京都産業大学建学の理念――その三つの源泉:荒木俊馬、作田壮一、若泉敬

開催日時 2015年10月28日(水)15:00〜18:00
開催場所 京都産業大学 第二研究室棟 会議室
報告者 溝部英章(本学法学部教授)

発表概要

発表の趣意

 本報告では「本学建学の理念的考察」を行う。そもそも本学建学は関係者以外には意味のないものだったのだろうか。

建学理念の体現者たち

 本学は「法経理工」から成る総合大学として建学された。荒木俊馬(1897-1978)は、ナショナリズムに基づき国単位の競争を通じて国に貢献する司令塔としての大学を実現するために、「科学技術立国」の理念を掲げ、作田壮一(1878-1973)の「産業立国」の理念を継承した。そのような競争の中においても、全体秩序を可能にするために、岩畔豪雄(1897-1970)・若泉敬(1930-1996)や大石義雄(1903-1991)の「法と秩序」の理念も重要視した。

 荒木の理念は「教養の専門に対する優位」にあり、人間形成を重視したが、これに反し、大石が大学院(=法学研究科)創設に向かい、国際政治学部門も外国語学部に再編された。岩畔はその前に亡くなっており、佐藤首相の密使を務めていた若泉は世界問題研究所兼東京事務所長となり、法学部から去った。荒木による教学改革の試みも挫折して、本学は専門学部優位の普通の大学となってしまった。

本学創立の特質、新制大学への改革を引き継ぐ南原繁と荒木俊馬

 そもそも大学は教育機関である以上、理念的存在として人限形成の問題を免れ得ず、専門重視か教養重視かという問題が常に付きまとう。明治以来、帝国大学=専門教育、旧制高校=教養という巧妙な分業を採用してきたが、戦後になって、633制と4年制の新制大学へ制度改革が行われた。

世界変換を共に遊戯する連句

 連句がそうであるように、真の対話は、どちらかの参加者の発言によって一方的に備えた意味世界において行われるのではなく、参加者の間で行われる「諸世界‐変換‐遊戯」の出来事なのである。そしてその遊戯を可能にするのは、共に「言葉から出て言葉に出る」ことである。

‐南原繁

 この改革をリードしたのが最後の東京帝大総長である南原繁(1889-1974)であり、明治以来の少数エリート主義構造の打破と国家ベースの底上げのための教育の民主化が必要であるとの認識があった。
 南原の教養理念が普遍的人類的理想(コスモポリタニズム)に立脚したものであり、平和と民主主義の立場からの現実批判の態度を終始一貫させたことから、「批判的」大学であること、すなわち「反政府的ポーズ」を身に着ければ、大学卒らしい知性を身に着けたというイメージが生まれた。60年代後半には「批判的」であることがポーズに過ぎないことを批判し「自己否定」を唱える新たな学生運動が起こった。

‐荒木俊馬

 荒木はじつは新制大学を支持した。高等教育を大衆化する必要を認識していたからである。方向としては正しい新制大学が、偏向教育と学生運動の巣窟になってしまったことを批判した。南原のコスモポリタン的理念に対し、荒木は、(1)20世紀の科学技術はすでにこの時代から国家が組織化して人員を配置し、予算を投入するものになっており、(2)少数の天才が発明発見して、自然の謎(自然に内在する理性)を解明するという時代ではなくなっていた、すなわち、科学技術が国家的、集団的な営みとなっていたことから、国家貢献による主体性の涵養というナショナリズムに立脚した理念が必要だとした。

 大学が何よりも理念的存在である以上、本学創立に際してその中心に荒木がいたことは明瞭であり、清水一行の小説『虚構大学』の中で描かれる荒木像は間違っている。
 また、1960年代は大学を「作れば当たる」時代であり、経営的利益を目論んだ創設であったという俗論も誤りである。少なくとも創設に当たっては、本学は成否を度外視した真剣な理念実現の努力の結実であったからである。

おわりに

 高等教育の大衆化という戦後新制大学の理念(南原がその実現のリーダーであった)を批判的に継承する形で、荒木がナショナリズムに基づき本学を創設したが、大学確立後は、この人間形成理念は色褪せていき、単に反抗しないだけの有用な人材を生み出すことになってしまったように思われる。

PAGE TOP