サギタリウス賞

「最初で最後の手紙」

法学部 法律学科 4年次生 木村 純子(きむら じゅんこ)

審査員講評

 大好きな父の死から13年後の最初で最後の手紙、これまで素直に出せなかった感謝の気持ちがエッセイの隅々から伝わってくる。また母や姉や兄から支えてもらった多くのことを思い出しながら、無理をせずにゆっくりと強い人間になりたいと宣言している。父の死は一瞬のものでも、その死と向き合うことは永遠に続くという文脈からは、願っても願っても叶うことのない死の残酷さを全身で受け止めようとする気持ちが伺える。自分と真正面に向き合うことが少なくなった今日、これまで周りの人々に支えられてきた過去を振り返り、身近な人に自分の弱さを見せてもいいと素直に感じることができるようになったと告白する著者に、がんばれと心からのエールを贈りたい。

作品内容

「最初で最後の手紙」木村 純子

お父さんへ

 時が経つのは早いものでお父さんに会えなくなって13年が過ぎようとしています。「お父さん」と呼ぶのもなんだか少し照れくさい気がします。手紙なんて書いた事なかったけど私の思いが少しでも届けばいいなと思って書いています。そちらの世界はどうですか?時々は上から私を見て心配したり怒ったり笑ったりしているのでしょうか。それとも、いつも近くで見守っていてくれているのかな。とても気になります。

 お父さん、私はどんな子でしたか?お父さんがいなくなった後の私は少し変わったのかもしれません。強くなろうとしたのだと思います。お父さんがいなくなってから少したった時に、私はお姉ちゃんに「いつまでも泣いていても仕方ない」っていうような事を言いました。しばらく悲しみ続けていたお姉ちゃんにとっては私の言葉は冷たく聞こえたかもしれません。悲しさを素直に面に出すことができるお姉ちゃんは羨ましかったです。私はそれが、いつのまにかできなくなっていたから。それから中学生になっても、高校生になっても、それは変わりませんでした。人前で泣くのが嫌だったし人に弱さを見せるのも嫌だった。父親の話をしている友達を見るのが嫌だった。だって羨ましかったから。お父さんの事聞かれて亡くなった事を話するのが嫌だった。平気な顔で話できる程、強くなかったから。泣きそうな顔、見られたくないから我慢してた。それに、話した後はみんなきまずそうに「ごめん」って言うから・・・。それを言われるのも嫌だった。「ごめん」って気を遣わせて「ごめん」って感じ。必死で涙こらえていた。誰かにお父さんの話するたび泣きそうになる自分が嫌だった。強くならないといけないって思ってた。でもお父さん、本当はすごく寂しかった。寂しいって言いたかったよ。

 少し前までの私は、自分の気持ちをごまかして、人に弱みを見せない事が強くなる事だって思っていました。でも、それは強さではなくて、ただの強がりなのだと気付きました。大人のふりをしていたけれど本当は寂しくて仕方がない子供だったのです。その事に気が付いてから、身近な人には弱さを見せてもいいのだと思うようになりました。無理をせず、ゆっくりと強い人間になりたいと思います。とはいっても、本当に強くなるという意味の答えはまだ探している途中です。これは人それぞれ答えが違うのかもしれませんね。

 お父さんがいなくなってから、お母さんは、たくましくなったと思います。誰よりも辛かったはずなのに。20年以上もずっと一緒にいて隣にいるのが当たり前だったお父さんと急に会えなくなったのだから、それは私の想像以上の悲しみだったに違いありません。一家の主を亡くしたのに3人の子供を育てていかなければいけないって状況だったから、自分がしっかりしないといけないって思ったのでしょうね。母は強し、です。 でもね、お父さん。お父さんが亡くなった瞬間、お母さんが床に泣き崩れた姿は今でも忘れられません。見ていられませんでした。私も恐かった。お父さんの呼吸がだんだん遅くなっていくのがわかったから。わけもわからず、ただ泣くしかなかった。私はまだ子供だったけど、お父さんにもう会えなくなる事はわかっていたから。おばあちゃんも、お姉ちゃんも、いっぱい泣いた。でも、お兄ちゃんは「俺は絶対泣かへんからな」って最後まで泣かなかった。必死にこらえていたのだと思います。きっとこれから、自分が父親代わりになって家族を守っていくって思ったんじゃないかな。

