分子メカニズムで解明される生物発生の謎
—原がん遺伝子が作るタンパク質の意外な働きに注目—

工学部 生物工学科 佐藤 賢一教授

原がん遺伝子が作るタンパク質の意外な働きに注目

 不死の細胞と恐れられるがん細胞。しかし人間をはじめ、有性生殖を行う生物にはもう一種類、違った意味での不死の細胞があるのではないか、こう言われるのが分子生物学を研究する佐藤先生。生殖を司る卵と精子は、命を受け継いでいくという意味において不死の細胞ではないかと言われるのです。さらに、佐藤先生はこの生命の誕生にかかわる生殖細胞と、死にかかわるがん細胞とに共通に働く分子機構、すなわち遺伝子やタンパク質の働きがあるとも指摘されます。最新の研究成果をお聞きしました。

生命誕生の不思議

イメージ

 人間の体は、約60兆個の細胞から成り立っています。しかし次の世代を作るための受精・発生の際には、たった一つの精子または卵に全てを託します。高度な機能を備えた多細胞生物が、なぜ単細胞生物と同じような原始的な状態に戻り、そこから体を作り直すのか、生物学者ならずとも不思議に感じるのではないでしょうか※1。「受精」は有性生殖を行う多細胞生物が、精子と卵という2つの生殖細胞を合体・融合させて子孫を作り出すしくみです。生物が雄と雌、男と女の2つの性別に分かれていることも、当たり前のようですが、生命科学の研究では大きな謎です。

 古くギリシア・ローマの時代から、人は新しい生命の誕生の謎について考えてきました。ギリシア神話の全能の神ゼウスが他の動物と同じように人間を作ったと考えられていた時代もあり、ゼウスが持つ大きな卵から人間やいろいろな動物、そして植物が生まれてくる様子が描かれた絵が残っています。

 いっぽう、レーウェンフックらが顕微鏡を発明したことで、より小さな生殖細胞である精子が発見されました。その当時、精子の中にいる“小さな人”が、栄養豊富な卵の中で次第に大きな人間(赤ん坊)になっていくのではないかと考える人もいました。このようなエピソードは、今では笑い話に聞こえるかも知れませんが、ひとは生命誕生の仕組みに神秘性を感じつつ、卵や精子と発生の謎との関係性を追い求めてきたのです。この謎の解明を現代において託されているのが分子発生生物学です(コラム)。

※1 つくりは全く違いますが、がん細胞も条件さえ揃えばいくらでも自己増殖するという点で単細胞のバクテリアと同じです。

命の不思議について、別の角度からも考えてみよう

 約400年前の江戸時代の始め、当時の日本の人口は約2000〜3000万人、そして100年で3〜4世代が交代するとして、逆トーナメント方式で遡っていくと、みなさん1人に対して数万人の人たちがかかわっていることになります。なんと約1000人あたり数人という計算になります。こう考えると街ですれ違う人々が何か他人でないような気さえしてきませんか。

きっかけは原がん遺伝子の研究

 私の受精・生殖研究との出会いは、がんに関係する遺伝子の研究がきっかけです。

 がんの原因遺伝子、別名がん遺伝子は、約100年前に発見されたトリに肉腫を作るウイルスの研究から見つかりました(→1966年のノーベル生理学・医学賞)。ウイルスは、感染した細胞のゲノムの中へ入り込み、ゲノムから再び出る際に近くの遺伝子、あるいはその一部を持ち出してしまうことがあります。このトリ発がんウイルスも、がん遺伝子を最初から持っていたわけではなく、トリの細胞にもともとあった遺伝子を変異した状態で持ち去ったのだと考えられています。この最初に発見されたがん遺伝子はサークと名付けられました。

アフリカツメガエル

 分子生物学が急激な進展を見せだした1970年代以降、がん遺伝子サークとよく似た遺伝子がヒトなど多くの高等生物の細胞の中にも見つかりました(→1989年のノーベル生理学・医学賞)。この体の中の細胞にあるサーク類似の遺伝子は、細胞をがん化する能力を持っておらず、区別するために原がん遺伝子サークと呼ばれています。条件次第ではがんを引き起こす原がん遺伝子が、正常な細胞ではどのような機能を持っているのか?それが、どういう変化や変異を起こすことで、細胞ががんになってしまうのか?このようなことに興味を持っていた私は、指導教員の勧めもあって原がん遺伝子サークの機能をアフリカツメガエルの卵細胞を使って調べてみることにしました。そこから受精・生殖についての研究が始まったのです。

細胞の中で情報はどのように伝えられるのか

研究していく中で、受精直後の卵では、それまでに知られていない分子機構が働くことがわかってきました。原がん遺伝子サークから作られるタンパク質(サークタンパク質)は卵の細胞膜の内側に存在しています。サークタンパク質はタンパク質を構成するアミノ酸の一つ、チロシン残基にリン酸をくっつける(タンパク質チロシンリン酸化)酵素活性を持っています※2。この活性が精子と卵の接着・融合の瞬間(数分以内)に、一時的に上昇することがわかりました。いっぽう、卵に細工をしてその活性化を予め抑えておくと、精子は卵に接着しても細胞の内部へは進めず、受精の成立に至りませんでした。そこで私は、サークタンパク質の酵素活性が、受精の成否にかかわっているのではないか、と考えました。

 リン酸化されるアミノ酸には3種類(セリン、トレオニン、チロシン)ありますが、サークが触媒するチロシンリン酸化は、主に細胞膜周辺のシグナル伝達反応に関わっています。タンパク質リン酸化反応は、その発見に対して1992年にノーベル生理学・医学賞が与えられるなど、翻訳後修飾の中で代表的かつ重要なものです。

