入賞

「自分を成長させる事ができる課外活動を全学生に」

法学部 法律学科 4年次 杉谷 啓介

審査員講評

 杖道部の師範内山薫先生と杉谷君との間の長い師弟関係ともいうべき人間関係のなかで、他人を思いやることの本当の意味を体得していく過程が活き活きと描かれていた。課外活動とりわけ武道系のクラブ離れが顕著になりつつあるなかで、師範との真剣勝負を通じて武道の礼儀を身に付けていくことの意義が生の体験談として語られていた。他人と常につながっている実感がないと不安になるという若い世代が多いなかで、「つながり」という意味がもっと精神的に深いものであることも教えてくれたエッセイであった。他人を本当に思いやる心が生まれてはじめて自分を成長させることができることを、杖道部という課外活動が教えてくれたことを素直に表現しているところが清清しく好感がもてた。

作品内容

「自分を成長させる事ができる課外活動を全学生に」 杉谷 啓介

 私が京都産業大学に入学したのは、2000年の春のことである。入学後すぐに、私は体育会杖道部に入部した。入部のきっかけは、ただ古武道に興味があったからという単純なものであった。そして私は、その後の4年間のクラブ活動を通じて人間としてとても大切なことを学んだ。それは杖道という古武道を通じ、自分以外の人に対する「思いやりの気持ち」である。

 杖道とは約1m28cmのただの丸木の棒で、刀を持った敵に立ち向かうという武道である。この武道の最大の特徴は、自分の身を守るために相手を殺すのではなく、悪意を持った敵を気迫で圧倒して改心させることである。つまり相手を傷つけるための武術ではなく、相手を活かすための武術なのである。杖道部は師範の内山薫先生のご指導の下、日々稽古に励んでいた。

 私は内山先生に会う前までは、礼儀作法が厳しい武道系のクラブの師範の先生は、きっと厳しくて怖い人だと思っていた。雲の上の存在で、神のごとく崇めなくては機嫌を損ねて帰ってしまうような、そんな気難しい人を想像していた。

 しかし、実際お会いしてみると想像とは全く違っていた。すごく優しい方だった。先生という立場にあぐらをかかず、部の幹部である4回生から1回生まで一人一人細かい気を使って下さり、私たちが稽古中に苦しそうにしていたら声をかけて頂き、挨拶をすれば必ず笑顔で返してくれた。時には冗談も言い、雰囲気を和やかにして下さった。

 先生がいつも言われていることは、「相手が求めてきたら、こっちも全力でその気持ちに応える」という言葉だ。つまり、私達部員が稽古をしたい、教えてほしいという気持ちがあれば、例え自分が疲れていようが、体調が悪かろうがその気持ちに応えるため全力で稽古の相手をする。それが武道人としての礼儀であり、人としての最低限の思いやりである、という意味である。私はこの言葉をはじめて聞いた時、深く感動した。先生は、私達のやる気と杖道を稽古したいという気持ちがある限り、ご自身の体を犠牲にしてでも私達の気持ちに応えて下さる。そう思ったとき、私は涙が出る思いだった。そして私は、人一倍大きな体に目いっぱいの力を込めて先生に稽古をつけて頂いていた。そういった稽古が、当たり前だと思っていた。

 しかし、それは私の大きな思い上がりであった。実は先生は、以前稽古したときに腰や足に負った古傷と60歳を超えるご高齢の影響で、私の様な体の大きくて力の強い者が全力で先生に技を使うと、時には動けなくなるくらい古傷が痛むということを知った。一時はドクターストップまで出ていたそうだ。それでも先生は痛い顔ひとつせず、私達の気持ちに応えるため相当無理をされていた、とOB先輩から聞いた。このことを知り、自分の厚かましさに気付いた時、私は泣き叫びたいくらいの気持ちになった。私は先生の思いやりや、優しさに甘えるだけで、先生のお体のことは少しも考えていなかった。与えてもらうだけで、先生の気持ちに対して何一つ返していなかった自分を、心の底から情けなく思った。そう思うと、自分のせいで先生のお体をもし歩けなくなるくらい傷つけてしまったらどうしよう、と思うようになった。全力で先生と稽古するのが怖くなった。それどころか、先生はバカ力ばかり強い私と稽古することは、本当は嫌がっているのではないかとも思った。先生のお体を考えれば、私が先生に対してできる思いやりは、私が先生に稽古をつけてもらわないことしかないのではないかとさえも思った。そんなことを考えているうちに、どんどん稽古すること自体が億劫になってきていた。

