不確実な未来に備える数学の力 —金融の世界に革命を起こした2つの数学理論—

理学部 数理科学科 辻井 芳樹教授

金融の世界に革命を起こした2つの数学理論

 世の中にはさまざまなリスクがあります。個人レベルでは、自動車事故、火災、健康などに対して、保険をかけることでリスクを回避しています。それでは、民間企業が日々変動する商品価格、為替レート、株価などに対して、どのようにしてリスクを回避しているのでしょう?答えは「金融派生商品(デリバティブ)」—今ここにある商品を売り買いするのではなく、何日後や何ヵ月後といった将来の商品を取引したり(先物)、将来に売買する「権利」を取引したりする(オプション)ものです。将来の価格を決めておくことによってリスクを回避しているわけです。ところが、未来は予測できないため、価格決めは高度な職人技でした。この職人技を誰でも使えるようにしたのが数学の力です。数学が金融の世界に起こした革命について、辻井芳樹先生にお話しいただきました。

リスクを選ぶ自由

 みなさんは金融工学という言葉にどのような印象を持っていますか?「何か得体の知れないもの」「素人に分からないようにお金を操作している」 — 昨年からの世界的な金融危機を目の当たりにしたみなさんのなかには、このように考える人もいるかもしれません。

 しかし、それは金融工学自体の問題ではなく、一部の行き過ぎた人たちが招いた結果に過ぎません。数学がもたらした金融革命の本質は、金融の世界に「リスクとは何であるのか」「将来の売買の権利はいったいいくらが適正なのか」といった、客観的な定義と基準を確立しました。このことが意味するものは決して小さくありません。かつて、金利変動や為替変動、商品価格の騰落にともなうリスクは国家や銀行といった大掛かりな組織にしかコントロールできませんでした。金融工学はそれらのリスクの正体を明らかにし、リスクを回避するための適正な価格を付けたのです。これにより、民間企業でも個人でもしかるべき対価を支払うことでリスクを回避することが可能になりました。

 言い換えれば、私たちはリスクをとるのか回避するのかを選ぶ自由を得たのです。この金融工学の一大革命で中心となったのは、ポートフォリオ理論とオプション理論です。

ポートフォリオ投資家は期待値で株を買わない

図1

 ポートフォリオ(portfolio)とは本来「紙挟み」を指す言葉です。1つの紙挟みにたくさんの書類をまとめて挟むことから、資産をいくつもの株や債券などに分けて投資することをポートフォリオと呼ぶようになりました。

  ポートフォリオ理論の考え方の基になっているのは人類が大昔から持っている知恵 — 「1つの籠に全部の卵を入れるな」です。卵を運ぶとき、1人より2人、2人より3人に分けて運ぶほうが安全だという知恵です。

 この考え方を期待値によって表すと次のようになります。ここでは運ぶ卵は12個、1人の人が籠を落とす可能性を10%としています。

  籠が1つであっても3つであっても割れずに残る卵の期待値は同じになりました。それでも籠を3つに分けたほうがいいと私たちは直感的に知っています。実際に投資家も同じように分けて投資しています。

 両者の違いを「分散」を用いて説明したのが、アメリカの経済学者マーコビッツ(Harry Markowitz 1927-)です。彼は、漠然とした存在だった投資のリスクを分散の大きさによって説明しました。

リスク・リターン・フロンティア

図

 マーコビッツのポートフォリオ理論以前、経済学の教科書ですら「株価は投資家の期待感によって決まる」と書かれていました。しかし実際には、投資家は期待感が大きい株だけではなく、卵の籠を分けるように、さまざまな銘柄の株に広く投資します。

  彼は教科書の説明に疑問を抱き、なぜ投資家は期待感の大きい株だけに集中して投資しないのか、ということを説明する理論を打ち立てたのです。

  図1はマーコビッツが描いた「リスク・リターン・フロンティア」と呼ばれるものです。証券Aと証券Bの2つに分けて投資した場合のリスクとリターンの関係を表しています。証券Aは低リスクで低リターン、証券Bは高リスクで高リターンになっています。証券Aと証券Bをどの割合で組み合わせるかによって、投資家の資産全体のリスクとリターンが2点を結ぶ線上に示されます。AとBを結ぶ線は直線AB、線ACB、曲線AC’Bの3本ありますが、それぞれ「証券Aと証券Bが同じ値動きをする場合」「逆の値動きをする場合」「両者が独立な値動きをする場合」に対応しています。

 直線ABではリスクを小さくしつつリターンを大きくすることができません。線ACBでは点Cにおいてリスクを最小にでき、かつリターンは証券A単独の場合より大きくなっています。しかし、実際の市場では、完全に逆の値動きをする証券を見つけ出すことはほとんど不可能です。そのため、実際には曲線AC’Bのような値動きとなります。投資家はC’Bのどこかにくるような組み合わせを好みます。たとえリターンが小さくとも証券Bとは違う値動きをする証券Aを購入し、組み合わせることによってBC’を実現させるのです。

 マーコビッツはこの研究成果により1990年ノーベル経済学賞を受賞しました。

オプション理論将来の価格変動リスクの値段は?

