サギタリウス賞

「わたしの中の『京産スピリット』」

外国語学部 英米語学科 4年次 中本 裕子

審査員講評

 中本さんのエッセイは、審査員すべての中でもっとも高い評価を得た作品である。 その見事なまでに積極的で行動力に溢れたメッセージは、若い可能性に満ちた爽快感に溢れている。 筆者の「もう一歩の努力」と「もう一歩の勇気」が「確実に自分の…ラインを押し上げてゆける」という主張は、ポジティヴな思考がその後の彼女の素晴らしい体験に繋がったことを、なるほどと首肯させるからだ。 われわれが縛られがちな既存の価値、ここでは学位や英語力のスコア(たとえばTOEIC)から、彼女は体験を通じてむしろ離れて行くのが新鮮だ。 人はしばしば自分の持っているわずかな資格や学歴にしがみつき易いが、チャレンジャブルな精神の持ち主である筆者は、その枠から離れ、「他者との共生」というまったく異なった次元の新たな高みへと、まさに蛹から蝶に羽化するように「変容」するさまを読者に体感させてくれる。 これは、近年ともすれば小さくまとまりがちな人間が多い中、あらたなスタイルの「剛健な産大生像」をわれわれに提示してくれているように思われる。 この明確な筆致と素直な文体は、審査員一同まさにサギタリウス賞に値するものと評価するものである。

作品内容

「わたしの中の『京産スピリット』」 中本 裕子

 “やりたい事探しへの第一歩を踏み出そう!!”昨年の夏、USJでのインターンシップを経験し、インターンシップのその絶大な成果を実感した私は、それを後輩へ伝えたいと、本学職員の方々にお願いし協力を得て活動してきた。これは、そのインターンシップ推進活動のスローガンである。

 そして、私はその活動の一環である、第1回インターンシップシンポジウムで、このようなことを言ったのを覚えている。「いつもよりも、もう一歩の努力をして下さい。もう一歩の勇気を出して下さい。少し頑張ればできることを自分に言い訳せず実行していけば、少しずつでも確実に『自分のここまでできるライン』を押し上げていけるのです。」

 「自分の可能性を高めるために、その時、その時の自分に出来得る最大限の努力をする、勇気を振り絞って一歩踏み出す。」これはUSJでのインターンシップ期間中に限らず、これまでの大学生活における私の基本姿勢であった。 

 大学2回生の冬、私がこの姿勢を持つきっかけとなる出来事があった。本学同窓会のニュージーランドへの交換留学生選考の場で、面接官から「あなたは将来どのような職業に就きたいですか。」と質問され、迷わずに「中学校の英語教員です。」と答えた。すると、「他には?」と質問が続く。私は困ってしまった。私は、恩師の強い影響を受け、中学生の頃に将来は先生になると決め、以来中学の教師になるため一心に進んできた。そんな私には、他に就きたい職業などなかったのだ。それでも、私はなんとか答えようとその場で必死に考え、「そうですねぇ・・・。11年間テニスをしてきた経験を生かして、テニスのコーチです。」と答える。すると、「その他には?」とまた質問される。私は、苦し紛れに「う〜ん。そうですねぇ・・・。書道二段を持っているので、書道の先生です。」と答える。そして、そんな私に面接官は言った。「教える仕事ばかりですね。世の中には本当にいろんな仕事があるんだ。あなたはまだ2回生なんだから、今のうちから自分の将来を決めてしまわずに、まずはいろんな仕事を知りなさい。」

 周囲の多くの友人はみな「自分が何をやりたいのか分からない。どんなところに就職したいのか分からない・・・。」と悩んでいる中で、自分は就きたい職業がはっきりしている。私は早い時期から自分の将来を決めていることはいいことだとばかり思っていた。しかし、面接官の言葉をきっかけに、私は考え直した。「私の教師になりたいと思うこの気持ちに間違いなく、確かなものだ。しかし、言われたように、私の知っている職業といえばこれまでに自分と何らかのかたちで関わってきた仕事のみであり、他の仕事については全然知らないのは事実である。私はこんなにも少ない選択肢のなかから、教師という仕事を選んでいるのだ。」

 私はそれまでの自分の考え方を改め、決心した。これからは自分の興味・関心のアンテナを広く張り巡らし、少しでも引っ掛かるものには積極的にどんどんチャレンジしていこう。そして、新たに自分の可能性を発掘していこう。

