私たちは何を見ているのだろうか—錯視・錯覚から迫る脳の視覚情報処理メカニズム—

コンピュータ理工学部 インテリジェントシステム学科 伊藤 浩之 教授

錯視・錯覚から迫る脳の視覚情報処理メカニズム

 「見る」これは誰でも日常的に無意識にしている行為です。目を開ければ物が見え、閉じれば見えなくなる。物に目を向ければそれが見え、何であるか分かります。しかも瞬時に分かります。物が見えるとは、目から入った画像の情報が脳に受容されることですが、実は「見る」というメカニズムは非常に発達し、脳の中で複雑な情報処理が行われているのです。脳における情報処理の解明はコンピュータへの応用に対する関心も手伝い、近年さかんに行われています。視覚情報処理という視点から脳の研究をしている伊藤浩之先生に、「見る」とは何か、「見る」時に私達の脳では何が起こっているのか、お話をうかがいました。

同じ色が違って見える!

 物を見る時、脳の中ではどのような情報処理が行われているのでしょうか。それを考えるために、錯視・錯覚を起こす図を用意しました。

図1・2

 まず、図1を見てください。ここに、一面にタイルをそれぞれ25枚貼った立方体があります。上の面の中央のタイルの色は茶色です。それでは手前の側面の中央のタイルの色は何色に見えるでしょうか?オレンジ、うす茶色などに見えるのではないでしょうか。ではその2つ以外のタイルを隠した図を見てください(図2)。実は、上面の色も側面の色もまったく同じ茶色なのです。さらにもう一度、図1で2つの色を比べてみてください。やはり、側面はオレンジやうす茶色に見えるでしょう。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。

 人間は光の刺激に応じて色を感じます。光は電磁波の一種で、いろいろな波長を持っています。光自体に色は付いておらず、どの波長を反射するかによって色が決まります。この図の中の同じ塗料を塗った2つのタイルの波長はまったく同じです。しかし異なる色に見えます。ここから分かるのは、私たちは目に入った物理的な波長そのものを見ているわけではない、ということです。

 この立体図形の側面は上面に比べ、色がくすみ濃い色になっています。これを見て私たちは上面に光が当たり、手前の側面は影になっていると認識します。青といっても上面と側面の色は違い、そういった色の対応関係から、どの程度暗くなっているかを無意識に判断し、物理的には違う色でもこれとこれが同じ色だという結論を導きます。ですからその際に、影になっている部分にあるにもかかわらず、物理的に同じ色のものがあればおかしいと感じます。つまり影となっている暗い部分でこの色になるのならば、明るいところではもっと薄い色であるはずだと計算しているため、オレンジやうす茶色に見えるのです。この計算は一瞬と言っていいほどのスピードで行われます。またこの計算は無意識のうちに行っているので、種明かしを聞いた後でもやめることができません。

ないものが見えるアルゴリズム

図3

 図3を見てください。これは有名な錯視図形で「カニッツァの三角形」と呼ばれています。明らかに空間の何もないところに三角形の辺が見えています。しかも三角形の中の白い部分は、その背景の色よりも明るく見えます。

  切れ込みが入った3つの円をランダムに動かし、一直線が3つできることは0に等しい確率です。それよりも、3つの円の上に三角形が乗って、円の一部を隠していると考えた方が確率が高い。脳には確率の高い方に認識するようなアルゴリズム(問題を解くための効率的手順を定式化した形で表現したもの)が備わっているようです。

見ているのは目ではなく脳

  私たちが外の世界を知覚するとき、その役割を担っているのは脳以外にはありません。網膜ではないのです。網膜は光センサーですから、入ってきたデータを視神経を通じて脳に伝えるだけなのです。実は目の見えない人にも視覚皮質はあります。目からは情報は入ってきませんが、イメージング技術(脳の活動を外から計測・画像化する方法)を用いて調べてみると、点字を読んでいるときに視覚皮質が活動し、「見る」行為をしています。物が見えているのは学習の結果です。ですから網膜に問題があって目の見えない人でも光センサーによって脳に直接にデータが入力されるようにすれば、外の世界と中をつなぐように脳が変化し、目の見える人とは違う回路かもしれませんが、結果としては同様な視覚体験ができるだろうと考えられています。

