめで大嫌いだった。しかし、先生とかいった存在はどうにもならない絶対的存在で、反抗するだけ無駄だと知っていた。だから、適当に言う事に従って満足させておいて、後は自分の好きなことをやっていた。中学生かそこらの小娘に適当にあしらわれている学校って何だったのだろう。そんな私だから、その頃は専ら、大人に嫌われるであろうファンタジー小説、いわゆる挿絵が好みのライトノベルばかり読んでいた。ライトノベルだって本だし、文章には変わりないでしょう?と。今思うと、ライトノベルは小説じゃないなんて単なる大人の偏見だったと思うが、後ろめたいものを感じながら読んでいたことは確かだ。先生も文ならいい、とそこまでは言及しなかった。勝手に制度を作っておきながら、随分いい加減だと思った。そんなところも大嫌いだった。その裁量があったからこそ、好き勝手できたことは棚に上げておく。

 こんな風に、表面的に読書を楽しむフリをしていたが、そんな私にも自分から本を読もうとする転機が訪れる。それが、乙一という作家の作品との出会いだ。興味を持ったきっかけは、妹が学校から持って帰った、夏休みの本の通販だ。封筒が申し込み用紙になっており、お金をいれてもっていくのだ。その中で「夏と花火と私の死体」という、学校が推薦しそうにもない本があった。夏と花火まではわかる。そのあとの「死体」は問題だろう。あらすじを読んでみると、死体視点から話を描いているという。うーん…ファンタジーだ。なんだかおもしろそうだったので、妹に「ねぇ、これ買ってよ。」と、頼んだのだが、ホラーとか怖いものが大嫌いな妹は持って帰るのも嫌だったらしく、完全拒否されてしまった。私も自分で探しにいく程の熱意はなかったので、その時はそれきりになってしまったが、「夏と花火と私の死体」その衝撃的な題名だけが頭に残っていた。

 高校生になって、教室で本を読んでいる友達がいた。何を読んでいるのか見てみると、なんとあの「夏と花火と私の死体」ではないか!友達に即刻「貸してくれ!」と頼んだのはいうまでもない。久しぶりに、自分から読む気になった小説だった。

 「夏と花火と私の死体」の死体視点も衝撃的だったが、内容もグロい、といったらいいだろうか?PTAがみたら怒鳴り込んでくるだろうなぁ、という内容だった。こんな本を通販しようとしていた会社には、よくぞ学校に反抗してくれた、と拍手喝采を送りたい。けれども、もっと衝撃をうけたのは同時収録されていた「優子」だった。この「優子」で私は始めて「叙述トリック」のどんでん返しに出会ったのだ。叙述トリックには、いろいろな方法がある。例えば、本当は男なのに、わざと読者には女と思わせるのもそうだ。とにかく、作者は文字を巧みに操った文章で読者を騙すのだ。現実に騙された時は腹がたつのに、小説の中で騙されるのはすっきりするから不思議だ。むしろ、騙されないとおもしろくない。しかし、騙された、といっても嘘はついてない。書いていないだけだ。いや、誤認させるように書いているだけだ。読者の先入観を利用した叙述トリック。詳しく書くとネタバレになって楽しみを奪うことになってしまうので、説明できないのが残念だ。しかし、これぞ、文字の魅せる技だ。まさしく、文字を操るアーティストだ!

 それから乙一にハマってしまった私は、驚きを求めて乙一の作品を読み漁った。そこには叙述トリックと併せて、更なる驚きがあった。あの衝撃的な作品を書いた乙一は当時16歳だったということ、同一人物が書いたとは思えないくらい、かわいくて切ない話も書くこと…。悉く裏切られ続けた。期待通りの裏切りの連続だ。

 乙一の作品に出会えて、私は文字だからこそおもしろい世界を知った。そこには本を読む意義がある。それからは定期的に本屋に寄って、乙一の作品が出てないかチェックもすれば、新刊をざっと見て、おもしろい作品はないか探すようになった。誰に言われるでもなく、自分から本を探して通学途中に読むようになった。相変わらず、現実世界に則したもの…新書などはあまりよまないけれど。それらは、文字で残す必要はあっても、文字で表現する必要性はあまりないと思っている。講義で話したって内容はかわらない。でも、物語は違う。文字で表現するからこそ、意味がある。語ると違うものになる、映像だと違うものになる。それに気づくきっかけになったのは乙一だ。文字だから好きな映像を自分で描ける、心の中も文字で描写される、好きな声でしゃべる、見たくないシーンは省くことだってできる。作者に支配、誘導されている世界なのに、自分が主体になれる。主体になっているから、叙述トリックにひっかかる。 文字では現実を描く必要はない。はちゃめちゃな設定だっていい。なんだって許される世界だ。それだけなら、今でも大好きな漫画や映画も同じだ。でも、一人ひとり、主体になって描けるのは文字だけだ。文字だからこそ、描ける世界がある。私はそんな世界が好きだから、今でも暇があればついつい書店をうろうろしてしまう。大型書店に放っておけば、ゆうに一時間以上滞在できるくらいに。この場合、漫画もチェックしているが。

 乙一の作品は本を再び好きになるきっかけを与えてくれ、文字の世界の楽しみを教えてくれた。朝読書の目的だった気がする、想像力を養うためじゃない。目で文字を楽しみ、頭で画を描き、ページをめくる手で物語を追い、驚きを楽しむ。これが、読書の醍醐味であり、人が本を読み続け、作品を残してきた理由なのではないだろうか。

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