研究紹介

外国語学研究科 中国語学専攻 畠山香織教授 インタビュー

「異文化受容の比較研究―東アジアで近代西洋文明はどう受け入れられたか」

留学先の日本で感じた文化ギャップが出発点

私は日本と中国、朝鮮半島で近代西洋文明がどのように受け入れられたかを三者の共通点や異なる点の分析・比較を通じて文化的な視点から検討を続けてきました。また、西洋化を頑なに拒み続けた清朝末期の文人の言論を読み解くことで、非西洋文化圏の国々にとっていわゆる近代化とは何だったのか、自国の伝統文化を主張する今日的な意味と可能性についても研究してきました。

私は日本生まれで、幼稚園から大学まで中国で学びました。大学時代は北京第二外国語大学で日本語を専攻し、東京外国語大学に留学する機会を得ました。留学先では同じ世代のいろいろな国の大学生と一緒に学んだのですが、日本語では全く苦労しなかった半面、文革世代である中国人の私とクラスメートたちとの文化的ギャップが大きく、そのことに大変ショックを受け、強い孤立感に悩みました。それが文化比較の研究に進んだ私の出発点でした。

大学を卒業して、母校で教員をしながら大学院に進みたいと考えた時に、東京大学の総合文化研究科に比較文学比較文化というコースがあることを知り、受験して入学しました。日本に来て、できるだけ多くの本を読み、いろんな体験をして文化的ギャップを埋めようと努力しました。そうするうちに近代西洋文明がグローバルスタンダードになって、価値観が均一化していることを知りました。同時に、今まで自分たちが拠って立ってきたアジアや中国、日本の伝統文化を全部捨てて、近代西洋文明一辺倒になることに疑問を感じるようになりました。

日本と中国、朝鮮の伝統的髪型の断髪に着目

近代西洋文明が東アジアに入ってきた時、積極的にそれを受け入れようとした人々がいた半面、激しく抵抗した人々もいました。修士論文を書く時、時代の転換期における人々の心情、それも指導者や著名人ではなく市井の名もない庶民が時代の変化をどう感じたかを具体的なもので考えてみたいと思いました。形があり、しかも分かりやすいものということで、すでに個々には先行研究はありましたが、中国の辮髪(べんぱつ)と日本の丁髷(ちょんまげ)、朝鮮半島の椎結(サンテュ)という伝統的髪型とその断髪についての比較研究にたどり着いたのです。

髪型はあくまでもプライベートなもので、基本的に誰かに強制されたり、決めてもらったりするものではありません。ところが、この3種の髪型は政治の力が強く働いて、短い期間に消えていきました。本来、私的な部分が政治によってコントロールされ、そこに生きている人々の心情はどこかに追いやられ、髪の毛を今日から切りなさいというような現代では考えられないことが当たり前のように行われたのです。

髪自体は体に生えているものなので、肉体の延長なのです。ただ、腕や指を切れば強烈な痛みを感じますが、髪を切っても痛くはありません。しかし、人に髪を切られたり、強制的に切ることを命じられれば、心がとても痛むのです。髪というものは、人間の心とか魂とか精神の外在的表現なのです。

日本では、丁髷が武士の大和魂とつながっていると今でも考える人がいます。辮髪もそうなのです。中国でも辮髪は中国人の精神や伝統と密接な関係があり、切る時には実に大変な問題が起こりました。中国人のイメージをマンガにした時、今でも辮髪の絵が描かれることがあります。今は誰もそんな髪型はしていませんが、辮髪というのは中国人の外形としては欠かせないシンボルになっています。しかも、この髪形はもともと満州族の風習を清朝という異民族王朝の下で漢民族に押し付けたものなのです。それが約300年ほど続いて、漢民族にとっても祖父や父がすべてその髪型なので伝統となっていました。

中国の断髪は異民族支配に反対する意思表示

清朝末期になると中国には、清朝を倒して西洋化、近代化を進めようと考える人たちが多く出てきました。日本では文明開化、明治維新というように直接、日本対西洋という構図になるのですが、中国の場合は西洋化の前に対清朝という屈折があるのです。まず満州族の王朝である清朝を倒して漢民族の誇りを取り戻し、それから西洋と相対峙しようとしたわけです。アヘン戦争以降、清朝は西洋列強にいいようにされましたが、これは清朝の国の治め方がよくないという方向に世論が形成されていったのです。

