研究紹介

外国語学研究科 中国語学専攻 中川千枝子教授 インタビュー

「北京語の音声変化を調査して、漢語の音韻形態変化の存在を確信」

類まれな口語音声資料との出会い

私は高校時代から言語類型論に触れ、膠着語の日本語、屈折語である英語に対して、孤立語と呼ばれる中国語に漢文を通して強い関心をもちました。同時に好きな漢詩の理解には「音韻」の知識が必要なこともわかってきました。そこで、シャンハイ、ペキン、ホンコンなどの地名の発音程度の知識しかありませんでしたが、大学では中国語を専攻することにしました。

大学3年の時に、日中国交正常化間もない中国を縦断旅行する機会があり、江南(上海、南京)、東北(瀋陽、長春)、華北(天津、北京)、華南(広州、香港)の各地をたずね、中国語の「方言」のちがいを体感して刺激を受けました。修士課程修了直後に、今度は長期留学のチャンスが訪れ2年間、南京を拠点に中国を縦横に旅して、現地の言葉を聴き取る面白さにハマりました。

『当代北京語口頭語料』

北京語の口語を本格的に研究し始めたのは、中国の国家プロジェクトとして1986年から4年がかりで収集された『当代北京口語語料』の録音テープとテキストが発行されたのがきっかけです。これは、北京の6地区に住む親の代からの北京生まれ、北京育ちの市民374人を対象に家庭、教育、仕事、教育など身近な話題について聞き取り調査したものです。文字にして170万字の膨大なコーパスがカセットテープ120巻、テキスト4冊にまとめられ、1993年に出版されました。手始めに聞いた中心市街地である東城地区の62人の内訳は漢民族が30人、満州族が28人、回教徒とモンゴル族それぞれ2人ずつで、年齢的には10歳代から70歳代、職業も学生、労働者、医師、教師、店員と多様です。老北京と呼ばれる人々が日常の生活を語り、その生き生きとした口調は、喜怒哀楽を始めあらゆる感情にあふれ、音声言語資料以上の歴史的資料だと判りました。かねてから北京人の口ごもった発音を徹底的に聞き取りたいと願っていた私の渇望は、この当代北京口語語料に出会い、十分に満たされたのでした。

北京語の特殊な音韻を分析する

音声資料の最大の特徴は、発音上の音便が随所に発生することです。これは漢字資料を音読することに慣れていた私には目から鱗の発見でした。「こういう風に発音するのが、中国語の日常の話し言葉なンだ!」と。

一口に北京語といっても、いろいろな発音をする人がおり、個人差が大きいことが、この音声資料から分かりました。口の開きが少なく、舌先の動きが激しいモゴモゴしたこもった発音をするのは、旧城内でも満州族の流れをくむ人に多く見られます。私が長期滞在した江南地方の人々は、口の開きが大きく一語一語が極めて明瞭な発音から生み出されるのですが、それとは好対照です。口ごもった北京語をあやつるタイプの人には、とりわけ舌先が巻き上がる卷舌韻尾(児化、r化)が頻繁に現れます。

児化は本来、接尾辞として機能する場合も独立した一音節でした。それが連音変化で次第に前の音節と融合し、その音節内に吸収され独立性を失った結果、児化韻という一つのカテゴリーが北京語音韻の中に生まれました。児化韻の第1の機能は名詞の後について原形名詞に対して形状や性質が「小さい、細かい、軽い、微かな」ことを表します。例えば事(事柄)に対して事儿(ちょっとした事)。また、第2の機能は語義の転化であり、名詞の後について原形名詞の基本義に対して派生義を生じます。例えば信(手紙)に対して信儿(知らせ、情報)。第3の機能は品詞転換であり、動詞や形容詞の後について名詞を派生させます。例えば画(描く)に対して画儿(絵)など。

