脳を守り、脳を治すストレスが脳に与える—影響を最小限に抑える
―― その処方箋を生理学的に解明する—

総合生命科学部 動物生命医科学科 齋藤 敏之 教授

影響を最小限に抑える ―― その処方箋を生理学的に解明する

 今年、厚生労働省は重点的に対策に取り組む疾病の中に、精神疾患を加える方針をきめました。従来のがん、脳卒中、心臓病、糖尿病と合わせて、早急に対処すべき「5大疾病」の一つに位置づけられました。精神疾患の原因はさまざまですが、ストレスによる脳の機能障害もその一因と考えられます。ストレス反応自体は環境変化に対応するための体の反応で、通常は時間とともに解消されます。しかし強すぎる、あるいは長く続くストレス反応は、脳にいろいろな影響を与え、時には不可逆的なダメージを与えます。大型の実験動物を使ってストレスが脳に与える影響を、生理学的な立場から研究する齋藤敏之先生に、これまでにわかってきたことと、これからの展望をお聞きました。

研究の原点は現場から

 私は獣医学の中で研究を始めましたが、比較生理学の視点から、「生命科学」にアプローチしました。動物とヒトの体には共通点が多く、両者をあまりはっきり分けて考えることはありませんでした。ストレス反応に関連する研究にも、比較生理学の視点から関心をもちましたが、そこでも動物とヒトとの境界をほとんど意識しませんでした。

 大学から農林水産省の研究所に移った私は、ブタのストレスの問題に大きな関心をもちました。家畜ブタを飼育していると、何かの原因で成長が止まってしまう個体が時に出てきます。その一番大きな要因にはストレスが考えられています。

 ブタはきれい好きで、ヒトを覚えます。一方でストレスを感じやすい動物で、特に子ブタの時期にはそれが顕著です。ブタのストレスを解消し、効率よく育てるということは、畜産の現場では古くからのテーマですし、ストレスの解消は今も解決すべき問題の一つです。近年は、動物愛護・動物福祉の観点から、できるだけブタにストレスを与えずに育てることが強く求められるようになりました。

 ブタの脳研究を始めるきっかけは、「きれい好きで、ヒトを覚え、ストレスを感じやすい動物」の脳を知りたいという好奇心からでした。そこに、ストレスをできるだけ与えない飼育法のヒントがあると考えたのです。ブタの脳には、ヒトの脳と多くの共通点があることが最近の研究からわかってきました。ブタを用いた脳研究は、特に、西欧で盛んになっています。この背景には、医学的な脳研究にサルが利用できなくなっている事情があり、今やブタの脳はヒトの脳を念頭においた医学研究に欠かせないものとなっています。また、ブタの脳はサルの脳に匹敵する大きさを持っていますので、画像診断の基礎研究にも利用できます。動物実験といえばマウスやラットを思いおこす人が多いかもしれませんが、ブタの脳の大きさからその構造を考えますと、もっと医学研究に利用すべき動物といえます。一時期、問題になった赤ん坊の“うつぶせ寝”による突然死の原因解明にも、実は新生子ブタを用いた脳の研究が大きく貢献しています。

 とはいえ、ブタが国内で最初に医学教育用として使われたのが約20年前で、比較的最近のことです。これは私が農水省に入ってブタの脳研究を始めた時期とほぼ一致しています。

脳の働きとストレス反応

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 現在私は、ブタや実験小動物を利用してストレスが脳機能に与える影響について研究を進めています。そこから、ヒトのストレス、なかでもPTSDなどの深刻な脳機能障害に至るプロセスを明らかにしたいと考えています。

 哺乳動物の脳の一番外側には、高度な信号処理を行い、細かな手足の動きや物事の判断などを司る大脳皮質があります(図1参照)。これは生物の進化の過程では後になって発達してきた部分で、「新しい脳」と呼ぶことができます。その内側にあるのが、大脳辺縁系から小脳、脳幹に至るまでの「古い脳」と呼ばれる部分で、本能をはじめ、自律神経系、内分泌系、呼吸、血圧などの生きるために欠かせない機能を司っています。どれも自分の意識ではコントロールできないものばかりで、霊長類に比べて、他の動物では古い脳が脳全体に占める割合は大きくなっています。

 脳のストレスを考える際には、古い脳―特に、大脳辺縁系―の機能に与える影響を考える必要があります。

 大脳辺縁系は、大脳皮質と呼吸・血圧調節等を司る中脳・延髄との間にあり、扁桃体、視床・視床下部、下垂体、海馬等で構成されています。哺乳動物では外界からの刺激は感覚情報として大脳皮質へ入力されます。入力された感覚情報は扁桃体を経由してさらに、大脳皮質を含む脳の中のいろいろな部位に送られます(図1、図2参照)。脳の内部にある大脳辺縁系は全体でひとつの回路を形成しています。一種の閉鎖回路系をつくる大脳辺縁系に強いあるいは長くストレス負荷がかかった時、どのような影響が出てくるのでしょうか?