そこで辮髪を切るということは、体を張って清朝の支配に反対するという意思表示になりました。革命を目指していた人たちは、自分で辮髪を切りました。また、自分の意志でなく切られた人もいました。ただ、髪は一度切ると伸びるまでに時間がかかります。その間に髪を切ったことで生命の危険が迫ってくることもありました。そういう時は、にせ辮髪、かつらが使われました。中国における断髪は、一つの体制に対して自分の立場をはっきりさせるためにある種の記号、身体表現として行われたのです。

日本の断髪は断髪令が出たわけではなく、明治6年に随意令という形で出されました。個人の意思でまず刀を捨て、髪を散切り頭にして、洋装にしましょうというお達しです。罰則はなかったのですが、多くの人々はこの随意令に従って、自ら進んで髪を切ったのです。一方で、それでも頑なに丁髷を切らない人たちもいました。その人たちに対して県によっては税を課して、服従させるところもありました。断髪によって、世間の目に対する個人の態度や明治政府に対する忠誠心が試されたのです。

書籍

文明開化、富国強兵を進めていた日本は、すでに文明国であるという意識がありましたから、刀と丁髷という封建時代のシンボルを捨てることに多くの人は徹底的に抵抗しなかったかもしれません。日本は不平等条約改正など西洋と対等な関係を築く上で様々な政策を取りましたが、断髪も大変重要な意味を持つそれらの政策の一環だったといえます。

朝鮮半島の椎結についての研究は、文化比較の手法の一つである三点測量の視点から、修士論文をもとに著書『断髪 近代東アジアの文化衝突』を書く時に加筆したものです。朝鮮半島の場合は、日本が西洋化の政策をすすめようとした時に自分たちと同じような施策を行い摩擦が生じました。朝鮮半島でも伝統的な髪型が洋風に変わるということは、いずれ自然に起きたと思うのですが、きっかけをつくったのは日本です。植民地だった朝鮮半島に日本が力づくで西洋化を持ち込んだために強い抵抗が起きました。

海外から抵抗なく学ぶ日本と中華思想の中国

西洋文明に対する日中の受容と抵抗を比較検討して、もともとの文化に対する意識の違いが改めて浮き彫りになりました。中国は中華です。中華の華は文化ですから、自分たちの国の中に一番優れた文化があるという考え方をします。中国人は、自分たちの文化に対する絶対的な自信を持っているのです。また中国には、周りの国々に文化を伝えるという意識が伝統的にあるのです。一方、日本は古くから大陸からの文化を受容して、文化は海の向こうからやってくるという考え方が自然に国民の精神の中に根づいているように思います。外からきたものを学ぶということにそれほど抵抗感がないのです。

西洋文明が目の前に現れた時、日本はさっと西洋に方向転換しました。中国文明を受け入れていた時は「和魂漢才」といい、近代以降は「和魂洋才」といって、日本人の魂を守りながら優れた学問や文化、技術を受け入れてきました。思考のパターンは一緒なのです。

中国は自分たちが情報発信する側だと考えてきましたから、近代西洋文明が入って来た時にまず自分たちより優れた文明があると認識するのに時間がかかりました。アヘン戦争以降、さんざんやられてやっと向こうのほうが強い、優れている、合理的だと認めて学ぼうとしたのですが、船が大きい分、方向転換が大変だったのです。そうするうちに日本がうまく立ち回り、西洋列強の仲間入りをして、アジアで唯一の勝ち組になりました。日清戦争では日本に清国が大敗しましたが、それで中国人はまた大きなショックを受けたのです。

中華思想がいつ生まれたかというのは難しい問題です。中国歴代の王朝には書き記された「正史」があり、中国人にとっては歴史イコール文化と考えられています。日本では中国人はなぜそんなに歴史問題にこだわるのかと思われていますが、中国人にとっては歴史こそが文化の核なのです。

西欧を知り尽くし、国粋主義者となった中国文人

こうした強い中国人としての意識をもった興味深い人物として、辜鴻銘(ここうめい)という清末期の文人がいます。私は辮髪の研究を通じて辜鴻銘について知り、強い関心を持って研究を進めてきました。芥川龍之介が北京に行く時、周囲の人から「紫禁城は見なくても、辜鴻銘には必ず会って来なさい」といわれたそうです。その訪問記を芥川が書いているのですが、辮髪を蓄えた辜鴻銘が会うなり辮髪を振って「My tie(私のネクタイです)」といったそうです。その人物像を芥川が面白おかしく描写しています。