物理と知覚のズレを計算

 私たちは視覚体験をしていく中で、脳は様々な学習をしています。脳の神経活動の回路がどんどん出来上がっていき、やがて、目に入ってきたデータに対して計算を自動的に行うようになり、周りにある物への知覚に適応していきます。このアルゴリズムは通常の物の知覚に対しては最適化されていますので、うまく答えを出します。しかし、錯視絵のようなトリックのある絵ですと、この最適化されたアルゴリズムの癖のために、間違った答えを出すのです。つまり錯覚が起こるということは、人間の「見る」能力が優れていることの証拠なのです。私たちが普段不自由なく暮らせるのはこの能力のおかげです。もしも脳にこのような機能がなく、単に物理的に物を見ることしかできなければ、限られた情報から柔軟な認識を行うことは出来ず、また単純な対象であっても認識するのに非常に時間がかかってしまうでしょう。

 あるシステムのメカニズムを調べる時に、100人が100人とも正解を出すような例では、どこに問題があるのか分かりません。錯覚は、どのようなときに入力された物理的なデータと脳が計算した結果である知覚との間にズレが生じるのかを教えてくれます。このズレによって、アルゴリズムの特徴が分かり、脳はどのように世界を解釈しているかを研究することができるのです。

脳科学の可能性

 よく間違われるのですが、視覚情報処理の研究は目のレンズの構造の研究ではありません。脳が行う情報処理のメカニズムを明らかにすることで、脳つまり人間を理解する研究なのです。

 現在ではコンピュータの技術的な限界によって人間とコンピュータの関係が規定されている部分がありますが、脳のアルゴリズムが明らかになり、コンピュータ科学への応用が可能になれば、コンピュータがより人間に近づき、人間を主体としたコンピュータ社会の実現が期待できるようになるでしょう。

アドバイス

 将来どのような分野を目指すとしても、高校生の時に、まずしっかり数学を学んでください。物事はすぐに結論の出るものばかりではなく、AはB、BはC、CはD、だからAはDとなるなど、組み合わせていくことで最終的に説明することができることがたくさんあります。数学は基本となる論理的な発想や、論理を展開していく上で必要な忍耐力を身に付けることができます。大学入試で求められる数学力とは少し違うかもしれませんが、若いうちにトレーニングしておくと、後々役に立ちます。また、何かを選択したり行動を起こそうという時、集めた情報を基にして判断していくことになります。しかし、現代はインターネットが普及し、得られる情報は膨大で、しかも瞬時に手に入ります。結果として、集めた情報全てに目を通して自分で判断することはできず、第三者の情報機関が出したランキングに従うことが起こりがちです。もちろん、物を購入する時はそれでもかまわないでしょう。しかし、自分の進路など、それではよくないものがあります。膨大な情報から自分自身を意図的に遮断し、自分の頭で考えることが必要なのです。それをやらない限り、自分の意志では行動できません。自分で考える時間を大切にしてほしいと思います。

 脳科学を勉強したい、と思ってもどこに進学すればいいか分からない、という高校生は多いのではないでしょうか。外国ではすでに30 〜 40年前に神経科学学部が創設され、医学部でも工学部でもなく、脳科学に必要な多種多様な知識を学ぶ、脳科学者を育てるための学部があります。日本にはそういった学部がほとんどないため、日本の脳科学者の出身学部は医学部が最も多く、ほかに文学部心理学科や理学部生物学科、工学部などに分散しています。逆に言うと、脳科学はさまざまな分野からのアプローチが可能です。脳科学はコンピュータ科学への応用をはじめ、さまざまな分野と関わりがあります。また脳を理解することは人間の知的活動の習慣や本質を理解することです。脳を理解することにより、例えば人間とコンピュータのよりよい関係をデザインしていくことができるでしょう。コンピュータ理工学部インテリジェントシステム学科では、コンピュータ科学・プログラミング技術のほかに、心理学、生理学、計測技術、数学・統計解析学など、脳科学を学ぶために必要な知識が系統的に学べます。脳科学を目指すならコンピュータ理工学部インテリジェントシステム学科です。

コンピュータ理工学部  インテリジェントシステム学科 伊藤 浩之教授

プロフィール

理学博士。大学・大学院では理論物理を専攻。物質を研究対象としていたが、環境の変化に柔軟に適応する生物と非生物の現象面での違いに関心を持つ。博士号取得後、カナダに留学し、心臓麻痺のメカニズムを数値シミュレーションモデルで解析。しかし、人工心臓が開発されているように、心臓の動きは機械的で知性があるものには感じられなかった。人間にはまだ同じレベルのものを創造することができず、かつ知性のある生体器官は脳しかなかったことから脳科学の道へ進む。本来意味のない物理化学現象の連鎖から、なぜ、やわらかさや知性が発現してくるのかが究極的な研究目標。脳科学のおもしろさを伝える本としては『脳のなかの幽霊』(ラマチャンドラン著、角川書店)がおすすめ。愛知県立千種高校OB。

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