これらの例は、非児化韻との対立の上に機能していますので選択的児化韻と呼ぶことにすると、常に児化韻を用いるが対立する非児化韻が存在しない非選択的児化韻もあります。その第1の機能は語根の単語化であり、拘束形態素の後について名詞や動詞を構成します。例えば村儿、玩儿(遊ぶ)など。また、第2の機能は北京口語や土語(使用範囲が北京市とその近郊に限定される一群の方言語彙)の派生です。例えば城根儿(城壁の近所)などです。

征服王朝期の言語接触が変化をもたらした

北京語のもう一つの大きな音韻特性は、変調のタイプが少なく、それに変わって軽声が発達している点です。軽声は四声が変わる変調とは異なり、音節内の高低アクセントをつけないゼロ声調であり、特定の調値を持たず、前の音節の声調に応じて高さが決まります。軽声の持続時間は声調がつく重声に比べてすこぶる短く、このため発音が不明瞭になるか、簡素化されるかのどちらかを伴います。また、軽声化した音節内では声母も韻母も弱化形式に変化します。例えば、豆腐のfや心思のsの後の母音は消えることがあります。

軽声にも児化韻と同様に選択的軽声、非選択的軽声、任意的軽声の違いがあります。これはすべての品詞にみられ、重声と軽声が同音同字の場合と同音異字の場合があります。例えば同音同字では東西(重声は「東西」、軽声は「もの、こと」を表す)、同音異字では大衣(オーバー)と大意(うかつな)。また、常に軽声化して重声との対立がない非選択的軽声には、機能的に見て語彙的軽声と文法的軽声の2種類が存在します。語彙的軽声は個別的な軽声ですので、一つ一つ言語習慣に則って記憶するほかありません。例えば街坊、軽省などがあります。

北京語口頭語のもう一つの連音変化は縮約です。漢語音韻論ではこれを合音と呼びます。人称代名詞、数詞+量詞、時間詞、否定詞+形容詞、否定詞+助動詞、語気助詞に見られ、ごく限られた使用頻度の高い口頭常用語にしか起こらない現象ですが、1音節1形態素を基本単位とする漢語にとって1音節2形態素である合音は例外的な存在です。例えば甭など。

北京語の声調では、四声の中から入声が排除されました。この点も入声がある江南地方の諸方言と異なります。実際、南京ではよく八分、没得などを声門閉鎖音(入声)で発音する人に出会いました。北京語から入声が消失した背景には、中国を征服した北方民族が建てた遼、金、元、清の四王朝の時期の言語接触があります。中でも、モンゴル語や満州語の影響が大きく関与しています。

見過ごされてきた形態変化の存在

インタビュー風景

ところで、中国語には形態変化がほとんど無いとずっと言われてきました。語順、リズム、音韻変化、形態素選択の4つの文法手段のうち、漢語で重要な働きをするのは語順と形態素(漢字)であると見なされて、リズムと音韻変化はさして注意が払われてこなかったのです。児化と軽声が発達し、入声が消失した北京語の音韻特性を研究するうち、本当にそうなのだろうかと私には疑問に思えるようになりました。同じ時期に従事していた『白水社中国語辞典』の編纂作業を通して、漢語の形態変化やリズムについて、いまだに十分な考察がなされていないだけなのだという結論に至りました。

基数、序数、個数という3つの数があります。同じ「一」という言葉が序数の「一号」では第1声のままですが、個数の「一个」と「一天」ではそれぞれ第2声と第4声となり、数詞「一」に声調の変化が起きています。同じ様に、序数の「第一課」では第1声と絶対に声調が変化しないのに対し、個数の「头一課」では第2声に変化します。この声調変化の有無は、「東京駅」と「新東京」の構造のちがいと同じ原理で発生しています。さらに、数が「2」になると、序数では「二」、個数では「两」と数詞の選択があります。数の表現では明らかに語形変化が起きています。数という文法機能においても、声調が中国語の形態変化の最優先手段であることが、これらからは見て取れます

今後さらにこの分野の調査、研究を深めていくつもりです。これから大学院で中国語を研究したいと考えている若い皆さんが中国語の話し言葉や音声、北方方言の語彙などに関心があるなら、私と一緒に皆さんそれぞれにふさわしい新たな研究テーマを発掘できると思います。

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