研究紹介

外国語学研究科 中国語学専攻 矢放昭文教授 インタビュー

「音韻学を原点に中国言語の変遷を幅広く調査・考察」

音韻学と私

私の研究の原点は中国語音韻学です。学部時代は中国語(北京語)字音研究から出発し、14世紀(1324年)に成立した韻書である『中原音韻』に基づいて元朝(モンゴル支配)時代の中国語音を歴史的に研究しました。大学院に進んでからは慧琳『一切経音義』(807年成立)の音韻と、『韻鏡』など唐代中期(9世紀)に成立していたと推定される等韻図との関係を研究しました。その後、唐代から近現代に至る長い歴史軸上の中国語の変遷と、それがもたらしてきた複雑な文化の様相を幅広く勉強し、重層する中国語史の解読につとめてきました。

中国では、早くから文字の意味を考察する訓詁学、字形を扱う文字学、字音を研究する音韻学が発達してきました。秦始皇帝(B.C.259-210)がはじめて天下を統一したあと、特に後漢(1〜3世紀)時代になると、始皇帝以前の、春秋戦国時代(紀元前8〜3世紀)に成立した荀子や墨子、孫子などの諸子百家や孔子、孟子などの儒教経典、諸子典籍を正確に読み、解釈することが求められました。ですが、当時から5〜600年前に成立した経典を正しく読むこと自体大きな課題でした。その困難を克服し、後の時代に正しく伝えるための学問として三つの学問が発達したのです。

さらに後漢から魏晋南北朝時代(3〜6世紀)に入ると中国の学術は大きく発展します。その要因の一つに西域から仏教が伝わったことがあります。仏教は中国からみれば異域の宗教であり、排除の力学が働くこともありましたが、一方では域外文化が伴う斬新な刺激を受けたことも否定できません。なかでも、それまでの、儒教経典を読解するために発達していた音韻学は深い影響を受けています。

東西交流の産物としての「韻図」

一切経音義

西域仏教の中国への伝来は東西文化交流の一面でもありました。その交流の産物として、伝統的な中国の音韻学に西域仏教伝来に伴い伝わった悉曇学、つまり中国にはなかった精密な字音観察学の知識が加わります。それが声調の発見であり「反切」という表音法の発達をもたらしたのです。高校時代から東西文化交流に大きな興味を持っていましたが、その具体的産物としての韻図の起源を追求する勉強を始めたのです。

今日中国語を学ぶ者はだれでも声調の修得に苦労します。声調とは「高・低・昇・降」四つのアクセントを指します。声調修得ができなくて中国語学習を放棄する人もめずらしくありませんが、声調の発見は、実は仏教とともに異域から伝わった声明に中国語が接触したことが契機になったと考えられています。

漢字音は子音と母音、または複合母音、さらには子音韻尾の組み合わせに声調を伴って構成されていますが、古代の中国人はこれを二つの漢字を組み合わせる「反切」という方法で表わしました。二漢字のうちの始めの漢字は語頭子音を、後の漢字は母音または母音連合と声調を表わすことが多いのですが、二漢字を組み合わせて字音を表記する反切の発達により字音分析が進みました。

あるいは字音分析が進んで反切が発達したのかもしれません。少なくとも唐代中期には反切を作るときに「等韻図」という語音一覧表が使われたことが否定できません。日本でいう五十音図です。代表的なものとして『韻鏡』『七韻略』と呼ばれるものが現存しています。『韻鏡』は四十三枚の表から出来ています。中国では早くに滅びていましたが、日本に渡来していました。明治時代に日本に留学した中国人学者は、永禄本(1564年)や寛永本(1641年)が残っていることに驚喜しました。中国に持ち帰り『古逸叢書』として再版しました。私が大学院時代に研究した慧琳『一切経音義』の反切もこの「等韻図」に基づいていることが判っています。

