米中上海コミュニケ発出40周年記念シンポジウム出席の記

2012年2月11日
世界問題研究所所長 東郷 和彦

 2月3日から7日まで、京都産業大学と上海社会科学院の交流協定署名のため、藤岡学長に同行して、上海に出張した。

 その時、図らずも、大変興味深い、歴史的なイベントに参加することになった。米中上海コミュニケ発出40周年記念シンポジウムに参加したのである。

 読者の記憶を呼び起こしていただきたい。
 1971年7月15日、ニクソン大統領は、翌年の中国訪問を発表した。キッシンジャー安全保障補佐官の極秘裏の北京訪問による周到な準備を経た発表であり、世界は驚愕し、日本は「ニクソン・ショック」として強い衝撃をうけた。
 ニクソン大統領の歴史的な中国訪問は、1972年2月21日から行われ、北京での毛沢東、周恩来との類似の会談のあと上海を訪問し、その成果は、2月27日上海で「米中共同声明」、後に「上海コミュニケ」と呼ばれる文書に結実した。
 双方の国際社会に対する認識を詳細に述べ、最も難しかった台湾問題について、「米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない」という世界外交史の中の最高傑作のひとつとも言われる表現で合意ができた。
 今後の両国関係については、「両国の関係正常化を進めるための具体的協議を行なう」ことが合意され、1979年1月1日の米中外交関係の開設につながった歴史的な機会であった。

 40年前の上海コミュニケの採択を記念した記念シンポジウムが、その時にコミュニケを署名した「上海錦江」会館の「小礼堂」をそのまま使って、2月6日の午後2時から4時まで開かれる、そこに一緒に参加しないかという提案が私のカウンターパートである劉鳴・上海社会科学院アジア太平洋研究所長からとどいた。
 今回訪問の主要日程である交流協定の署名式はちょうどそのあと「上海錦江」から歩いて10分の社会科学院で午後5時から開かれる。大変珍しい会合への招待でもあり、藤岡学長と相談のうえ、ありがたくお受けすることにした。
 さて、劉鳴所長と一緒に2時15分ほど前に会場についてみて驚いた。シンポジウムの形で大ホールに並んだ列席はもうほとんど満員、一目見たところでは、少数のアメリカ関係者以外は、すべて中国の要人、研究者、マスコミの人々でうまっているようであった。
 劉所長が手配しておいてくれた席に座り、間もなく、挨拶とパネル討論に出席する主要参加者が入場してきた。全体会合の司会は、Yang Jiemian上海国際問題研究院院長、来賓として、上海市副市長、上海市社会科学界連合会党書記、在上海米国総領事の3名が先ず挨拶を行った。
 その後のキーノートスピーチは、中国外交部から崔天凱副部長(副大臣にあたる)、上海市米国学会黄仁停会長、リチャード・ソロモン米平和財団理事長、クリストファー・ヒルズ・デンバー大学国際関係学部長の4名によって行われた。
 在上海米国総領事は、過去40年にわたり、まったく何もなかった両国関係が今いかに幅広く層の厚いものになっているかをたくさんの数字をあげて説明、総領事としての立場からも、「良いニュース」のみを語るものだった。

 しかし、その後のキーノートスピーチは、いずれも現下の米中関係の全体像にわたる興味深い内容のものだった。練達の外交官であったソロモン(キッシンジャーとニクソンの訪問を準備したチームの一人)ヒルズ(6者協議代表を長く務め、日本でもなじみが深い)の発言は元より、中国側の発言もまた、現下の米中関係を反映して、大変示唆に富むものだった。
 すべての発言が、40年を回顧していかに両国が今の世界で重要な位置にあり、如何に両国関係がそれぞれの国にとって、また、世界にとって重要な意味をもっているかを強調していた。同時に、両国がぶつかる権益があり、その分野では自分のやり方を通すのだという、ピリピリした緊張が流れていた。
 崔天凱副部長「両国関係は、相互信頼により健康な安定化に向かうべきであり、層の厚い対話がくりひろげられているが、欠陥もある。しかし、両国関係は、失敗するにはあまりにも巨大であり、お互いに相手の核心的な利益を損なわないことが必要である」「近来太平洋地域では、朝鮮半島・日本の災害・地域経済協力等、米中の協力により積極的な成果があげられているものも多い。太平洋西部で情勢の変化がうかがわれるが、ここで起きているトラブルは中国が欲したものではない」
 ソロモン大使「両国関係のこれまでの大きな発展をみれば、現下の国際情勢を、分裂した極によって構成する国際社会においやってはいけない」「米中正常化以来80年代末まで米中の協力は上る一方だったが、90年代以降様々な問題もでてきた。今や中国はおしもおされぬグローバルな経済大国となったが、政治的な側面からは、まだ解決できていない様々な問題がでてきている。核製造技術の拡散・サイバーセキュリティーの安全確保・軍事力の近代化・米国が安定勢力として勢力の均衡を達成しようとしていることへの理解など、これからの両国にとっての課題は多い」
 ヒルズ大使「米国は中国を包囲しようという意図はまったくもたない。またアジア太平洋地域の諸国が、米中いずれかを選ばねばならないような立場に置くこともまったく欲しない。しかし、東南アジア諸国にとって中国は余りにも巨大だし、彼ら自身おおくの問題をかかえており、中國自身がいかに多くの問題をかかえているかも十分には理解できていない。そこで、米国は、これら東南アジア諸国から、地域の安定を確保するための勢力として、この地域におけるプレゼンスの強化を求められているのである」