辜鴻銘は、両親が西洋人の宣教師に手伝いとして仕えていました。その宣教師が母国に引き上げる時に「この子は聡明で将来があるから」と両親の許しを得て、イギリスに連れ帰ったのです。彼は10年以上も欧州に滞在して、イギリスで学び、さらにドイツに渡り、英語とドイツ語だけでなく7カ国語が堪能でした。また、英文学だけでなく土木工学も学び、学位も取っています。ところが、子供の時に西洋に渡っているので、逆に中国の古典とか言語とかを系統立てて勉強したことがなく、そこにコンプレックスを感じていました。ただ外国にいればいるほど中国人としてのアイデンティティーを求める意識が強くなり、中国の歴史や文化について勉強し始めます。

辜鴻銘は帰国後も一生懸命中国人としての素養を身につけるため、さらに猛烈に勉強します。しかし当時の人からみると、辜鴻銘の文章はなっていないようなのです。そこに彼の葛藤があるのですが、実際に辜鴻銘が書き残した文章はほとんどが英語なのです。当時はヨーロッパの文化を中国語で紹介するのが主流でしたが、辜鴻銘は中国文明について英語で書いてヨーロッパに発信していました。もっと自分たちの優れた文化や哲学、思想を紹介したかったのです。辜鴻銘は海外に行ったことで、逆に中華思想一色に染まった国粋主義者になったのです。

辜鴻銘は古い中国が好きだったのです。昔風のいわゆる儒教道徳とか倫理を守って生活している中国人が彼にとって真の中国人なのでした。帰国後に清朝が倒れ、中華民国になって近代化した中国が気に入らないのです。辜鴻銘はそういう近代化は堕落だといいます。ずっと清朝にこだわるのです。清朝までの皇帝、君主のいる時代がよかったのです。彼は日本に好感を持っていましたが、それは当時の日本が立憲君主制だったからでした。中国も皇帝をなくすべきでないと考えていました。

西欧文明に抵抗し、中国から西欧に情報発信

インタビュー風景

彼はとてもユニークで、みんなが口にしないことでも忌憚なく平気で発言しました。文化的怪物、化け物と周りから呼ばれましたが、それでも絶対自分の信念を曲げない頑固な爺さんでした。帰国後も北京大学で教授を務めましたが、進歩的な学生から皮肉交じりの批判を受けました。国のために働けるポジションが与えられることもなく、活躍の場はあまりありませんでした。

私は辜鴻銘とその著書『中国人の精神』やキリスト教認識と批判などをテーマに4本の論文を書きました。辜鴻銘とキリスト教についていうと、宣教師について欧州に行ったわけですから、当然入信すると考えるのが普通ですが、全くそんな素振りさえないのです。最初は、そのことを知ってとても驚きました。ところが、聖書とかキリスト教の文化にはとても精通していて、英語で文章を書く時には聖書などから巧みに言葉を引用しています。でも、信仰としてのキリスト教は拒み続けたのです。

彼は中国の文化史の中では傍系の人物ではありますが、西洋文明を知り尽くした上で抵抗した中国人の代表であり、ただ抵抗しただけでなく、中国文化を外に広めようとしました。並外れた語学力を生かして、英字新聞に投稿して中国を弁護したり、西洋を批判したりもしました。

ここまで西洋近代化の受容と拒否の問題についてみてきました。私は現在引き続き辜鴻銘の研究を深めたいと考えると同時に日本への留学生をはじめとする中国人の手による日本研究や日本文化論、中国が日本文化をどのように理解してきたかについて関心を持っています。近代より前は大陸文明から、近代以降は西洋から文化を受け入れた日本に中国人からみてオリジナルなものはあるのか否か、あるとすればそれは何かという問題です。

大学院での勉強について

私は修士課程に進学して良き指導教官や先輩・友人に恵まれ、自由な発想を許容する環境に大きく助けられました。大学院ではもちろん多くの文献や書籍を読み、先達に学ぶことからはじめますが、自主性も大事であり、与えられたものだけではなく、自ら思考して多角的に物事を見る目をぜひ養ってほしいと願っています。