 悩んだ末私は先生に、自分の今の正直な気持ちを話すことにした。このままの煮え切らない態度では、今後のクラブ活動に情熱を注げないと思ったからだ。先生のお体を考えず、目いっぱいの力で稽古してしまっていたこと。私が先生のお体を決定的に傷つけてしまうかもしれないと思うと、思い切って稽古ができないということ。そして、先生の思いやりに対し、私は与えてもらうことしかせず、私ができる先生に対しての思いやりは、私は先生とは稽古しないほうがいいのではないかと思っていること。すべて洗いざらい話した。話の中頃には、私は号泣しながら話していた。そんな自分に、先生はなだめるようにして答えて下さった。「お互いが全力を尽くしあってこそ、本当の武道の礼儀というものだ。君がそこまで考えてくれているその気持ちだけで十分だ。だから何も気にせず、全力でぶつかってきたらいい。僕は稽古中に体が動かなくなるのなら本望だ。」そう言って、先生は笑った。

 私は、思いやりという言葉の意味をはきちがえていたことに気付いた。私なりに先生のお体を考えた結果、私が全力でけいこをつけて頂いてけがをさせてしまうくらいなら、いっそ稽古をつけて頂かないほうがいいと考えた。それが私にできる精一杯の思いやりだと思った。というより、私にはこういう形でしか先生のお体を思いやることができないと思った。しかし、それは違っていた。それどころか、私は先生の気持ちに背を向け自ら心を閉ざしてしまっていた。

 私はこの間違いに気付いた時、これから先生に対しては余計な気を使わず全力でぶつかっていこうと思った。そのかわり、稽古以外の所での先生の負担をできるだけ減らそうと考えた。例えば、足腰の負担になる重い荷物は私が持とうと思った。今後はそういった形で、私は先生の気持ちに応えようと思った。それが、私にできる思いやりなのだと気付いた。

 「他人のことを自分のことのように考える」これが、思いやりの原点だと思った。それには他人の喜びを自分の喜びとして捉えられる心を持つことが、その第一歩なのだ。思いやりの気持ちは、決して一方通行であってはいけない。自分は相手のことを思いやっているつもりでも、それは必ずしもその当人にとっての喜びにつながらないこともあるからだ。大事なのは自分自身を相手の立場に置き換えて、この人ならこういう時どうしてほしいか、と考えることである。一方的に自分の気持ちを押し付けることは、時には相手の気持ちに反する場合があることを、忘れてはならない。

 このように、私は4年間のクラブ活動を通じて「他人を思いやるとはどういうことか」を自分の体験の中から、肌で感じ取った。これは私が大学生活の中で、杖道部に入っていなければ会得できなかったであろう。だからこそ私は、京都産業大学の全ての学生に課外活動を強く奨励したい。なぜなら前述の私の経験より、大学生活において課外活動ほど自分を成長させてくれるものはないと考えているからだ。さらに幸運にも我が京都産業大学は、総合体育館やグラウンドなど課外活動を行う環境が、ほかのどの大学にも負けないくらい整っている。

 昨今の大学生は、クラブ離れが顕著であると聞く。理由は毎日クラブ活動するのが面倒である、自分の時間がほしい、遊びたいなどが多いそうだ。確かにほぼ毎日あるクラブ活動に出席するのは時には面倒であり、また授業後はすぐにクラブ活動に行くため、自分の時間は著しく削られる。今の私はバイトする暇もないし、海外旅行にも行ったことがない。一般学生はそんな私達を見て、大学生活を満喫していないと思うかもしれない。

 しかし、そのかわり私は他の一般学生に比べ、多くのかけがえのないものを手に入れた。先生、先輩方を始めたくさんの人に出会い、前述のことのような様々な事を教えて頂いた。苦楽を共にしてきた同回生や下回生などたくさんの仲間と出会えた。先輩から厳しく怒られた時や、大会で負けてしまった時などどれだけ同回生に励まされたことか計り知れない。杖道部に入ってなければ、このようなつながりの深い仲間には出会えなかっただろう。

 私は一人でも多くの産大生が、私のように課外活動を通じ、自分自身をより高めていってくれる事を願って止まない。

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