 そういう緊張感あふれる応答のなかで、取り分け私が関心を持ったのは、ソロモン大使が述べた台湾問題に関するくだりだった。
 大使はまず、上海コミュニケ作成時の経緯にふれたところで、「毛沢東主席とニクソン大統領がこの件を話し合った時に、毛主席は、本件について急ぐ必要はない。100年かければ解決するだろうと述べた」とユーモアたっぷりにのべた。そして最近の情勢について述べた全体の総括に入ったところで、「台湾海峡をめぐる情勢も大きく変わってきている。最近は非常に生産的な動きがでてきている。毛沢東は100年かかると言ったが、未来を見れば、政治解決への希望が強まっている」と述べたのである。
 予定通りキーノートスピーチが終わり、3時半を過ぎた所から、聴衆との質疑応答が始まった。中国人でもアメリカ人でもないのは私一人であることはほぼ確実だったので、せっかくの機会であり、一言発言せざるべからずと考え、後部座席から何回か手を挙げ、司会の国際研究院委員長から指名をうけた。 概ね以下のようなことを発言した。
 「私は、東郷和彦と申し、日本外務省に勤務した後、今京都産業大学で教えているものです。本日は、米中の記念式典にフロアから参画できて大変光栄です。40年前ニクソン大統領の中国訪問は日本にとってあまりにも衝撃的であり、その衝撃が余りにも強かったので、田中総理率いる日本政府は、その年の九月、アメリカに先立つところ7年早く中国との間に外交関係を設定しました。
 当時から40年米中がこうやって相互理解を深め地域と世界の平和を強化するために努力しておられることは、素晴らしいことです。日本も他の国と同じように米中どちらかを選択せざるを得ないようなところに追い込まれたくはありません。
 その観点から、崔天凱副部長に一つ質問があります。
 私はさきほどソロモン大使が述べられた台湾に関する発言は、大変思慮深いものと受け止めました。毛沢東主席が、100年かかってもと言われたことを紹介し、現下の情勢とこれからの展望を見事にとりまとめられました。
 貴副部長は、この発言をどう思われましたか?」
 瞬間壇上で小さな混乱が起きた。どうも、ソロモン大使が私の質問の趣旨を、同時通訳を通じて聞いていた副部長にもう一回説明しているようだった。
 副部長が答える。今度は中国語から英語への同時通訳だから、一抹聞き取りにくい。でも「毛沢東が100年といったのは、大政治家の常として彼は詩人で哲学者だったからである。100年というのは、時間がかかるということを示めしていたのであり、正確な年数を言ったわけではない」というようなことを言ったようである。
 そうしたら、フロアから反応があった。Shen Dengliという私がこれまで上海で最も親しくしていたフーダン大学アメリカ研究所副所長がすぐに手をあげて発言した。
 「中国にとって台湾問題はだんだんと大きな負担を引き起こすものであり、決断をもって解決できないかという意見を表明する人が増えている。アメリカ側の参加者の中に、この問題について勇気と決断をもって一挙に解決するためのリーダーシップをとる人はいなのでしょうか?」
 今度はソロモンとヒルズが壇上で相談している。答えはソロモンがすることになった。
 「アメリカには、Why to try to fix it when it is not broken(折れてもいないのになぜ直そうとするのですか)という諺がある。この問題もまったくそう思う。さきほども述べたように現下の両岸関係は、たくさんの肯定的な事柄が起きている。これを時間をかけて進めていくのが最善と思われる」

 誠に考えさせられることの多いシンポジウムであった。4時過ぎに終了したあと、雨の中を、劉教授と一緒に交流協定署名式の行われる上海社会科学院へと向かった。
(了)

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