中国伝統音韻学の重要資料には「等韻図」以外に「韻書」があります。一番重要なものは『切韻』(608年)といいますが早くに滅びました。ですが『切韻』の再版本が何種類か出現したあと、宋代の始めに『広韻』(1008年)が編まれ完本として定着しました。『広韻』は『切韻』の再版本と言えます。韻書は漢詩をつくる時の押韻の規範書です。中国の官吏登用試験として「科挙」制度が隋代(581-618)に始まり、清末(1912年)まで続きました。阿倍仲麻呂(698-770)は遣隋使として長安に留学しました。そして科挙試験を受けるための必須の参考書『切韻』をマスターし、見事に合格して唐室に重用されたことはよく知られている話です。『切韻』『広韻』の知識がないと科挙に合格する詩は作れません。『切韻』あるいはその別の版本は、日本に到来しており、律令時代の官吏登用に使われたことも記録に残っています。また漢音を学習するための工具書として使われた形跡もあります。阿倍仲麻呂や吉備真備(698-775)は音韻学の基本を身につけた人材でもあったのです。

音韻論

ご承知のように、漢字は英語のアルファベットのように26文字で言葉を表わしているのではなく、個々に字音を持ちます。現代中国語でも2〜3000の字音を身につけないと新聞も読むことができないので、中国語を学ぶ者は誰でもピンイン法というローマ字表記法を身につける必要があります。でもその仕組みを解釈することは意外に難しく苦労を伴います。

私は学部時代に、ピンイン法が考え出された経緯と、漢字音がそもそも本来的に直接発音を表わさず、『佩文詩韻』や『北平音系十三輟』などの「韻書」という工具書によって伝承されてきたことに興味を持ちました。「韻書」が伝える「字音の読み取り規則」とはどういうものなのか、その内容を知ることに面白さを感じました。そして面白さの原点には、現代中国語のピンイン法の基になる北京語音韻論の合理性があります。北京語音韻論は、伝統的な音韻学の系譜を受け継ぐ一方、西欧やアメリカなどで発達した音韻理論を吸収してきました。音韻論は音素という概念から出発します。音素とは、「意味の区別を担う最少の語音単位」と定義しています。これは化学でいう分子の定義に似ていますが、どういうことかというと、日本語の5母音を例にすると理解できます。

私たちは日本語の母音が「ア・イ・ウ・エ・オ」5つであることを疑っていません。赤い靴の「ア」と青い空の「ア」は同じ音だと考えています。でも注意深く観察すると、舌の位置が「前寄りのア」(「エ」に近い「ア」)と、舌位が「後ろ寄りのア」(オに近いア)では実際の音色に違いがあります。それでも同じ「ア」と見做しているのは、日本語では「前寄り」でも「後ろ寄り」でも意味の区別に影響を及ぼさないからです。

でも英語やフランス語など西洋の言語に日本語の5母音システムは通じません。母音組織はもっと複雑です。たとえばcat[kæt]とcut[kʌt]、前寄りと後寄りの「ア」は異なる「ア」と捉えられ、意味の違いをもたらします。このような母音システムの違いは、西洋の言語の間では常識でしたが、中国の言語でも、南北の方言の違いにより異なっています。母音だけでなく、子音のシステムも、声調の数も異なっている。同じ中国語なのに、なぜなのか?このことから中国の各方言の語音に対する興味を深く持つことになりました。また、西欧で発達していた音韻理論が中国語音の歴史的研究に応用できることにも深い感動を覚えました。学部時代の大きな収穫でした。

日本の漢字音と中国の方言音

韻書も韻図も全て漢字により発音を表しているため、具体的にどう読んだのか、その手掛かりはどこにあるのでしょうか?解明する方法が複数あります。一つは現代中国の方言音を使う方法です。北京語音、広東語音、客家語、上海語音など南北の方言字音を使います。これらの方言字音は私たちの日本語の、特に中国由来の食べ物名称にも残存しています。たとえば北京は「ペキン」、南京は「ナンキン」と発音しますが、これは日本に伝わった当時の南京方言に近い。現在の北京語では「ベイジン」「ナンジン」です。餃子は「ギョーザ」と発音しますがこれは山東方言です。いまの北京語では「ジアオズ」と発音します。雲呑、焼売は「ワンタン」「シュウマイ」ですがこれは現在の広東語です。その他、鴨脚「イチョウ」炬燵「コタツ」暖簾「ノレン」は江戸時代に伝わった南京方言です。この江戸時代に伝わった南京音を唐宋音と言っています。

日本漢字音をさらにさかのぼると漢音、呉音があります。たとえば、東京は呉音では「トウキョウ」、漢音では「トウケイ」と読みます。阿弥陀経は呉音「アミダキョウ」、漢音「アビダケイ」になります。やはり、それぞれ元になった字音の時代と地域が異なるのです。

