外国語学部 言語学科ロシア語専修 北上 光志 教授

揺れている感情をつなぐものに私は注目した。敬語の表現にしても、
副動詞にしても、言語学では揺れているところが一番のトピック。

完了体副動詞現在の語彙分類と感覚性の高い動詞との関係を調査した結果、特殊な副動詞が好んで用いられる現象が、
新たな言語学理論(「言語学の一般規則に反する現象が
他動性の低い現象に現われやすい」)の証拠を提示

外国語学部 言語学科ロシア語専修 北上 光志 教授

あいまいな言語使用の規則性を解明するのがテクスト言語学の醍醐味

 私の専門は、ロシア語・日本語におけるテクスト言語学です。文章の「まとまり」のことをテクストといい、テクスト言語学は、この「まとまり」を様々な角度から分析することで言語の本質を追求します。これは文脈の観点から言語現象を研究する学問です。文脈には話し手の感情が反映され、感情の表れ方は必ずしも安定していません。伝える意味は同じでも形が違う文(例えば、日本語の「手を伸ばして、本を取った」と「手を伸ばし、本を取った」)などに話し手の感情の揺れが多く見られます。このようなあいまいな言語使用の規則性を解明するのがテクスト言語学の醍醐味です。

 あいまいな表現を使い分けるときの書き手や話し手の心の動きはどうなっているのでしょうか。私は人間の感情と言語表現の関係に着目して研究しています。感情による言語表現の変化の規則性の理論化が研究のメインテーマです。怒りながら笑うことや笑いながら怒ることは、普通できませんが、涙を流すと怒りと笑いが共有できます。敬語の表現にしても、副動詞にしても、揺れている感情をつなぐものに私は注目しました。言語学ではこれが一番のトピックです。研究者たちはデータを出そうと鎬を削っています。

 私はソ連時代から、ロシア語形動詞の時制、ロシア語直接話法構文の談話的特徴、ロシア語形容詞の長短語尾形と敬語表現の関係、ロシア語副動詞の談話的特徴・異形態・主語の問題などについて、ロシア本国で数多く研究発表してきました。これらの研究が卓越したこと、また教育面で、本学とロシア国立プーシキン記念ロシア語大学との交流を深めたことが高く評価されて、2006年11月4日(ロシアの祝日「民族統一の日」)に、ロシア連邦政府からプーシキン・メダル(Медаль Пушкина)を授与されました。

  • 北上 光志 教授
  • クレムリン宮殿でのプーチンロシア連邦大統領(当事)と北上 光志 教授

    2006年11月4日クレムリン宮殿でのプーチンロシア連邦大統領(当事)と北上光志教授

特殊な副動詞が好んで用いられる現象が、新たな言語学理論構築の証拠を提示

 私がここ数年取り組んでいる問題は副動詞です。その一端を紹介しましょう。

 現代ロシア語では、完了体副動詞は動詞の過去語幹から形成されるものが規範とされています(以後、完了体副動詞過去)。ところが18世紀から19世紀にかけて、同じ意味を表す完了体副動詞二形、つまり完了体副動詞過去とその異形態の完了体副動詞現在(動詞の現在語幹から形成された完了体副動詞)が頻繁に用いられました。例えば、例文のUvide-v(完了体副動詞過去)とUvid-ja(完了体副動詞現在)がそれに当たります。

Uvide-v / Uvid-ja  mat', Anton vstal.
目にする-完了体副動詞  母  アントン  立ち上がった

 「母を目にしてアントンは立ち上がった」
 両者の使い分けについて、従来の研究者たちは、匙を投げ、積極的に考察していません。私は、これらの二形と発話表現、場面変化の関係に注目し、100冊を越える文学作品を統計分析しました。その結果、完了体副動詞現在は、完了体副動詞過去と異なり、発話表現の近くで集中的に分布し、また場面変化を伴う状況での使用が圧倒的に多いことが明らかになりました。

 物語を進めていく上で、登場人物の対話場面や急激な状況変化は、読み手の注意を引く重要な要因であり、これらと完了体副動詞現在は深く関わっています。完了体副動詞現在の中でuvidja(目にする)とobratjas’(振り向く)の使用頻度が極端に高いのですが、後者の「振り向く」というしぐさは、「視線を向ける」とも解釈できることを考えれば、どちらも視覚に関連しています。知覚(とりわけ視覚)によって得た刺激は、心的出来事を喚起し、それは身体的出来事へと連動します。物語の世界の事実が登場人物にどのように見えるかは、読み手の関心を引くことを常に念頭においている書き手にとって重要な問題です。というのも登場人物のものの見方が、とりもなおさず読み手のものの見方となり、読み手の意識が登場人物に同化しやくすく、それだけ読み手を物語に強く惹きつけることができるからです。