 結局、交換留学生の選考には通らなかった。本来ならば、この時点で私は留学を諦めることになっていた。私には私立大学の薬学部に在籍する兄がいた為、留学費用については両親からの援助は全く期待できず、交換留学生に選ばれない限り留学させることは出来ないと言われていたのだ。しかし、それは私が長年にわたり募らせてきた留学への想いを諦めるには十分な理由ではなかった。

 私は一年間大学を休学して、留学資金を自分でなんとか工面するためにアルバイトをし、そして資金が得られ次第、カナダに留学をすることを決めた。両親は初めのうちは反対していたのだが、費用を全て自分でなんとかすることと、留学させてよかったと思えるだけ成長して帰って来ることを約束し半ば強引に説得した。

 2回生の後期試験が終わるとすぐに、私はアルバイトを始めた。平日はレストランのウェイトレスとオムロンでの夜間勤務、そして土日には花屋店員と家庭教師。4つのアルバイトを掛け持ちし毎日15時間以上働いた。少しでも早く必要な金額を得て、一日でも留学期間を長くしたい思いから必死で、4ヶ月間が経とうとする頃には100万円近くを稼ぎ、それまでに貯めていた貯金を合わせて留学に必要な額をなんとか用意することができた。

 そしてカナダでの9ヶ月間、ホストファミリーや友人を始めとし、素晴らしい環境に恵まれ充実した留学生活を送った。自分が4ヶ月間汗を流したお金で今ここにいるのかと思うと、過ぎていく1分1秒が本当に大切に感じられた。私は、この貴重な時を1秒たりと無駄にすまいと、「自分の可能性を高めるために、その時、その時の自分に出来得る最大限の努力をする、勇気を振り絞って一歩踏み出す」姿勢を徹底した。   

 幸いこの留学で一番の目的であったTEFL(Teaching English as a Foreign Language)Diploma取得も果たした。しかし、両親が何よりも一番喜んだのは、家族に感謝する気持ちを持ったことと、私にボランティア精神が芽生えたことであった。

 留学をして私にとって衝撃的だったもののひとつは、察しの日本文化とは相反する、感情を表現することを重んじる文化であった。日本で日常私が家族に「ありがとう」と言ってきたのに比べ、カナダでホストファミリーに“Thank you”と口にする頻度は圧倒的に高かった。自分の気持ちや考えを相手に伝えることが大切だということは、幾度となくホストファミリーに教えられた。その一方では、パーティーで人に料理やお酒を勧めたり、あれこれと気が利くのは決まって日本人であり、日本人の他人の気持ちを察し、気遣える能力の素晴らしさを感じていた。結局のところ、両方をバランスよく持ち合わせていることが大切なのだ。他人の気持ちを察することができる能力は素晴らしいが、しかしそれに頼り過ぎて、いつも相手が自分の気持ちを察してくれることを期待していてばかりいてはいけないと思った。私は、初めて長期にわたり遠く離れたことで改めて感じた家族の有り難さを自分の言葉で伝えようと、生まれて初めて家族への手紙を書いたのであった。

 また、毎週末教会で会う度に親切に声を掛けてくれる人がいたり、オレゴン州から遊びに来ていて街で偶然出会った人が、帰るときに一緒にオレゴンに連れて行ってくれ一週間滞在させてくれたりと、日本では考えられないような出会いのなか、沢山の人の善意に支えられ充実した日々を送ることができた。そして、「人はみな誰もが他者との共生のなかで生きていて、自分も例外でなくそうであるのだ」と身を持って感じた。それからは「では、自分は他者との共生のために何ができるのか」と考える姿勢を持つようになり、留学中は老人ホームでのボランティアにそれを見出した。

 私が留学で得たものは英語力の向上やDiplomaなどのちっぽけなものだけではない。それまでは自分がふつうだと考えていたこと、当たり前だと思っていたことが覆される価値観や考えに出会うことで、差異を認め互いを尊重し、助け合う姿勢を持つことの重要性を学んだ。そして、将来は「他者との共生」という視点に立って働ける仕事に就きたいという考えを持つようになった。