 細胞の外からのシグナルは、細胞膜※3の表面に顔を出しているタンパク質や糖鎖でキャッチされ、その情報が細胞の中のタンパク質のチロシン、あるいはセリンやトレオニンのリン酸化という反応などを通じて伝達され、細胞の中へ中へと伝えられます。特定のタンパク質の特定のアミノ酸がリン酸化されるか、されないかの違いは、デジタル信号のように働き、最終的に核の中のDNAに伝えられます。そしてDNA上の特定の遺伝子が働くことで、新たな指令が細胞内へ発せられるのです(右下図、コラム「もっと詳しく」)。

※2 細胞が増殖・成長し、組織や器官が形成・維持されていくにはさまざまな生命情報(シグナル)が細胞の核に伝えられ、遺伝子・DNAからRNAが作られ(転写)、さらにはタンパク質が合成(翻訳)されることが必要です。多くのタンパク質は、その一部のアミノ酸に糖鎖やリン酸などの化合物がつく翻訳後修飾と呼ばれる反応を経て働き出します。

※3 細胞膜マイクロドメイン:マイクロドメインとは全体構造の中の微小な部分構造・領域のことです。最近では、細胞膜は一様なものではなく、コレステロールなどの脂質成分や特殊なタンパクや糖が部分的に密集して、それが点在するような構造を持っているのではないか、そして、そこが細胞内外のシグナルの受信や伝達のための足場になっているのではないかと考えられています。

原がん遺伝子の作る酵素が受精を助ける?

 サークははじめは、発がんウイルスが持つ遺伝子あるいはタンパク質として見つかりました。しかし原がん遺伝子サークから作られるタンパク質のほうには、受精成立に必要な機能があるということがわかりました。同じ、あるいは互いによく似た遺伝子でも、働く細胞が違えばその結果も大きく違ってくるのです。

 現在私は、ヒトのがん細胞を使った原がん遺伝子サークの研究も続けています。あるがん細胞には正常な細胞と違って、酸素や栄養の少ない状態でも死ににくい性質があります。しかしサークの酵素活性を抑えると、このがん細胞は速やかに死んでしまうことを発見しました。この場合、サークはがん細胞が正常細胞なら生きることの出来ない厳しい生育環境の中にあっても生存していけるのに大事な働きをしていることになります。生殖・受精とがんとは、一見は正反対の結果をもたらしますから、その分子機構も全く異なるように思われるかもしれません。しかし分子・細胞レベルでみれば、がん細胞と卵の両方で同じ原がん遺伝子サークが、細胞の死を避ける働きと、生存する、そして生育するといった両方の働きに関わっているという見方も出来るのです。この仮説をさらに確実なものとするためにはがん細胞と卵のそれぞれで、サークとともに働く遺伝子やタンパク質をもっと見つけていかなければなりません。

 受精と生物発生の世界は、分子レベルの研究が可能となった現代においても私たちに新しい驚きと新しい謎を与えてくれています。

プラスコラム

もっと詳しく

 受精の成立に関わるシグナル伝達について、これまでにわかってきたもう少し詳しい話をします。精子が卵の細胞膜に接着すると、タンパク質分解酵素を出します。そして、卵側の精子受容体のひとつと考えられているウロプラキンVというタンパク質を切断します。その信号が何らかの形でサークの活性化を誘導し、サークはホスホリパーゼCγという分子をリン酸化します。この分子は細胞膜のある脂質を分解してイノシトール3リン酸(I P3)という物質を産み出します。するとIP3は小胞体に働きかけて、貯蔵されているカルシウムイオンを細胞内へと放出させます。このカルシウムイオンが、様々な生化学反応を同時に誘導します。これが《卵活性化》と呼ばれる現象です。受精直後に卵内のカルシウムイオンが一時的に増えることは多くの生物に普遍的な現象として知られており、私達の研究はその分子メカニズムの解明に役立ったことになります。活性化された卵では受精膜ができ、2個目以降の精子は入れません。そして卵の持つ母方由来の核・ゲノムが、精子が持ち込んだ父方由来の核・ゲノムと合体融合して、受精が成立するのです。

受精のシグナル伝達メカニズム

フューチャー

卒業したら

 できてからまだ2年目という私の研究室では、今年度はじめて卒業生が巣立ちます。いま研究室にいる4年生5人のうち大学院進学と就職が半々くらいです。

アドバイス

高校生へのメッセージ

 好きなことをプロとしてやっていきたいのだったら、その道を早くから志すにこしたことはありません。もちろん好きなことがなかなか見つからない人もいるでしょう。私もどちらかというとそのタイプ。好きな教科、好きなことが見つかったら徹底的にやることです。授業や試験と直接関係がなくても、面白そうなら本を買って読んだりするのが、自分にとっては楽しく効果的でした(まだインターネットのない時代で本しかなかった)。もう一つアドバイスしておくと、生物学は物理学や化学などの要素を取り込んだ複合的な学問ですから、どの科目の勉強も役に立つということです。受験については、これはある種のトレーニング・訓練だと考えて、しっかりと取り組んでもらい、とにかく早く抜け出すことですね。

工学部 生物工学科 佐藤 賢一教授

プロフィール

生物学に進むきっかけになったのは高校1年時のクラス担任の先生(生物)の授業が楽しく、またよく出入りしていた部活部屋にいた先輩からも強く勧められたから。高校入学当初までは自分は文系だと思っていたのが、高校でガラッと変わったから不思議だという。小・中学校時代までは生物中心に理科が好きだった、という話をよく聞くが、先生の場合はその反対のようだ。神戸大学理学部生物学科から大学院博士課程を経て助手に。平成19年度から本学准教授、そして平成20年度より現職。北海道立札幌西高校OB。

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