コンピュータ理工学部 コンピュータサイエンス学科 鳥飼 弘幸 教授

生物の脳や感覚器が持つ高度な機能をLSIハードウェアに再現する

生物の脳は、極めて高度な機能を備えています。また耳などの感覚器の仕組みも、極めて精緻なものです。これらに共通するのが、いずれも非線形システムであること。生物の非線形システムが持つ高度な機能をLSI上に再現するためのハードウェア設計に取り組んでいます。

非線形な神経細胞の動作の仕組みを再現する

 世の中のシステムは、大きく二つに分けることができます。線形なシステムと非線形なシステムです。線形なシステムとは、例えばAを入力すれば結果aが出力され、Bを入力すれば結果bが出力されて、A+Bを入力すれば結果a+bが出力されるようなシステムです。
 これに対して非線形システムとは、a+bを入力すればA+BではなくCが出てくるようなものを指します。人間が作る人工物の多くは、線形システムの考え方を基本にして設計されています。その理由は、線形システムのほうが圧倒的に作りやすいからです。ところが生物の本質は非線形性です。そのために生物の機能を再現するためには、非線形なシステムを設計する必要があります。
 その究極のテーマが脳です。脳の機能を神経細胞レベルでLSI(大規模集積回路)に再現するためには、神経細胞やその結合系が備える極めて強い非線形性を理解した上で、その機能をハードウェア上に再構成する必要があります。神経細胞は、イオンチャネルと呼ばれるイオンが通過する通路の非線形性を巧みに利用して、神経スパイクと呼ばれる電気信号を発生させています。また、神経細胞間で情報をやりとりするための結合として、化学物質を媒介にしたシナプス結合や、イオンが細胞間を直接移動するギャップ結合などがありますが、それらの結合の仕組みも非線形性を持っています。ですので、脳の機能をLSIに再構成するためには、神経細胞とその結合の動作の仕組みの背後に潜む非線形なメカニズムを再現しなければなりません。

失われた脳機能をLSIで補完する


内耳の非線形音声信号処理の仕組みの一部を
再現する電子回路(下)と測定波形(上)

 脳機能をLSIで再現する際に、一つ重要なポイントがあります。それは、LSIを構成するトランジスタが本質的には非線形性を持つこと。通常のLSIは、本来非線形なトランジスタに無理やり線形性を持たせて設計されています。その理由は、線形的なシステムのほうが扱いやすいからです。
 そこで、我々はLSIの原点に立ち戻り、その非線形性を活かすことで脳に近い回路設計に取り組んでいます。例えば脳の中では、神経細胞同士が、時々刻々相手を変えて結合しています。結合する相手だけでなく、結合の強さもどんどん変化しています。こうした現象は、動的再構成と呼ばれます。
 最新のLSIをうまく使えば、この動的再構成を実現できます。最新式のビデオカメラなどでは、内部のロジック回路を動的に再構築するメカニズムが試験的に取り入れられている事例もあります。撮影中に特定ブロックの回路構成を変えて、外部の明るさに適応しているのです。
 外部環境をセンシングしながら回路を書き換えるシステムは、外部からの刺激に対して脳が実行しているメカニズムとまったく同じ。だから、もし脳細胞を代替できるLSIチップを作ることができれば、例えばアルツハイマー病などで失われた脳機能を、電子回路で補完できる可能性が出てきます。アメリカの研究グループなどでは、既にこのような脳機能を補完するためのチップの開発が始まっています。

非線形な内耳の動作の仕組みを再現する

 もう一つ、LSIの非線形性を活用して取り組んでいるテーマが、耳の機能を再現すること。耳は、外耳、中耳、内耳に分かれ、音声信号処理の本質的なものは、内耳にある蝸牛と呼ばれるカタツムリのような形をした器官で実行されています。音波によって鼓膜が振動し、その振動は3つの骨を介して蝸牛に伝えられ、蝸牛内を満たすリンパ液の振動を引き起こします。リンパ液の中には、基底膜と呼ばれる細長くて薄い膜があり、音波に連動して振動します。基底膜には、有毛細胞と呼ばれる、毛が生えた細胞が無数にくっついており、音波に連動してその内部に電気信号を発生します。有毛細胞には、螺旋神経節細胞と呼ばれる、信号の伝達に特化した細胞が接続しており、有毛細胞の内部に発生している電気信号を神経スパイク列へと変換して脳に伝えています。このような、音波から神経スパイク列への一連の変換の仕組みは、強い非線形性を持っています。さらに、別の種類の有毛細胞が存在し、非線形な制御も行われています。このような、内耳が持つ非線形の仕組みをLSI上に再現するためのハードウェア設計に取り組んでいます。

より高性能な人工内耳や音声信号処理チップ

 聴力を失った患者さんのために、既に人工内耳が開発されています。これは保険適用もされており、日本でも年間600人くらいの方が手術を受けられています。聴力を失った場合でも、螺旋神経節細胞が脳へ音の情報を伝える機能は残っている場合が多く、その場合、内耳と同じ動作をする人工内耳を埋め込むのです。人工内耳の基本的な機能は、音を電気信号に変換して、聴神経を刺激すること。ただ、現状の人工内耳は、内耳の非線形性を正しく再現した信号処理が行われている訳ではなく、本来の耳が持っている非線形な音声信号処理の仕組みを完全に代替することはできないのです。そのために、例えば一部の子音を聞き取るのが難しいなどの問題があります。そこで、内耳の非線形音声信号処理の仕組みを再現するLSIの開発に取り組んでいます。また、人間の非線形音声信号処理の仕組みを応用した、スマートフォンなどへ搭載するための高性能な音声信号処理チップの開発にも取り組んでいます。

コンピュータ理工学部 コンピュータサイエンス学科 鳥飼 弘幸 教授

1999年〜2007年 法政大学工学部情報電気電子工学科 助手
2007年〜2013年 大阪大学大学院基礎工学研究科 准教授
2013年〜現在 京都産業大学コンピュータ理工学部 教授
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