サギタリウス賞

「山月記 〜私を支えてくれている小説〜」

外国語学部 英米語学科 1年次生 鳥越 尚吾(とりごえ しょうご)

審査員講評

 誰もが高校時代に一度は学んだことがある中島敦の『山月記』。国語の先生の音読を通じてこの短編小説の流れるような格調高い名文に感激したことがある人も多いと思います。しかしこのエッセイを書いた著者は、この作品に出会うことで今の自分を支えてくれている小説になったといいます。著者は、この小説に出会うまでは李徴と同じ心境に陥っていたことから、李徴の心情を説明する先生の言葉のひとつひとつが胸に突き刺さってきたと述べています。普通であれば自然に聞き流すコトバが、そのときの心境によって自分を変えるほどの言葉にもなることを改めて感じました。本来のプライドと傲慢や尊大とは違うものであり、これからも自分の長所であるプライドの高さは大切にしたいという気持ちは大切です。高いプライドは高い志でもあり壮大な夢やビジョンでもあります。我々もつねに自分は虎になっていないかを自問し、もしその兆候があるのなら、もう一度自分を問い直してみるという心掛けは大切にしたいものです。

作品内容

「山月記 〜私を支えてくれている小説〜」鳥越 尚吾

 私が高校2年生だった頃、ある日の現代文の授業中だった。担当の先生が、その日から新しく取り上げられた教材の小説を朗読していた。私は現代文には多少の自信があるため、普段はさほど真剣に現代文の授業を聞いていなかったのだが、その日ばかりは違った。私は、先生が朗読していたその小説に釘付けになっていたのだ。先生が教科書を読み終え、作品についての説明が始まった後でも、私は授業そっちのけで、何度もそれを読み返していた。その小説の題名は「山月記」といった。

 「山月記」は中島敦という作家が執筆した、昔の中国を舞台にした、短編小説である。物語の主人公、李徴は非常に才能に恵まれた人物であり、若くして官職に就く。それだけでも、他人から見れば十分尊敬に値することなのだが、高すぎる自尊心故に、それでも自分の地位に満足できず、詩人として名を成そうと、退職して修行する。しかし、詩作は思うようにいかず、結局挫折。元の職に復帰するが、その職場には、かつて李徴が見下していた、かつての同期たちが出世した姿があった。当時は、歯牙にも掛けなかった連中よりも、下の職にしか就くことが出来ないという現実は、李徴にとって屈辱以外の何物でもなかった。激しく自尊心を傷つけられた彼は遂に発狂し、失踪。なんと、李徴は自尊心が肥大化し、山中で虎になってしまっていたのだ。そして1年後、彼は虎の姿でかつての友人と再会する、という物語である。高校教育の教材としては、ポピュラーな作品なので、高校時代に習ったことがある、という人も多いのではないだろうか。ここまで書いたら大方予想もつくかもしれない。そう、私自身も李徴と同じように、非常に自尊心の高い人間なのである。

 今思うと、とてもつまらないことだ。今でこそ、こう思うことが出来るが、当時の私は、まだまだ精神的に未熟だったのだろう。私は内申書の点数が悪かったため、第一志望の公立高校の受験を断念した。私が受験したのは、私の学力では楽に合格出来ると思われる高校だった。私はその高校の入試に合格し、もちろん入学も果たすが、第一志望の高校への未練と、自分の小さなプライドが邪魔し、すぐに腐ってしまった。「自分はこんな奴等とは違うのだ。」「自分のいるべき場所は、ここではない。」こんなことばかり思って、自分の殻に閉じこもったままの日々。当時の私は、そう思って、周囲を見下すことが、自分のプライドを守り、そしてそれは自分を高めることに繋がると、本気で思っていたのだ。当時の自分が、本当に情けなく思う。当然、そのような気持ちを抱いたままで、高校生活が上手くいくはずが無い。私は、クラスに馴染めないのはもちろんのこと、本来ならば、好成績を残さなければならないはずの、勉強面でも目立った成績を残すことが出来なかった。部活動に参加していたので、最低限の人間関係や、仲の良い友達はいたが、クラスでは、本当に気の合う人以外との交流は、出来るだけ避けていた。結局私は、高校1年生のクラスでは、最後までクラスメートにろくに馴染むことなく、高校生活最初の1年を終えることになった。さすがに、2年生になると、少しは反省し、1年生の頃よりは、いくらかクラスに馴染む努力をするようにはなっていたが、やはり、昨年の気持ちを引きずっていたこともあり、お世辞にも順調な高校生活とは言えなかった。私が「山月記」に出会ったのは、ちょうどそんな頃である。