また頭という字は、頭目、頭師、饅頭、塔頭という言葉の中で読みがすべて異なり、それぞれ「とう」「ず」「じゅう」「ちゅう」となります。中国の場合は規範で統一すると他の読みは全て除外される方向に進みますが、中国から伝わった日本にはその全ての音が蓄積しています。日本の漢字音は中国の歴代の漢字音データベースとも言えますので、日中間の国境を外してマクロに見ると中国の方言音とも言えます。19世紀末から前世紀に活動したスウェーデンのカールグレン(1889-1978)という学者は、資料の扱い、研究手続きなどに問題を含みつつも、漢音、呉音を中国各地の方言音、朝鮮漢字音、越南(ベトナム)漢字音などと同列に並べて、「中古漢語」「上古漢語」という歴史上の漢語音体系を理論的に構築しています。私はカールグレンの音韻学を学ぶ一方、国境が人為的境界線に過ぎないことも知りました。広い視野でアジア世界を見ることも学んだのです。

南方方言と少数民族語

中国の南方方言には、特に古い音が残っています。それはなぜかというと地理的条件に基づくところが大きいと考えられています。特に、北京と広州を結ぶ京広鉄道の東側、長江の南側は「言語の化石地域」と呼ばれるほどに古い形式の言語が方言という名称で今日まで保留されてきました。この地域が長い間、交通が未発達で、人の往来が不便であったことが大きく起因していると考えられています。

でも一方では、客家(ハッカ)と言われる人たちのように魏晋南北朝時期(約1600年前)に、今日の山西省あたりから南方に向かって大規模に移住し、2〜300年間定住したかと思うとさらに南方に向かった言語集団もいます。規模の大きい、しかも波動的な移住でした。この移住を少なくとも4〜5回繰り返し、19世紀末〜20世紀初めに、台湾やインドネシアなどに到達してやっと定着した言語グループなのです。ちなみに客家(ハッカ)とは移住先の広東人による彼らに対する呼称です。客家は土着民と通婚し元来とは異なる言語を吸収していますので、複数の方言要素を形成してきました。

客家だけでなく、人々の移住が中国の方言とその文化層を考える際に大きな要因になっていることは今日大多数の言語学者が認めています、またその複数の要素を一つ一つ剥がし、層次を研究する方法も行われています。いずれにしても言語の化石地域で使われる広東語、客家語、福建語、呉語などのいわゆる南方方言は、中国語史を考える時に貴重な価値を持っているのです。私は本学に赴任(1988年)以後、中国南西部のミャオ族、ナシ族、東南部のショー族など少数民族の言語文化調査に出かける機会を得ることもできました。その調査体験を基礎にして、研究のフィールドは南方を中心する各地の方言研究に広がっていきました。

広東語と唐代字音

広東語は、中国南方方言の中でも特殊な存在です。話し言葉としての広東語が、「喺」「嘅」「孻」「嚟」「喼」「氹」など独自の方言字を体系的に発達させている、という点です。これは他の方言にほとんど見られない大きな特徴です。もう一つは音韻体系が北京語など北方方言と大きく異なることです。たとえば「金」を広東語では「ガム」北京語「ジン」、「北」は「バック」と「ベイ」、「十」を広東語「サップ」北京語「シイ」、「天」は「ティン」と「ティエン」というふうに、発話そのものが大きく異なります。「北海道」は広東語「バックホイドウ」北京語「ベイハイダオ」となりますのでまったく別の言語に聞こえるのです。イタリア語と英語ほどに違う、と言う人もいます。

でも書面語、つまり書きことばに移ると、特に文言調の文章は、発音こそそれぞれ独自の発音で読みますが、意味するところには共通です。日本人が中国人と紙とペンを使い筆談することがありますが、広東語と北京語を母語とする人々が、相互に相手の方言を聞き分ける力が無い場合には同様の方法が採用されます。

「北」を「バック」、「十」を「サップ」と発音する特色は、広東語の音韻体系に唐代の古い音韻が残っている証拠となります。広東語はその基層にタイ語系チワン語など周辺の少数民族語要素を保つ一方で、唐代の音韻研究に資するところも大きいのです。広東語の歴史研究は中国の言語変遷の複雑な様相をより深く知るためにも役立つのです。私が大学院時代に研究した慧琳『一切経音義』の反切と「等韻図」から得られる唐代の音韻も、広東語音韻体系の基礎を形成しています。