 オプション(option)とは選択という意味です。将来の取引の権利を購入しておき、その期日に、実際に権利を行使するかどうかを選択することができるため、このように呼ばれています。

 たとえば、現在1000円の株を1年後に1080円で買う権利を購入したとしましょう。1年後の株価が1300円に上がっていても、権利を行使して1080円でその株を買うことができます。逆に株価が900円に下がっていれば、権利を行使しなくても構いません。その場合は最初に支払う権利料だけの損失で済みます。将来買う権利のことを「コールオプション」、売る権利のことを「プットオプション」と呼びます

 リスクを回避するための金融商品として、理論が作られる前から取引されていたオプションですが、適正な価格(権利料)がいくらなのかはディーラーのカンと経験に頼るしかありませんでした。予測できない未来の株価から、いかにして現時点の権利料を決めるのかがたいへんな難問だったのです。数学を駆使してこの問題の解を導いたのが、ブラック(Fischer Black,1938-1995)とショールズ(Myron S.Scholes,1941-)です。

 彼らが完成させた「ブラック-ショールズ方程式」は1997年にノーベル経済学賞を受賞しています。※1 オリジナルの方程式は少し専門的になるため、後年になって考えられたより簡単な方法を使ってそのエッセンスをお伝えしましょう。

 先ほどの株価を用いれば、1年後に1300円に上がったとき、行使価格1080円のオプションの価値は、1300円-1080円=220円となります。1年後に900円に下がったとき、権利は行使しません。したがって、行使価格1080円のオプションの価値は0円です。

 このオプションと同じ価値を持つ複製資産を、株と借り入れによって作ることを考えます。まず、1300円に上がる場合、この株をx株売って得られる金額と返済額y円の差額が、オプションの価値220円になるためには

1300 x-y= 220

という式が成り立つことが必要です。

 次に、900円に下がる場合は同様にして残り0円になればいいので

900 x-y= 0

という式が成り立つことが必要です。

 この連立方程式を解けば

x= 0 . 55
y= 495

が得られます。

 y=495円は1年後の返済額なので金利を10%とすると、495÷1.1=450円で450円が借り入れ額となります。

 現在1000円の株を0.55株だけ買うわけですから、1000×0.55=550円。450円を借り入れるので、この複製資産を作るために必要とされる資金は550-450=100円となります。この100円がオプションの値段なのです。※2

 ポートフォリオ理論のときと同じように、ここでも将来の株価の期待値はオプション価格に影響を与えません。たとえ1300円に上がる確率が90%であっても、オプション価格は100円なのです。ブラックたちも最初、確率が影響しないことに疑問を抱き「自分たちの理論は間違っているのではないか?」と考えたそうです。ところが現実のオプション価格に方程式を当てはめると、その通りになっていたのです。

 数学はそれ自身が学問として面白いだけではなく、人類の知恵や直感に論理的な説明を与えたり、誤って常識だと思い込んでいたことを根本から覆したりする力を持っています。特に確率の分野は、現実の世界を説明するのに役に立つ、非常に強力な学問なのです。

※1  「ブラック-ショールズ方程式」の業績では、数学的な厳密な証明を加えたロバート・マートン(Robert Cox Merton,1944-)もノーベル経済学賞を受賞した。

※2 複製資産を作るための資金とオプションの権利料が同じになることは、「裁定取引が存在しない」という原則から説明できる。裁定取引とは、同じ商品に異なる値段が付いている場合(たとえば、A銀行で1ドル=100円、B銀行で1ドル=120円の場合、A銀行で円からドルに換えてB銀行でドルから円に換えれば利益を得られる)など、リスクを負わずに利益を上げられる取引のこと。株式市場や為替市場など、参加者が多く常時大量に取引が行われている市場にはこのような取引は存在しないとされている。オプションの複製資産はオプションとまったく同じ商品価値があるため、原則に従って同じ値段になる。

ノーベル賞に貢献した日本の数学者

 ノーベル経済学賞を受賞した「ブラック-ショールズ方程式」は、数学的な基礎の部分に「伊藤の定理」が使われています。「伊藤の定理」は日本人数学者・伊藤清(1915-2008)の業績です。

 直線や規則性を持つ曲線は方程式で容易に表すことができますが、株価の動きのようなまったくランダムな曲線は方程式にするのが難しかった。「伊藤の定理」は確率論的な動きを積分することで、ランダムな曲線を方程式で表すことを可能にしました。

 伊藤清先生は2006年にガウス賞の第1回受賞者となりました。同賞は社会の技術的発展や日常生活に対する優れた数学的貢献を行った研究者に贈られる国際的な賞として創設されたものです。

理学部 数理科学科 辻井 芳樹教授

プロフィール

理学博士。専攻分野は、確率論、解析学における計算可能性。現在の研究テーマは、フラクタルと多期間ポートフォリオ。現実社会のなかで数学が際立って役立つ分野として数理ファイナンスに関心を抱く。金融工学については「儲からないことを確認するための学問」と皮肉を言いつつも、「高級すぎる数学理論に金融界が浮かれていた部分がある。世界的な危機でその熱が冷めて、これからが真価の試されるとき」とも。私立甲陽学院高校OB。

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