 授業中、先生の李徴の心情を説明する言葉のひとつひとつが、私の胸に突き刺さる。まるで自分自身のことを言われているようだった。李徴は、詩の世界で名を成そうと思いながら、師に就くことや、他の詩人と交流し、切磋琢磨することを避けた。彼は自分の詩人としての才能を、半ば信じていたため、凡人達と関わる必要は無い、という自負があったのだ。だが、その一方で、彼は他の詩人と交流することで、本当は、自分の才能が欠如しているかもしれない、ということが周囲に暴露してしまうことを恐れていた。その矛盾する李徴の心境を、彼は自分で、『臆病な自尊心』、『尊大な羞恥心』と呼んでいた。彼はその気持ちを自分の心に飼い太らせ、遂にはそんな彼自身の内面に相応しい外面、つまりは虎に変わってしまった、と解釈している。私にはそんな李徴の気持ちが痛いほどよくわかり、そして同時に、自分を恥ずかしく思った。高校1年生の頃、私は李徴と同じ心境に陥っていたということに、初めて気づくことが出来たのだ。私も、周囲の人間よりも、自分は勉強が出来る人間だ、という自負はあったが、同時に、実際は周りと自分とに、大した差は無い、という事実が判明することに、恐れを抱いていた。そして李徴と同じように、私も周囲の友達と一緒に勉強したり、わからないところを質問したりすることは、決してしなかった。正しく『臆病な自尊心』と、『尊大な羞恥心』の塊だった。結局、李徴が詩作で大成することがなかったのと同じように、私も1年生の頃、勉強面で、良い成績を残すことが出来なかった。当時のクラスメート達は、私を一体どんな目で見ていたのであろうか。今となっては知る由は無いが、少なくとも、滑稽なものに写っていたであろう。虎になってしまった李徴は、私の未来の姿を象徴しているように思えた。私自身が虎に変わってしまうことは無くても、このままでは、何か取り返しのつかないことになるだろうということは、当時の私にもわかった。

 「山月記」に出会って、私は変わった。以前と比べれば、随分と周囲に溶け込もうと努力したし、そこから先の高校生活は、それまでのものとは比べ物にならないほど楽しいものとなった。そして何より、プライドとは、周囲を見下し、自分を高めるものではなく、自分の努力によって、高めた自分を誇るものだ、ということを、改めて私に教えてくれた。もしも私が、この作品に出会っていなかったら、私は未だに『臆病な自尊心』と、『尊大な羞恥心』を持ち続けた、つまらない人間のままだったかもしれない。自分の殻に閉じこもったままだったかもしれない。そして、高校1年生の頃よりも、更に周囲から孤立し、性格は歪んでいたかもしれない。そう思うと、私にとって「山月記」という作品との出会いは、今の私を支えるものとして、非常に大切なものなのだ。今でも、自分が傲慢な気持ちになってしまった時には、「山月記」を読み返すことにしている。

 ただ、私は自分自身が、プライドが高い人間である、ということに関しては、特に問題意識を抱いてはいない。むしろ、そこは長所であると考えている。かつての私は、プライドというものを勘違いしていた。私はただ傲慢で、尊大なだけであった。しかし、今は違う。私は、「山月記」に出会い、本当の自尊心と言うものを知った。今、私は自分の高いプライドに見合うほど、立派な人間になりたい、と思っている。曖昧で、具体性の無い夢ではあるが、叶えるのは困難な夢だ。今の私では、遠く及ばないし、一生かかっても叶うことはないのかもしれない。しかし、努力する価値はある目標だ。こんな素晴らしい夢を持つことが出来たのも、「山月記」との出会いがあってこそだと、改めて思う。私は、この作品との出会いを、一生忘れることはないだろう。

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