研究紹介

法学研究科 法律学専攻 吉永一行教授 インタビュー

「法律の文言に縛られて、しかし法律の文言を超えて」

「頭の中の目」で本当のことを見抜きたい

契約の当事者にならない日などなく、家族の一員でない日などない。民法が生活に密着している法律であることは疑いありません。

しかし、民法を研究しようと大学院に進学してきた院生に進学の動機を尋ねてみて、「生活に一番身近だから」という答えが返ってくると(そしてその答えが一番多いのですが)、ちょっとがっかりします。実は、私自身は、自分が研究している「民法」というものについて、「身近だ」と感じたことはありません。

確かに、民法が定めている事柄は私に関係することもあるでしょうし、民法に関係する判例の中には「私の身にも起こるかもしれない」と思わせるものもあります。けれども、そのようにして自分の身に関係する知識を得るということに、私はあまり関心を抱いていないようです。「民法を研究する」ことというのは、そうした実益から離れているからこそ「研ぎ澄まし、究める」ことが可能なのだと思います。

突然に趣味の話をして恐縮ですが、私はザ・ビートルズの楽曲を聴くのが大好きです。彼らの曲の1つ『フール・オン・ザ・ヒル』(アルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』収録)から一節を引用してみましょう。

The fool on the hill sees the sun going down
and the eyes in his head see the world spinning 'round

学問を修めるというのは、沈みゆく太陽を観察することではなく、その背景で本当に起きていることを見抜く「頭の中の目」をもつことなのだろうと思います。契約は有効なのか無効なのか。そうした現象に、(たとえそれが私自身の利害に関わる可能性があることだったとしても)私はあまり興味がありません。その背後にある「本当のこと」――どうして私たちは、私たちの社会は、その契約を無効にしたがるのだろう――を考えていたいと思っています。

「受任者の報告義務」か「競争法上の優越的地位の濫用か」

書籍

もう少し具体的な例でお話をしようと思います。以前、コンビニ・フランチャイズに関する判例(最高裁平成20年7月4日判決判例時報2028号32頁)の評釈を書いたことがありました(民商法雑誌140巻1号89頁以下に掲載)。そこでは、フランチャイズ運営会社が、どの商品をいくらで仕入れたかという情報を加盟店に伝える義務があるかということが問題になっていました。

前提として、フランチャイズ契約は、加盟店を委任者、運営者を受任者とする委任契約類似の契約であると理解されています。その上で、事件の中の争点は、運営会社のもつ情報にも、委任契約における受任者の報告義務(645条)が適用されるのかという点にありました。そこでは、フランチャイズ契約の解釈に始まり、それがどのような性質の契約と評価されるのか、当事者の意思はどのようなものであったのか、あるいは他方で、従来の判例・裁判例の中で報告義務が認められてきたものとしてどのような事例があるのかといったことを検討し、本件において報告義務があるとした最高裁判決が妥当であったのかを評価することになります。

しかし、実はこの事件が生じてきた背景に目を向けてみると、フランチャイズ契約においては、運営会社と加盟店はそれぞれに独立の事業者であるはずなのに、実態としては運営会社が圧倒的な力をもって加盟店の経営に介入しているという現実があります(この事件以外にも、運営会社と加盟店の間には、幾つかの裁判が生じていました)。そうなると問題は、単に民法の一条文の解釈というにとどまらず、運営会社と加盟店の関係をそもそもどのようにとらえるかという問題としてとらえ、それに対する解答を提案していくべきだということになります――学説や実務では、本来は事業者である加盟店を、その情報力・交渉力の弱さから消費者や労働者と同じように扱うという方向が有力に主張されていましたが、私は、これは優越的地位の濫用といった競争法上の問題であろうと問題提起をしました――。

委任契約における報告義務は、明治29年(1896年)の民法制定時に規定されたものです。100年以上も前に作られた文言で、現代社会に生じている問題を裁こうというのですから、単に「報告」と書かれた条文を扱っていても、答えは出てこないのです。フランチャイズ運営会社と加盟店が、民法645条の「報告」という文言をめぐって争っているという事実を見て、その背後で本当に起きていることを見抜くことができるか。民法の研究というのは、こうした「文言に縛られるけれども、それを超えて問題を考える」ところに醍醐味があると感じています。

大学院を目指し、大学院で研究するということ

インタビュー風景

私が大学院に進学した動機は、少し変わっているかもしれません。

もともと学生時代には、学者にだけはなるものではないと思っていました。当時は検察官を志望していたのですが、法律というのは、机を前にして考えるものではなく、実際の事件に適用して、問題を解決してこそ役に立つものであり、自分もそうした活動を生業にしたいと考えていたのです。

しかしある日――ある小説を読んでいたときなのですが――、ふと次のような疑問が私の頭をよぎりました。目の前にいる被告人に法律を適用すれば、その被告人は死刑にする以外にない。しかし、本当にこの被告人を死刑にするべきなのだろうか、と迷ってしまった。そうしたことが起きたときに、自分はどうするだろうか。犯罪の嫌疑が十分に証明され、法律を適用すれば死刑に値するのであれば、検察官としては、その被告人を起訴し、裁判官に対して死刑を求刑するのが仕事でしょう。しかし私は、「そこで、立ち尽くし、迷う」ということを仕事にしたいとその時に思ったのです。それが大学院に進学し、研究者になりたいと思うきっかけでした。

様々な曲折を経て、民法を専攻することにし、その中でも委任契約をドイツ法との比較法的手法をとりながら研究することにしたのですが、今、大学院生時代を振り返ってみると、実は委任契約の研究にあてた時間は相対的には少なかったと感じています。民法学のあらゆる領域に手を伸ばして文献をたくさん読みました。

私が大学院に入学したのは1998年ですが、その直前にあたる1980年から90年代にかけて、民法の領域では非常に大きな変化が起きていました。まず、民法でも中心的な位置を占める契約法学において、パラダイム・シフトと呼ぶべき大きな考え方の変化がありました(代表例として、売買における瑕疵担保責任に関して、法定責任説が徐々に勢いを失い、契約責任説が支持を広げていきました)。さらに、より哲学的な領域として、解釈方法論についても大きな議論が湧き上がりました(代表例は、星野英一先生と平井宜雄先生による「第二次法解釈論争」です)。

毎週毎週、授業の準備のために、こうした刺激的な書籍や論文を読み漁りました。当時は(今でもかもしれませんが)意味もよくわからないままに、とにかく量だけをたくさん読んでいました。それでも、目の前の事件に条文を当てはめることだけが民法ではないということはわかりました。「頭の中の目」の視野がどんどん広がりました。今でも、民法に関する様々な問題について、考える手がかりをつかむのは比較的得意なのですが、それは間違いなく、大学院時代に民法学の様々な領域について書籍や論文を読む経験を積んだからだと思います。

大学院を目指す人たちには、学部で学んだ民法についてもう一度よく勉強しなおして、そこに潜んでいる矛盾とか、十分な説明のないままに決めつけられていることとかを、見つけ出しておいて欲しいと思います。研究というのは、そうした問題をより広い視野から分析し直すことで成り立つので、自分が研究しようと思っている問題だけではなく、民法学全体、あるいは解釈方法論など法哲学の領域にまたがるようなことについても、文献をたくさん読んで欲しいと思います。