古い脳の機能とPTSD

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 そんな中で考えるべき体内の情報伝達系は、扁桃体(図2)、視床下部(特に、室傍核)、下垂体、副腎から構成される、いわゆるストレス反応系です。後者の3つの部位からなる系は、視床下部―下垂体―副腎軸(HPA軸)と呼ばれています。これに加えて、脳では扁桃体の隣にある海馬も念頭におく必要があります(海馬には、記憶にかかわる情報を作り、他の場所にその情報を受け渡す役割があることが知られています。また、海馬にはその他の役割があるようですが、残念ながら、よくわかっていません)。

 もう一つ考える必要があるのは、脳での情報のやりとりです。恐怖反応を例に考えてみます。この反応では、おおまかでスピードの要求される情報は、視床を経由して扁桃体に伝えられ、ゆっくりでも精密さを求められる情報は直接、大脳皮質から扁桃体へ送られると考えられています(図1)。前者は体のすばやい反応、後者は怖いものへの条件付けに結びつき、いずれもHPA軸の活性化を伴うと考えられます。

 上に述べたHPA軸はストレス因子によって活性化される基本的な内分泌反応系として知られています。このHPA軸の活性化によって分泌されたホルモン( 副腎皮質ホルモン、ヒトではコルチゾール)は脳に働きかけて、ホルモン分泌を止めようとします( 負のフィードバック調節)。この反応系で重要な脳内情報伝達物質は、CRF(コルチコトロピン放出因子、あるいはCRH、コルチコトロピン放出ホルモン)です。この因子を分泌する視床下部室傍核の細胞はさらに上位の扁桃体から情報を受け取ります。残念ながら、その詳細はまだ不明です。一方、海馬がこのCRFの分泌調節に関与している仮説がでていますが、まだ仮説の段階にとどまっていて、実際のところはっきりとしません。海馬が小さくなると、CRFの分泌が増大することが知られています( 図3、解説)。脳のCRFはストレス因子による自律神経系や内分泌反応、行動変化を引き起こす必須な脳内物質であることから、上位の脳を含むCRF分泌調節系を解明することがストレスによる脳機能障害を防ぐ大きな鍵となると考えています。

脳のストレス反応調節系を解明し、副作用の少ない薬の開発を

 一つの刺激に対して脳は特定の感覚器を通してその情報を受容するものの、脳の中で反応する神経回路は一つではありません。また、脳は多くの情報を同時進行で処理していると考えられます。ただし、通常は多くの回路がバランスを保ちながら反応していると考えられます。また、そこに関与する情報伝達物質も様々です。そのような脳の中にストレス反応のフィードバック調節系が存在するわけですが、上位の脳を含めた正常なストレス反応フィードバック系を明らかにするにはもっと時間が必要です。PTSDをはじめとする脳機能障害の治療薬には、強い副作用のあるものが少なくありません。今後、脳のストレス反応調節系と脳機能障害との関係について解明を進めて、脳を守り、治すしくみを考えるとともに、その成果に基づいてもっと副作用の少ない薬を開発していきたいと思っています。

アドバイス

 高校生のみなさんにまず伝えたいことは、好きなこと、本当に面白いと思ったことを、独りよがりになることなくしっかりやってみるということです。好きなものをやっていく中で、なぜだろうと考え、わからないことを知ろうとします。この経験は今後、いろいろなところで役に立ちます。また、部活や生徒会活動などを通して、人と協力・連携して何かを行うことも大切です。将来どんな仕事についても現場では人との協力が不可欠だからです。

 この他、何かを自分で作ってみるのもいいかも知れません。あるものを上手に使えることと、何かを作れることとの間には大きな差があります。何かを自分で作っていくなかで、その難しさもわかってきます。それを一つまた一つと積み上げていくことで、地に足がついた考え方や力が身についてくると思います。

総合生命科学部 動物生命医科学科 齋藤 敏之 教授

プロフィール

獣医学博士。専門は生理学、神経科学。子供の時から医者に憧れる。しかし高校3年間ブラスバンド部の活動に明け暮れて受験勉強が遅れたこともあり、医学部進学は断念。動物好きだったこともあって北海道大学獣医学部へ。大学院在学時に大学の職員になり、その後はつくばにある農林水産省の研究所で家畜に関する様々な研究を行う。この時の経験から、社会に役立つ基礎・基盤研究をモットーにする。青森県立弘前高校OB。

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