 私は、帰国後も様々な考えや価値観に触れ続け、そしてまた、自分が留学中に受けた恩威を還元してゆきたいと考えていた。幸いにも京都産業大学ではそのような機会に恵まれていた。私は3回生に復学した後、まずは留学生のチューターとしての活動を始めた。夏休み前には、カリフォルニア州立大からの短期留学生のカンバセーション・パートナーとしても活動した。そして夏休みに入り、前半1ヶ月間は国際ボランティアに参加し、残りの1ヶ月間はUSJでのインターンシップに参加した。秋には日韓交流文化基金のプログラムに参加し、韓国の学生と交流する機会も得た。そして、現在は河原先生の指導のもとで、京都市教育委員会から学びのパートナーとして週3回中学校に派遣され、別室登校の生徒支援をしている。

 これらの体験を通じて、異なる背景を持つ仲間達と、互いを尊重する姿勢を持つことで違いを楽しめるようになり、これこそが相手を理解し、信頼関係を築き上げるのに必要なものなのだと確信した。国際協力に関わる仕事に携わり「他者との共生」のために働きたいという想いは強くなっていった。

 今年になり、国際協力関連の就職試験を受けた。が、予想通りの難関で敗退。そこで、進むべき他の様々な方向を考え抜いた末、近年特に国際理解教育の重要性が叫ばれている教育界で、教員として経験を積み、その先の将来について考えていくことに決めた。

 このようにして、最終的には教員を目指すこととなったのだが、1回生の頃とは志望理由も、目指す教師像も違っている。教師という選択肢を視野に入れる限り、就職活動に時間を割くことは難しく、かなり絞り込んで受けなければならなかった。そのため、いろんな職業を知った、視野がすごく広がった、とは言えないが、しかし、それでも一旦「将来は絶対に教師」という考えから離れたことで見えてきたものは多くある。

 今年の6月には母校の中学校で教育実習を行った。ある朝の打ち合わせで、「今日と明日は来客が多いので、生徒に挨拶をしっかりとするように指導して下さい。」と学年主任の先生から話があった。その朝は時間がなかったため、私は生徒に「今日、明日とお客さんがたくさんみえるので、みんなしっかり挨拶をするように。」とだけ言った。誰も聞いている様子はない・・・。その後、担任の先生から「生徒の様子から彼らが必要としていることを感じとり、自分の体験から得て来た言葉を掛けてやれ。」と指導を受けた。

 その日の帰りの会、私は、再び生徒の前で挨拶のことを話した。今度は、「気持ちのよい挨拶がいかに人の心を掴み、人間関係を円滑にする鍵となり得るか」を、USJでのインターンシップの経験を交えながら話した。生徒の反応は、朝とは全く打って変わったものであった。クラス全員の視線が私に向けられていた。そのとき私は、“経験を生かす”とはこういうことなのだろうと思った。生徒にとって、私のTOEICのスコアが800点であろうが、900点であろうがそんなことはどうでもよい。それよりも、彼等が何かを得たり考えたりするきっかけを与えられるような経験を私がどれほどしてきたのか、ということの方が彼等にとってはよほど重要であるのだ。

 履歴書に書いていかに面接官の目に留まるものを残すかを考えてしまいがちな現在、本当に自分に必要なものは何なのか、これからの自分に生かせるものは何なのかを考えるべきではないか。大学での4年間は、自分の目標を見つけそして目標とする自分に少しでも近づくために必要な経験を積むには決して長くはない。TOEICのスコアを1点でも上げることに終始していてはもったいない。たしかに英語教師を目指すうえでTOEIC高得点を所持していることは大いに役立った。教員採用試験の一次試験では専門教科である英語の筆記試験、そして都道府県によっては実技試験の免除資格も得た。結果、受験した4つの都道府県全ての一次試験に合格することができた。しかし、TOEICのスコアだけでは最後までは勝ち残れないのである。面接官に良い先入観を抱かせる効果があるというだけに過ぎない。途中、資格や免許など、紙面上のデータに助けられても、最後には必ず人間性で勝負しなくてはならないのだ。勝ち残るために必要とされるもの。それは、これまでの努力や経験から培ってきた「生きる力」と、これからも自己を高めていくことを可能にする柔軟な姿勢と広い視野だと思う。

 「就職に強い京都産業大学」の所以も、そんな生きる力漲る「京産スピリット」にあると思う。

 今月中には全ての教員採用試験の最終結果が送られてくる。私のこの4年半がどう評価されたのか、近く知ることとなる。

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