入賞

「世界経済を支えるビジネスパーソンになる」

経済学部経済学科4年次 岡田 直樹(おかだ なおき)

審査員講評

 これまでのキャリアを振り返るとき、誰もが沈思黙考しながらキャリアをデザインすることよりも、むしろ出会いやきっかけが大きく影響していることに気づく。またキャリア発達の過程で大きな影響を与える出会いやきっかけは、偶発的要素が強いことも多い。筆者の大学生活で、大きなきっかけを作ってくれたのは国際交流会館入寮、パーティでの留学生との会話、アントレプレナー養成プログラム生徒募集の張り紙、アメリカ滞在中の友人からの手紙、などいずれも偶発的出会いであり、こうした出会いがその後の大学生活を決定づけている。ただこうした出会いを活かすかどうかは、当事者の内的な精神状態如何である。筆者のエッセイの底に脈々と流れているのは、つねに「〜したい」「〜になりたい」という未来に向けての積極性であり、現状を変えようとする力強い熱意である。こうした積極性や熱意が、出会いを単なる一過性に終わらせず、キャリア形成の原動力に変えることに繋がるのだろう。これからも多くの出会いを活かしながら、「世界経済を支えるビジネスパーソン」というキャリアプランを一途一歩実現していってほしい。

作品内容

「世界経済を支えるビジネスパーソンになる」 岡田 直樹

 〜はじめに〜
 私が京都産業大学に入学してもう4年と6ヶ月が過ぎようとしている。私が大学に4年以上在籍しているのは単位が足りなかったからという理由では無く、一年間休学をしてアメリカへ留学したからである。4年6ヶ月前の私は自分が大学生活で留学をすることになるとは夢にも思わなかった。その中でも留学するきっかけを私に与えてくれたのは大学2回生時に入寮した「京都産業大学 国際交流会館」での生活である。そこでの生活の中で私は世界へ視野を広げることができるようになった。来年私は日本のグローバル企業で働かせて頂くことになっている。これからは日本そして世界経済を支えるビジネスパーソンとして活躍していきたいと思う。

 〜京都産業大学との出会い〜
 私が京都産業大学に進学を決めたのは本当に単純なものだった。高校3年生当時から私は実家がある広島の大学ではなく、他府県の親から離れた場所で生活したいと考えていた。そしてその当時好きだった女性が関西の専門学校へ行くという事を聞き、自分も関西の大学の一つに入学したいと思うようになった。

 京都産業大学は私にとって非常に魅力的な大学であった。それは「一つのキャンパス」であったことと、「自然に囲まれた大学」であったことである。まず京都産業大学の7学部14学科が一つのキャンパスに集中していることであった。全く違った学部の仲間と一緒に勉強できる京都産業大学は私にとって憧れであった。そして私は最初に大学のパンフレットを見た時にこのような自然の豊なキャンパスで勉強できるとはなんて贅沢なのだろうと思った。そして縁あって京都産業大学の経済学部1回生として入学することになった。

 〜人生最大のチャレンジ〜
 私の人生が180度転換したきっかけを作ってくれたのが「京都産業大学 国際交流会館」入寮だった。私が1回生の時に男子学生寮の「追分寮」に住んでいた時から、隣接している留学生や海外からの研究者を対象とした寮である国際交流会館には興味があった。興味があったといっても実際に留学生と話したりすることは無く、ただ外国人の学生が横を通りすぎるのをただ眺めていただけだった。
 転換期になったのは、寮生活が終わりに近づいた10月に大学内の掲示板で「国際交流会館の日本人入寮者募集」の案内を見つけた時だった。今まで大学に入って授業とクラブしか力を注いでこなかった自分にとって国際交流会館への入寮は「チャレンジ」以外の何ものでも無かった。私はこれまで日本人以外の人間とはほとんど話したことが無かった。これが自分の視野を広げる大きな一歩になるだろうと思い入寮を希望した。何十人もの応募者の中から、幸運にも6人の中の1人として「国際交流会館の日本人入寮者」になることができた。入寮した最初の日に国際交流会館内の部屋に留学生と日本人入寮者が集められた。皆が一人ずつ自己紹介をした時に様々な国の人々がここに住んでいることを知ることになった。当時の私には今でもその風景が脳裏に焼きついている程衝撃的だった。

 〜英語を勉強するきっかけになったある出来事〜
 入寮してから半年が経ったある日のことだった。国際交流会館で開かれていたパーティーで私が留学生達と話していた時に、ふと思ったことがあった。「私は彼らと今こうして日本語を通して語り合い、今では親友になることができた。しかし世界には日本語を話せない人達がどれ程いるのだろう。その人達ともこうして言葉の壁を越えて語り合いたい、そして一緒に笑い、一緒に泣きたい。それなら私はどうしたら良いのだろうか?」。私は自問自答を繰り返し一つの結論に達することができた。それは「世界共通語である英語を話せるようになる。」ということだった。世界には英語が話せる人が10億人以上いると言われている。その中でその人々と英語を通して語り合いたいという夢ができたのである。それからは自分の中に「2年以内に英語を話せるようになる」という目標ができた。その当時の私にとってはエベレストの山を登るような「チャレンジ」であった。

 〜目標の達成に向かい努力する日々〜
 この目標を達成するために私は毎日英語勉強を始めることにした。そして私は語学を習得するには外国に留学することが必要だと考えた結果、来年には外国へ留学しようと強く感じるようになった。しかし何も話せない状況で留学しても全く意味が無い、もしくは上達が遅いということを留学経験者の知り合いから聞かせてもらっていたので自分に「一つの誓い」をたてて紙に書いた。英語圏の国の大学に留学を目指す人の能力を測るTOEFLという英語テストがある。そのテストで自分が掲げた目標点(TOEFL 500)を取れなければ留学は絶対にしないと自分に誓ったのである。そうでもしなければ留学資金を援助してくれる両親にも申し訳ないと考えたし、私は追い込まれると能力を発揮できる人間だと信じていたからである。