 同じ命題的な意味を表す場合でも、書き手の気持ちが強く働くとき、完了体副動詞現在が優先的に用いられるのです。さらに、私はこの完了体副動詞現在の語彙分類を行い、他動性(transitivity)と感覚性の高い動詞との関係を詳しく調べて、完了体副動詞現在は相手への働きかけの弱い動詞を指向することを発見しました。また、特殊な副動詞(完了体副動詞現在)に他動性の低い動詞(知覚動詞)が好んで用いられるという私の指摘は、新たな言語学理論(「言語学の一般規則に反する現象が他動性の低い現象に現われやすい」)の証拠を提示しました。

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 2008年5月9-12日に、ポーランドのワルシャワ大学で開催された第4回国際学術学会『ヨーロッパおよび世界の言語・文化圏におけるロシア語:人、認知、コミュニケーション、インターネット』を報じたロシアの学術サイト≪грамота.ру≫)の最後に掲載された北上光志教授(左)と国際学術学会開催責任者ワルシャワ大学のリュドミラ・シィペレヴィッチ教授(右端)の写真:北上教授のロシア語和訳「北上光志氏(京都産業大学、日本)は、文学テクストにおけるロシア語と日本語の副動詞について講演した」/リュドミラ・シィペレヴィッチ教授のロシア語和訳−「リュドミラ・シィペレヴィッチ氏(ポーランド)は、形式的な学会主催者にとどまらず、実質的に学会参加者から慕われる存在である

言葉は人が存在しないと生まれない

 「明白な白でもない黒でもない、揺れているような表現に、どうしてあなたは興味があるのですか」とフランス人のロシア語研究者から質問されたことがあります。日本では気がつかないのですが、海外では研究者の民族性が注目されます。形動詞の時制対立、直接話法構文の地の文における発話動詞と非発話動詞の機能的対立、形容詞の長短語尾形の敬意表現での対立、副動詞の規範形と異形態形とのテクスト的対立などの研究において、日本人の尊ぶ『和』の気質、つまり中和という概念が、私の研究方法の原点になっているのだと思います。  私がロシア語に興味を持ったのは、父の影響によります。私の父は第2次世界大戦末期に満州(現在の中国東北地区)で徴兵され、戦後5年間シベリアで抑留生活を送りました。私が幼い頃、父は収容所での出来事をよく話してくれました。苦しかった抑留期間に多くのロシアの人々に助けられたそうです。後年、私がソ連時代に初めてモスクワに留学したとき、父が語ってくれた人々の優しさを追体験しました。

 「何のためにロシア語を研究するのか」は、今まで何度も自問自答した問い掛けです。直ぐに実現することは、「夢」とは呼びません。夢を叶えるには時間が掛かります。そして、夢を追いかけているとき、人は自らの存在意義を強く意識します。私は自らのアイデンティティを求めるために、ロシア語と向かい合っています。

 短時間で語学は上達しません。精神的肺活量が必要です。このことは短時間で他人の性格を把握できないことと合い通じます。言葉は人が存在しないと生まれません。相手の反応を見ながら話さなくてはいけない時こそ、必然的にその人の人間性が試されます。語学に興味を持った人は、時間をかけて相手とコミュニケーションをとり、その人の持つ文化を知ろうという発想を持たなければなりません。そのための語感は五感をフルに活用することによって培われます。私が文字だけにこだわらないで、映像、音声資料、実際の生活品、食べ物を多用しで授業を行うのもこういった理由からです。

 文の核となる述語や主語と違って、副動詞のような統語論的に周辺的な要素は、人の心理変化の影響が表れやすく不安定で、一筋縄ではいきません。しかし、それだけ遣り甲斐のあるテーマなのです。これからもこの問題に立ち向かっていくつもりです。今年中に、今までの研究成果を一冊の本にまとめて海外で発表し、それをステップに、よりプラグマティック(実用主義的)な研究を目指したいと考えています。

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