研究紹介

外国語学研究科 中国語学専攻 森博達教授 インタビュー

「『日本書紀』の謎を解き、成立の真実を追う」

中国語音韻学と書紀研究との出会い

『日本書紀』は、日本最初の正史です。その記述は神代に始まり、697年の持統天皇の譲位で終わります。『日本書紀』なしには七世紀以前の日本の歴史は語れません。日本古代史の研究にとって卓絶した文献です。

ただ、『日本書紀』には史実だけが書かれているわけではありません。また、『日本書紀』は『古事記』と違って漢文で書かれていますので、『日本書紀』の文章を分析するには、古い中国語についての知識が不可欠なのです。

私は中国音韻学を応用し『日本書紀』研究を通じて、『日本書紀』が筆者と成立時期により三群に区分できるという「書紀区分論」を確立し、さらに語彙や文体、文法の分析を通じて、その成立過程を解明しました。私の『日本書紀』区分論研究の到達点は以下の通りです(『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』より)。


日本書紀の三十巻は表記の性格の相違によって巻十四から二十一と二十四から二十七からなるα群と巻一から十三、二十二から二十三、二十八から二十九からなるβ群と巻三十に三区分できる。

α群は持統朝に渡来中国人である続守言と薩弘恪が正音により正格漢文で述作した。守言は巻十四からを、弘恪は巻二十四からを担当した。文武朝になって山田史御方が倭音により和化漢文でβ群を撰述した。

巻三十は元明朝に紀朝臣清人が著述した。同時に三宅臣藤麻呂がα、β両群にわたって漢籍などによる潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。清人の述作は日本人ならではの漢字漢文の誤用や奇用などの倭習が少なかったが、藤麻呂の加筆には倭習が目立った。


これらの業績のすべては中国語音韻学と『日本書紀』との幸せな出会いのお蔭です。

私は大阪外国語大学の中国語学科3年生の時、中国語音韻学と『日本書紀』に巡り合いました。恩師の一人である辻本春彦先生の指導で中国音韻学を学んだのです。

演習で私がテーマに選んだのが万葉仮名でした。万葉仮名というのは漢字の音によって日本語を写したものです。万葉仮名が使われている『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』の中で『日本書紀』に興味を惹かれました。それらに使われている万葉仮名の漢字と昔の隋唐の時代の中国音とを比較対照して、それを中国音韻学の資料にしようとしたのです。

最初は『日本書紀』の中にある128首の和歌などの万葉仮名が研究対象でした。そのころは万葉仮名の基礎になった漢字の音は倭音(日本漢字音)であって中国語の原音ではないというのが通説でした。

ところが私は『日本書紀』の万葉仮名を調べていて、この倭音説の論拠が当てはまらないグループを発見しました。それをα群と名付けました。α群は唐代の長安の中国音によって直接日本語を中国音によって表わしていたのです。通説通り倭音で書かれているグループをβ群と名付け、追加的に書き足された三十巻と合わせて三区分に整理しました。これが修士論文の概要で、その後の成果を加えた拙著『古代の音韻と日本書紀の成立』は金田一京助博士記念賞を受けました。

音韻から文章全体に広がる研究

資料

私の『日本書紀』研究は音韻から入って、語彙、文法、文体へとさらに広がっていきました。倭音は音韻のレベルにおける倭習ですが、それでは語彙、語法、文体の倭習はどうなのか。『日本書紀』の文章全般を分析した結果、それは音韻論の結論と軌を一にしました。つまり、『日本書紀』には様々な倭習がみられますが、それらは基本的にβ群に偏在しています。

β群は和化漢文で綴られていますが、正格漢文で書かれたα群にも例外はあります。これは資料の引用や後人の加筆、潤色が原因だと考えられます。

私はα群の本来の述作者は中国人一世だと確信しています。万葉仮名の清濁異例が最大の根拠です。つまり、万葉仮名では中国原音では無声無気音声母の漢字は清音仮名として用いるのが原則ですが、α群では濁音にも用いられています。日本人なら清濁を間違えるはずはなく、中国人が濁音を清音と聞き誤った結果だと考えられます。

日本書紀の編修の順序を知るカギはα、β両群の安康天皇暗殺の記載にあります。α群の冒頭、巻十四は「雄略紀」なのに先帝暗殺の経緯が詳細に記述されています。一方、巻十三は「安康紀」なのに一句で済ませ、「雄略紀に詳しく載せられている」と施注しているのです。これは本末転倒であり、β群よりα群の述作が先行したと考えられます。

α群述作の最有力候補は音博士、続守言と薩弘恪です。持統朝にそろって三度賞賜されており、二度目の賞賜の直前には『日本書紀』編纂の重要資料となった「墓記」進上の詔が出されていることなどが根拠です。守言は斉明六年(660)の戦争で百済軍の捕虜となり、献上されて来日しました。巻二十六の「斉明紀」には来日の時期について二説を併記しており、弘恪がここを書いたのだろうと考えています。

一方、β群の述作は文武朝に始まりました。撰述者は文武朝以降の学者とみられるわけですが、私は山田史御方が隋一の候補と考えています。山田史は移民系氏族であり、御方は学僧として新羅に留学し、帰国後還俗して大学で教えました。β群の述作者は漢字の清音に暗く訓読によって文章を綴っていた点や、β群が仏教文化の影響を受けている点などから御方の経歴がβ群の性格と合致するといえます。

『日本書紀』は編纂の最終段階でα群を中心に潤色、加筆が行われています。その変格漢文や筆癖にはβ群と共通のものと特有のものがあります。それでは加筆者は誰なのでしょう。『続日本紀』によると、和銅七年(712)に従六位上紀朝臣清人と正八位下三宅臣藤麻呂に国史撰述の詔が下りました。私は位階から見て、清人が主に巻三十「持統紀」を撰述し、藤麻呂が潤色、加筆を担当したのだとみています。清人はその後「文章の師範」と称賛され、文章博士も拝命しています。

研究は実事求是、事実の発見

インタビュー風景

私は以上の研究成果を『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』にまとめ、1999年に出版しました。幸いなことにこの本は毎日出版文化賞をいただくことができました。大化の改新の詔勅や聖徳太子の十七条憲法の記述についても問題提起し、古代史研究家だけでなく、古代史に関心のある多くの人々の間に大きな反響を呼び起こしました。

近著『日本書紀成立の真実―書き換えの主導者は誰か―』では、天智天皇と中臣鎌足を律令国家樹立の英雄とするために「大化の改新」が必要であり、「乙巳の変」を正当化するために蘇我入鹿を極悪非道の逆臣にせねばならなかった事実を踏まえて、時の権力者で大化の改新の立役者である鎌足の子、藤原不比等が日本書紀全体の書き換えを主導したのではないかという仮説も打ち立てることができました。『日本書紀』が未定稿のまま撰上されている点に注目したのです。

私は研究には事実の発見が伴わねばならないと考えています。実事求是です。発見の喜びは何事にも代えがたいものです。もう一つは例外から目を背けないこと。例外を見つめていくと例外の奥に隠されている真実の構造が分かってくることがあります。この二つを、研究者を目指す若い人たちへの私のメッセージとしたいと思います。

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