 それからというものほぼ毎日大学の授業を午前9時から午後4時半まで受け、帰宅してからは夜12時まで英語勉強を1年間続けた。土曜日、日曜日などの休みの日はホテルで留学資金集めのために毎週一所懸命に働いた。私にとって「世界中の人達と語り合い、一緒に笑い、一緒に泣ける友達を作る。」という確固たる目的を持っていたためにどんなに辛い日があっても勉強を続けることができたし、アルバイトも続けることができた。

 1年後には目標としていた点をはるかに超え、TOEFLでは英語圏の大学へ正規入学ができるくらいのレベルまで上がることができた。京都産業大学へ留学していたアメリカ人留学生の助けがあり、日常会話も問題無いレベルにも達した。あとは大学へ留学して専門を1年間勉強するか、それとも語学学校で英語のスキルを磨くかと迷う日々が続いていた。迷う日々が続いたある日、幸運が私を訪れてくれた。

 〜アントレプレナー養成プログラム生徒募集〜
 それは私が授業を終え大学内を歩いていた時のこと、留学関係の掲示板に一つの大きな張り紙を見つけた。そこには「アントレプレナー養成プログラム生徒募集」と書いてあった。「アントレプレナー」というのは「起業家」という日本語訳になるが、当時の私には本来ならその意味は分からなかったに違いない。しかし私はその言葉に釘付けになった。なぜなら一週間ほど前にR−CAPという適職検査で私の最も適している職が「アントレプレナー」であったからだ。留学プログラムの内容はというと5ヶ月の語学学校での英語勉強に加え実際に現地の起業家の方と一緒にビジネスプランを練りあげる。そしてその後には3ヶ月の海外インターシップを通して現地での就業体験ができるといったもので私には非常に魅力的なプログラムに思えた。そして「アントレプレナー」という言葉に運命を感じた私はその場で電話をし、とりあえず仮申し込みを済ませた。私にはそうしなければならないような気がしていたからだ。この事を両親に話すと、直樹の好きなようにして良い、と言ってくれた。私の思いを真剣に受け止め、信じてくれた両親には今でも本当に感謝している。

 2003年の4月から私は京都産業大学を休学し、アメリカのカリフォルニア大学サンタクルーズ校エクステンションという大学付属の語学学校へ所属した。そこでは1年間の日本での英語勉強の成果があったのか語学学校の中では一番上のクラスへ入る事が出来た。私のクラスメートの多くはこの語学学校を終了時に大学への入学が決まっているフルブライト奨学生達であった。日々の生活の中で世界中から来た国籍が違う人達と語り合うのは本当に刺激的だった。一緒に勉強し、遊び、踊り、笑い、泣く日々は私の人生の中で本当にかけがえのない宝物である。このような日々を送る中で私が英語を勉強すると決心した時に目標と掲げていた「世界中の人達と語り合い、一緒に笑い、一緒に泣ける友達を作る。」が達成されていることに気付いた時は本当に感動的であった。

 〜堀場製作所との出会い〜
 私は今年2004年の1月に就職活動のためにアメリカから9ヶ月の留学を無事に終え帰国した。留学中も就職については時折友人達と語っていたが、自分の中で一つだけ絶対に譲れないものがあった。それは「日本の企業で働くこと」である。外国で生活をする上で意識してきたこと、または意識させられたことは「私は日本人である。」ということだった。私は外国での生活を通してそれをより深く感じるようになった。私は英語が話せる日本人の一人として自分の能力を日本のために使いたいと考えるようになった。そうした思いの中で出会ったのが「堀場製作所」である。堀場製作所は京都に本社がある分析機器を作っているメーカーで世界に20カ国も事業所がある。グループを合わせると3800人規模の会社である。この会社のことはアメリカ滞在時に友人からの手紙の中で偶然に知ることになった。「本当に働きたかった堀場製作所には落ちたけど、その子会社のエステックで働くことになりました。」という文面で私は初めて堀場製作所の名前を知った。もしその友人の手紙が無かったのなら興味を持ち、ここで働きたいと思うことはまずなかったと思う。堀場製作所には自分の能力を存分に活かすことができる世界の舞台が揃っている。私は日本でまず数年間働き社会人としての基盤をしっかりと学ぼうと思っている。そして将来的には外国の事業所で働き日本と中国、アメリカ、ヨーロッパなどの国々との掛け橋になりたいと考えている。

 〜終わりに〜
 私は日本の企業で働くことでこれからの日本そして世界を支えていく人間の一人になりたいと強く思っている。私が企業の自社製品を世界中へ届け、全ての人々の生活を豊かにするために一生懸命働こうと思う。そして来年から自分が働くことで納められる税金も日本のため、そしてJICA(国際協力機構)などを通じて世界のために使われることになるのでそういった面での社会貢献もできる。こうして考えると自分が働くこと自体が日本だけではなく世界への社会貢献に繋がることになる。これからの日本、そして世界を支える若者の一人として、そして「京産大スピリット」を持った一卒業生としてこれからの世界を私はより良い社会にするために働いていきたい。来年社会に出る私を待ち構えているのは困難の連続かもしれない。しかしながら京都産業大学での経験により得たかけがえのない無い経験とチャレンジ精神を持ち立ち向かっていくことを私はここに誓います。

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