広東語と英語音

広東語は珠江の西側を中心として華南地域に通行していますが、この地域は早くから海外と商業活動を行ってきました。唐代に「蕃坊」というアラビア商人の居住地区が広州にもうけられていたのはよく知られた史実ですが、近世になるとポルトガル人、そしてイギリス人が交易相手として広東地域に上陸しました。

とくに19世紀、阿片戦争(1839-1841)時期のイギリス人の活動には目覚ましいものがあります。イギリスの宣教師たちは、ポルトガルに次いでマラッカからシンガポールを経て、すでにマカオまで来ていました。阿片戦争後に広東、香港へと合法的に進出を果たしたイギリス人宣教師は『聖書』や『天路歴程』、その他科学書籍などを漢訳し、組織的に、機能的に布教に勉めました。また宣教師達は口語で布教することを至上の目的としていましたので、標準中国語としての官話版『聖書』だけでなく、広東語、客家語、潮州語、福建語、温州語など地方言語版を編集し布教に活用しました。口語体ですので、当時の広東語、客家語などを研究する資料として、今日も活用することができます。

また一方で、この時期には「広州十三行」といわれる華人(当時の中国人)商業従事者達がその交易活動に必要な英語教科書を作りはじめました。香港島がイギリスに割譲された1841年以降には英華書院が設置され、本格的な英語教育の普及が始まったのですが、その際に華人が編纂した英語教科書や辞書が今も残っています。漢字を使って英語音を表しているのですが、その漢字の音韻の根底には広東語、客家語、福建語などの字音特徴を見つけることができます。

たとえば広東語でタクシーは「的士」と書きますが、北京語だと「ディシー」と読み、意味不明です。ところが、広東語では発音そのものが「タクシー」なのです。またトーストは「多士」と書きますが、広東語の発音では「トースト」なのです。「シェリー酒」や「カレー」なども阿片戦争前後の広東に到来していましたが、西方から様々な文物が中国に伝わった時、発音を表わす漢字音を詳しく分析すると、どういう言語の人たちが関わったかということも分かるのです。話しことばとしての広東語が独自の書記体系を形成してきた理由に、布教の場での漢訳『聖書』類の音読活用と、この時期の英語学習に伴う広東語音による書写作業があることが判ります。広東語の音韻そのものは唐代にまで遡るのですが、言語のシンタックス(統辞法)とか、方言字を考える時に英語とのコンタクトを無視することはできません。ですから英語と広東語の言語接触も大きなテーマの一つになります。広東語資料は、清末から20世紀の中華民国成立にかけての動乱の時代の言語情況を色濃く反映しているのです。

漢語史は文化史そのもの

インタビュー風景

たとえば、menuは英語で「メニュー」と発音しますがフランス語では「ムニュ」ですよね。nameは「ネイム」、ドイツ語「ナーメ」となり、同じ表記でもところにより発音が異なる。同様のことは中国ではもっと珍しくない。発音だけでなく字形が異なることもよくあるのです。だからこそ資料の成り立ち過程をよく調べ、漢字音を分析していくと、その資料が語る言語文化の様相を解明することができるのです。

研究素材としての音訳漢字は仏典の中にもたくさん見ることができます。インドは今日「印度」と漢字表記しますが、時代が異なると「賢豆」「天竺」「天篤」「身毒」「乾竺」「辛頭」「信度」など歴史資料の上で異なった音訳語が大量に残っています。それらを分類し、言語の層に分ける作業は、取りも直さず漢語の歴史そのものを考察することでもあるのです。

大学院を目指すみなさんへ

私は音韻学を学んだのがきっかけで、今日まで大変充実した研究生活を送ることができました。大学院を目指す皆さんには、視野を広く設定するとともに物事を深く考え、分析する熱意が必要でしょう。そうすることで豊かな人生が実現でき、幸せな大学院生活が送れるのではないでしょうか。「ガネーシャ」の言葉(水野敬也著『夢をかなえるゾウ』より)ではありませんが、今はあまりにも「やらされる」仕事に慣れ過ぎていて、こうしたらいい点が取れるとか、こうしたらいいところに就職できるとかいう、目先のことばかりが語られています。何が本当にやりたいのか、これは自分にしか決められないことです。広い視野で掘り下げて物事を見るとともに、本質を求め、自分のために学び、面白いから続けられる一生のテーマを大学院で見つけてほしいと思います。

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