優秀賞

「人が生きなければならない理由。」

経営学部 ソーシャル・マネジメント学科 2年次生 北井 康太郎

審査員講評

 人はなぜ、生きていかなくてはならないのか。筆者が重松清の著書から受け取った問題であり答えでもある。筆者は中学生の頃、自我に目覚めようとしていた自分から逃避していた。それを気付かせてくれたのが、重松清の著書であった。エッセイではその著書との出会いを生き生きと表現しているので、読者に伝わるものがある。
 筆者は「死んでいたとしても、心にずっと居続ける人」になっているのか、今もわからないという。望むらくは、エッセイでは重松清のメッセージを伝えるだけでなく、中学3年生から現在までの自分の生き様をさらけ出してほしかった。それがタイトルの「人が生きなければならない理由」となるからである。つまり「心にずっと居続ける人」に近づいたのかどうかの記述こそが、エッセイに説得力をもたせることになると思われる。

作品内容

「人が生きなければならない理由。」北井 康太郎

 私が初めてその人物と出会ったのは中学3年生の時だった。父が仕事帰りに買ってきた一冊の小説は、15歳の私の心を揺るがすには十分な内容であった。その作品のタイトルは『流星ワゴン』。それが、私の好きな、いや、最も敬愛するアーティスト、重松清との出会いであった。それまで私は、本を読むこと自体は好きだったものの、長編小説を読み切ったことはなかった。しかし、重松清の綴っていく言葉達は、そんな私をすぐに魅了していった。父に借りた『流星ワゴン』を一晩で読み切り、一睡もせぬまま当時通っていた中学校へ登校した。そしてすぐに図書館へと向かい、重松清と書いてある本を隅から隅まで読みつくし、一週間もせぬ間に、すべての作品を読みつくしてしまったのだ。まだまだ読み足りない。もっと無いのか。そう思っていた時に、ついに私の人生観を変えることになる本と出会ったのだ。それまで読んでいた書籍はすべて、背表紙が黄緑色だったのだが、それは背表紙が白だったので、存在に気付かなかったのである。『舞姫通信』。私にとってのバイブルは、間違いなくこの本だ。

 人はなぜ、生きていなくてはならないのか。中学生の頃、私はこの答えをずっと、探し続けていた。別に自殺願望があったわけではないし、人生を諦めていたわけでもない。ただ、生きていなくてはならない理由を、持ち合わせていなかったのだ。確かに夢はあった。だが、そうだとしても、その役目を果たす人物が、自分でなくてはならない理由が見つからなかった。今ここにいる自分が、まったく別の人間だったとしても、誰一人として困る人間はいないと、考えてしまっていたのだ。頭がおかしいのか、と言われれば、それを否定することはなかっただろうし、その通りだよ、と言われれば、やはりそうか、と、漠然と思っていたのだろう。ただ当時の自分は、そんなことを考えている自分が、怖くて、怖くて、仕方なかった。そんなことを考えているのは自分だけだ、必要とされていないのは、自分だけだ。そう思っていると、誰にも相談することができなかった。そんな私の暗闇に、一気に明かりをもたらしてくれたわけではないにしても、一筋の光を差し込んでくれたのが、この『舞姫通信』なのである。

 『舞姫通信』の中に、こんなフレーズがある。

 「生きることと、“いる”こと。死ぬことと、“いないこと”。それは絶対に違う。」

 まさに、当時私が抱いていた悩みをギュッと詰め込んだようなフレーズだった。生きているからそこにいる。死んでいるからそこにいない。これは絶対に間違っていることで、生きていても“いない”と同等の人間はたくさんいる。逆に、死んでいたとしても、心にずっと居続ける人もたくさん“いる”。後者のような存在になれば、自分は他の誰でもなく、自分でなくてはならなかったのだと、胸を張って言える人生になるのだろう。だが、前者の生き方をすれば、きっと、後者にはたどり着けない。では自分はどうなのか。それは、今でも考えるのが怖い、と言うよりも、もう答えはわかっているのだ。しかしそれは絶対に認めたくはないし、認めてはいけないと思っている。『舞姫通信』の中の、死ぬことを求めている若者と、評論家たちの、生死の語り合いのシーンにおいて、こんなフレーズがある。

 「ゴール(死)までの過程を充実させることが目的」

 この評論家のセリフに対し、死を求める若者はこう答える。

 「僕は、ゴールインの瞬間を充実させたいんです。それを目的にします。」

 私は、この若者の強さに、とても惹かれるものを感じた。しかし、私の答えは彼とは違った。先に書いた、「生きていても“いない”と同等の人間」の部類に、現時点の自分が入ってしまっているとしても、私は、「死んでいたとしても、心にずっと居続ける人」になりたいと思ったし、そしてそれこそが、私の「ゴール(死)までの過程を充実させる目的」なのだと思った。こう思えるようになったのは、生きてきた歳月の影響なのかもしれない。だが、そのきっかけを作ってくれたのは、紛れもなく『舞姫通信』なのである。  私は「死んでいたとしても、心にずっと居続ける人」に、近付くことができているのか。それともずっと足踏みを続けているのか。それは、今の私にはわからない。しかし、中学3年生の頃の、一人の小説家と、一冊の小説との出会いのおかげで、生きる目的を手に入れた。初めに書いた言い方を使えば、生きていなくてはならない理由を見つけた、とも言える。それだけでも、大きな一歩なのだと、私は思う。

 重松清が綴っていく言葉達には、重松清の命が、想いが、宿っている。もしかすると、重松清も、私と同じ悩みを抱えていたのかもしれない。もしそうだとすれば、重松清に伝えたい。あなたがいつか亡くなっても、あなたは私の、「死んでいたとしても、心にずっと居続ける人」なのだと。そして私もきっと、誰かの、「死んでいたとしても、心にずっと居続ける人」になってみせよう。あなたの命と想いを受け継いだものとして。

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