 最後の日を家族みんなでお父さんを看取る事ができて私達家族は良かったって思っています。でもお父さんは?お父さんも良かったって思ってくれているのかな?そうだと良いのに。でもお父さんは私達に見守られていても、きっとものすごく恐かったのだと思います。昔、病院で一度だけお父さんが泣いているのを見たことがあります。恐くて恐くてたまらなかったのでしょう。お父さんの弱い部分を初めて見たような気がしました。入退院を繰り返していたあの頃、私の知らない所でずっと長い間死への恐怖と戦っていたのですね。ずっと気付いてあげられなかったね。私がお見舞いに行ったらお父さんいつも笑ってくれたから。そして私が帰る時、いつもお小遣いくれたよね。それが嬉しくてお見舞いに行っていたような気がします。でもお父さんが毎回のようにお小遣いをくれた理由は、きっとまた私にお見舞いに来て欲しかったからではないですか?あの時は単純に喜んでいたけれど最近そう思うようになりました。お母さんが言っていました。お父さんがいなくなってからも、がんばって生きてこられたのは子供達がいたからだって。恐怖と戦っていたあの時のお父さんにとって、私の存在が少しでも希望や支えになっていたのなら嬉しいです。 でも一つお父さんに謝らなければならない事があります。本当に最後のお別れの日、私はお父さんに触れる事ができませんでした。亡くなった人は冷たくなると聞きます。だからお父さんに触れる勇気が無かったのです。お父さんに永遠に会えなくなる事は頭では理解していたけれど、触れてしまうと嫌でも直面してしまうと思ったから。それが恐かった。ごめんなさい。最後なのに娘に触ってもらえなくてお父さん寂しかったよね。

 今でも、お父さんの事をよく考えます。お父さんがいる食卓はどんな感じだったのだろう?私はどんな風に褒められて、どんな風に怒られていたのかな?どんな話をしていた?私の事、愛してた?お父さんが側にいない事に慣れてしまったので、お父さんとどんな風に過ごしていたのか、ぼんやりとしか思い出せません。こんな事なら、もっと一緒にいる時間を噛みしめておけばよかった。でも、あの頃はお父さんを失うなんて思ってなかったから、居るのが普通だったから。失ったからこそ、大事な想いを見つけられたのだと思います。だけど、私はまだ寂しがり屋なので、ふとした時にお父さんがいてくれたらいいのに、って考えてしまいます。お父さんが恋しい。お父さんに会いたい。会って話がしたい。でもそれをどんなに願っても叶う事がない「死」は残酷です。「死」は一瞬のものでも、「死と向き合う」ことはきっと継続的に続くのですね。

 その後、お父さんと同じ職業についたお兄ちゃんは結婚式の時に、「仕事の相談もして一緒にお酒飲みたかった」って言っていました。私も成人式の時、お父さんに、こんなに大きくなったよって振り袖姿見せてあげたかった。お姉ちゃんも花嫁姿を見せたかったと思います。きっと家族みんなが、様々な場面でお父さんを想っています。だから安心してください。みんなお父さんが大好きでいつまでも忘れる事はないから。

 私も、もう24歳になりました。ちょうどお父さんとお母さんが結婚した年齢ですね。二人がどんな風に恋をして結婚する事になったのか、お母さんに聞いてもあいまいにしか教えてくれません。恥ずかしいのかな。きっと色んな景色を一緒に見て、一緒に色んな事を感じて、色んな話をして愛を育んでいったのでしょうね。そんな若い二人を想像してみると不思議な感じがしますが面白いです。お父さん、人生のパートナーにお母さんを選んだのは大正解だったと思います。だって、私はまだまだ頼りないから母親にはなれないけれど、でもいつか母親になった時、お母さんみたいになりたいって思うもん。娘にそう思われる母親って最高の母親って事だと思いませんか?

お父さん、お母さんと出会ってくれて、ありがとう。
お父さん、私にお姉ちゃんとお兄ちゃんを与えてくれて、ありがとう。
お父さん、私のお父さんになってくれて、ありがとう

お父さんは幸せでしたか?

P.S.アルバムを見ていたら、一枚の写真を見つけました。写真ではあまり笑わないお父さんが、まだ小さい私を優しい笑顔で見つめていました。私は愛されていたのですね。

お父さんの娘より。

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